スポット088 (8/8)「百嶋神社考古学」からみる古代の伊豫国 “山田 裕論文の掲載について”
(7)愛比女命
伊余豆彦命神社の主祭神、伊予豆比古命(=孝霊天皇皇第二皇子伊予皇子)は伊予豆比売命(伊予豆比古命の妃)と対応し、また伊與主命と愛比売命が対応する。松前町の伊豫神社の主祭神彦狭男命(=伊予皇子)は伊予津姫命(伊予皇子の妃)と対応し、また日本根子彦太瓊命は細姫命(孝霊天皇の妃)と対応する。伊予市上野の伊豫神社の主祭神月夜見尊(=大山祇神)は愛比賣命(=大山祇神の妃草野姫)と対応する。
したがって、伊與主命は大山祇神であり、愛比売命は妃草野姫と考えられる。
表1並びに神々の考察により、九州の神々が三世紀初め頃より、古代の伊予国に進出し、在地勢力を習合していった歴史的変遷がみられる。
第一段階 越智族の進出
越智族の祖である大山祇神は、妻草野姫を伴い、越智族を率いて大三島、大島・伯方島の島嶼部
を含む東予地方に進出後、中予から南予地方にまで支配を広げ、国名は、草野姫の別称愛比売命
から「愛比売」と称し、その後、国名は「越智」と「伊余」の二つの名で称された。越智族は東
予地方に土着したと考えられる。
第二段階 天之火明命の進出
越智族進出後、四半世紀を経て東予地方の西条市周辺に天之火明命が進出したと考えられる。「
神々の系図」によれば、饒速日尊と天火明命は同一神と指摘している。この指摘が正しければ、
風早国の國津彦神社が櫛玉饒速日尊を奉斎しているのは奇異に感じる。本来ならば、天火明命を
奉斎してしかるべきであろう。したがって、物部阿佐利は、饒速日尊の直系の系統を継承してい
るとは考えられない。おそらく、物部阿佐利は土着した職能集団である物部一族の一人であったと考えられる。
第三段階 武國凝別の進出
越智族進出後、半世紀以上を経てニニギノミコトを祖父とする武國凝別が西条市~四国中央市付近に進出。
第四段階 伊予皇子の進出
武國凝別の進出後、ほどなく中予に孝霊天皇の第二皇子で、孝元天皇の弟伊予皇子が進出し、松
山市南部・伊予郡松前町・伊予市東部を支配したと考えられる。その時期は4世紀前後と考えられる。
以上の歴史的変遷の成立の背景には、九州では多くの神々(実態は、各地の王及びその子弟)が
乱立し、新天地を求めざるを得なかったことに起因する。新天地への進出に際し、彼らの部族が経済
的にも自立でき、また移動を可能にする地が古代の伊予国であったと考えられる。
おわりに
故百嶋氏が作成された「神々の系図」の絶対年代は、福岡県那珂川町にある「天之御中主神社」で、天照大神(神武天皇の姉ではあるが、当初は部下として従い、その当時の名は大日孁貴、神武天皇の政治的しくじりにより、女王となり名を卑弥呼に改め、最後は天照大神として崇められた)の生誕年齢を発見したことにあると述べられている。私も同社を訪れたが、そのような痕跡は認められなかったし、管見も見あたらなかった。
故百嶋氏は、ある程度のところまで公表並びに示唆を与えてくれるものの、周囲への配慮から絶対に秘すべき事項は曖昧にされたままである。
「神々の系図」に記されている多くの神々を中国史書と検討すると、約80年の誤差、具体的には約80年古いようである。
年代誤差を別にすると、同系図には一定の信頼性が見てとれるのは私だけではないだろう。
本論は、拙稿『大山祇神社の神々の大系』を大幅に改変した。というのは、松山で過ごした五年間では、数々の謎に迫れなかったからである。
のどに刺さっていた刺が、「神々の系図」によりすっきり取り除けた思いが、本論の動機である。
故百嶋神社考古学を紹介していただいた古川清久氏には、紙面を借りて感謝の意を表したい。
百嶋由一郎最終神代系譜(部分)百嶋由一郎系譜を必要とされる方は直接090-6298-3254090-6298-3254
(古川)まで