スポット088 (6/8)「百嶋神社考古学」からみる古代の伊豫国 “山田 裕論文の掲載について”
第三章 『御鎮座本縁』、『社記』、『年譜考』からみる古代の伊予
1.『御鎮座本縁』
「八代日本根子国牽天皇(孝元天皇)御宇、彦狭男命、神託に依りて、大山積皇大神を伊豫国遠土宮(1)り給ふ時に、二名国分彦(2)参り会へり。親王の問ひて曰く、汝は何と云ふ人ぞ、答へて曰く、吾れ伊予津日子の末、風早国分彦命(2)と申す。吾は元大山積の裔なり。君、二名州(3)を治め給ひて(中略)庶幾は汝と与に家を合はせ、國を治めんと思ふと曰ひて、國分姫を妻として小千命を生み給ふと云々。」
(1)遠土宮
同宮は、越智族を称えた通り名と考えられる。
(2)二名国分彦
二名国分彦こと風早国分彦は、自らの来歴を伊予津日子の末、大山積の裔と称している。「末」は直系の子孫、「裔」は血筋をひくの意である。
(3)二名州
同国が何処にあるかは不明。
2.『社記』
「十代崇神天皇御宇七庚寅年春二月(中略)
天皇問曰、其面足・偟根尊・大山祇神、宮殿在二何處一耶。答曰、在二二名洲(1)之内滄海四周可怜三島之小汀一矣。(中略)彦五十狭芹命發レ路到二吉備國一、藎誅二西国荒戎一。又師二船師一發二吉備小島一而到二二名州一、風早浦起二行宮一以居レ之。是謂二遠地宮(2)一。今在于風早浦國津彦神社(中略)五十狭芹命見問曰、汝誰也。對曰、臣是地神大山祇裔伊豫津彦子名風早國分彦。(中略)彦五十狭芹命甚悦日、汝庶幾爲二戮力一、一心祭二大神一能理レ國耶。對日、奉仕矣。由以二國分彦一為二導入一渡二瀬戸之浦一、敬-二祭三島大神一。然後歸二于風早浦一、建二宮室一而留住。且ク敬-二祭太神。遂娶二國分彦女和気姫一為レ妃、生二小千命一。書曰、以二國分彦一為二國導一平二南國荒戎一。然後館造二伊豫神崎郷一住給布。故號二伊豫皇子一。(3)(中略)同御宇(十代崇神天皇)十七庚子年夏、以二彦五十狭芹命男小千命一(4)定
-二賜二名國造一而爲二三島太神祭主一。于レ時年七歳。及レ長造二館於當國大濱郷一住焉。是越智始祖也。」
下線部について、
(1)二名州
船で吉備の小島(現在の児島半島)を出発し、二名州に到着したとあり、現地の地名、風早浦・瀬戸之浦より、大三島周辺が二名州と考えらえる。
(2)遠地宮
二名州内の大三島の狭小な波打ち際に立地。
遠地宮を注で、「今風早浦の國津彦神社」とあるが、同社は旧北条市内にあり、大三島とは隔絶し、加えてご祭神に大山祇神・草野姫・大己貴が祀られていないので、混乱した記事と考えられる。
風早浦を遠地宮とする論者もいるが、彦五十狭芹彦命こと孝霊天皇第三皇子吉備津彦が風早浦に帰って、自らの宮室を建てたとするのが素直な解釈である。
(3)風早國分彦
本文は、伊豫津彦の子で、五十狭芹命の与力として仕えるとあるが、一書には、国を導き、南国の荒戎を平定し、その後、伊豫神崎郷に館を建て、居住したことにより、伊豫皇子と名付けられるとある。
伊豫郡神崎郷は現在の伊予郡松前町周辺で、大三島とは隔絶し、風早國分彦と伊豫皇子を混同した記事と考えられる。
(4)小千命
崇神天皇十七年に、七歳で二名国造を賜り、また三島大神の祭主となり、長ずるに及び、大濱郷に館を建て、其処に住んだとあり、越智族の始祖とされている。今治市大浜町の大浜八幡神社は「越智氏族発祥の地」と伝えられている。
小千命はその名が示す通り、越智族の祖大山祇神の系譜につながる人物と考えられ、風早國分彦との関係は不明である。
*下線部大浜八幡神社
主祭神:乎致命
配祭神:饒速日命・天道日女命・市杵島姫命・仲哀・応神天皇など
由緒によれば、「乎致命、東予地方を開拓し、郷土繁栄の基礎を築いた神で、越智・河野・矢野・村上氏等百有余氏の祖」とある。
3.『年譜考』
「十代崇神天皇御宇、天皇神教を得て天神地祇を敬祭り玉ひ、同拾年十月丙子曰、孝霊天皇第三皇子彦佐男命(1)を以て西南道将軍と為し、又依二神託一、詔して二名州ニ(2)所在三嶋大神の祭主となし玉ふ。此時西寇乱をなす。彦狭男命卒兵て吉備国ニ至り尽く誅レ之。(中略)時に有二一老人一、其前ニ詣、彦佐男命見問曰く、汝誰や。対曰、臣是地神大山積神之裔、伊予津彦子、名は風早国分彦(3)ともふす。(中略)宮殿を建て留り住玉ひ、国分彦女和気姫を妻と為し、小千命ヲ生玉ふと云々。越智一小千後作二。(中略)同御宇十八辛丑年夏、詔して小千命を以て封二伊予國造一、三嶋大神の祭主(4)となし玉ふ。」
下線部の要旨について
(1)孝霊天皇第三皇子彦佐男命
孝霊天皇の第三皇子について、『記』は、母が意富夜麻登玖邇阿礼比売の命で比古伊佐勢理?古の命、亦の名は大吉備津日子の命、『紀』では、母がハエイロネで彦狭嶋命・稚武命とし、吉備臣の始祖としている。
彦佐男命を西南道将軍と記している点について検証すると、中国の史書『魏志』倭人伝、『後漢書』倭伝、『翰苑』巻三十、『梁書』巻五四諸夷伝・倭はいずれも行路記事から、倭人の国「倭国」は九州内を示している。狭義には福岡県内であることは前述した。九州から見て、吉備国への道路を西南道とするのは首をかしげざるを得ない。「倭国」を大和に見立てたとしても山陽道が相応しい。
筆者は『紀』との整合性を図るため、「西南道」という造語を用いたと考えられる。
(2)二名州
『「記」の島生み神話に現在の四国を「伊豫の二名島」とし、伊予の国を「愛比売」としている。
彦狭男命の行動領域は、大三島周辺である。したがって、吉備津彦が統治支配したとする二名州はその行動領域に一致すると考えられる。
大三島周辺とする二名州ふたなのくには、吉備国と比較するとあまりにも狭小地域で、彦佐男命が統治支配する国としては不釣り合の感をそぐえない。また伝承を矮小化するおそれもある。
そのため、二名州ふたなのくにの地を誇大化する必要に迫られ、引用されたのが『記紀』が記す「島生み神話」で、本来の大三島周辺に代えて、四国全体を表象する「伊予之二名州・伊豫二名州」を引用したとする論者もいる。
私見は、古代の伊予の国は「愛比売」と呼ばれ、後に「越智と伊余」という二つの国に分離したと考える。したがって、「二名州」は本来の国名ではなく「越智・伊余」両国を指すと考える。
(3)風早国分彦
大山積神の裔で伊予津彦の子とあるが、その名が示す通り、「風早」は旧北条市周辺で、國津彦神社の由緒には大山積神との関係が見いだせない。また伊予津彦を祀る神社は、風早國分彦を祀っていないし、由緒にもみえない。
(4)小千命
初代伊予國造とあるが、『先代旧事本紀-国造紀』にその名はみえない。