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392 佐賀県唐津市の鏡山はカカ(蛇)を見る山だった

 392 佐賀県唐津市の鏡山はカカ(蛇)を見る山だった

20160901

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

 

以前、ひぼろぎ逍遥 257 日田市の「加々鶴」地名について “「カカ」を「蛇」とする民俗学者吉野裕子説から”に於いて、「カカ」が「蛇」であるという事を日田市の「加々鶴」の例でご紹介しました。

詳しくはそちらを読まれるとして、今回は、佐賀県唐津市に聳える鏡山もこの「カカ」を「蛇」とする類型地名ではないのかという提案をするものです。

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再掲。257 以下 ひぼろぎ逍遥 

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号)線の加々鶴バス停386号(現210国道

 

 もう亡くなられて久しいのですが、吉野裕子という民俗学者がおられました。

 その著書の一つに非常に知られた「蛇」があります。

 この論旨を我流に要約すれば、案山子(カカシ)とは田んぼの収穫を荒らすネズミや雀を追い払う蛇を擬製したものであり、「カカシ」の「カカ」が蛇の古語で「シ」は人を意味している。

 それの説明として、正月の「鏡餅」の「カガミ」も「カカ」+「ミ」(巳)であり、蛇がトグロを巻いているものを豊穣のシンボルとし、感謝を表したもの…となり、蛇の一種として「ヤマカガシ」があることも蛇が「カカ」と呼ばれていた痕跡となるのです。以下、ネット上から参考…

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日本原始の祭りは、蛇神と、これを祀る女性(蛇巫=へびふ)を中心に展開する。
1.女性蛇巫(へびふ)が神蛇と交わること
蛇に見立てられた円錐形の山の神、または蛇の形に似た樹木、蒲葵(ピロウ=ヤシ科の常緑高木)、石柱などの代用神や代用物と交合の擬(もど)きをすること。今も沖縄および南の島々に、祭祀形態として残る
2.神蛇を生むこと
蛇を捕らえてくること
3.蛇を捕らえ、飼養し、祀ること
縄文土器にはたくさんの蛇の文様が登場する。縄文人の蛇に寄せる思いは、次の2点である。これらの相乗効果をもって、蛇を祖先神にまで崇(あが)めていった。
1.その形態が男性のシンボルを連想させること
2.毒蛇・蝮(まむし)などの強烈な生命力と、その毒で敵を一撃で倒す強さ
埴輪の巫女が身につけている連続三角紋、装飾古墳の壁に描かれる連続三角紋・同心円・渦巻紋も、蛇の象徴であると推測される。
稲作の発達につれて弥生人を苦しめたのは、山野に跳梁(ちょうりょう)する野ネズミだった。ネズミの天敵は蛇である。弥生人は、ネズミをとる蛇を「田を守る神」として信仰したと思われる。
日本人は、蛇がトグロを巻いているところを円錐形の山として捉えてきた。それが円錐形の山に対する信仰につながる。三輪山はその名称がすでに神蛇のトグロの輪を意味し、神輪(みわ)山の意がこめられている。

蛇 日本の蛇信仰(吉野裕子著) - tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」より

 

 お分かり頂けたでしょうか?  以上、再掲。

 さて、今回は唐津市の鏡山の意味です。

福岡市周辺の方が西に向かうと必ずこの山の下を通られるので鏡山については良くご存じだと思います。

一般的には「鏡山の名前は、神功皇后が山頂に鏡を祀ったことに由来するといわれている」とか、酷い話では観光バスのガイドが言うような「鏡山は屈んでいるから低く見えるが、立ち上がったら本当は高い山なんだ…」といった話までが横行しています。

 

 鏡山(かがみやま)は、佐賀県唐津市にある山である。標高284メートル。

鏡山の名前は、神功皇后が山頂に鏡を祀ったことに由来するといわれている。また、松浦佐用姫(まつらさよひめ)が山頂から大伴狭手彦の船を見送ったという伝説の地であり、佐用姫がそでにつけていた領巾(ひれ)を振りながら見送ったということから、領巾振山(ひれふりやま)の別名でも呼ばれる。

頂上には鏡山神社がある他、愛する人との別れで泣き続け石になった佐用姫の悲恋伝説にちなみ、恋人たちのパワースポットとして佐用姫神社が祀られている。

また、鏡山ができたとき、上を切り取って海に置いたのが高島、その上を切り取ったのが鳥島という言い伝えがある。鏡山と高島はともに台形であり、見た感じの大きさも丁度よいものである。同様に、巨人が鏡山に躓いて転んだため怒り、頂上部を殴り飛ばしたことで高島などが出来たという。

 

 一例ですが、HP風水パワースポット検索 から

 

 以前から、唐津市の鏡山は元より九州島だけでも10以上は簡単に拾える「鏡山」という地名の意味について考えていたのですが、“唐津の鏡山の意味については粗方見当が着いた“と一人ほくそ笑んでいます。

さて、唐津からバイパスで東の福岡方面に向かうと正面に非常に印象的な三角形の山が見えて来ます。

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吉野裕子民俗学の延長上に唐津市の鏡山も考えてはいたのですが、その形状から御鏡餅にも、とぐろを巻いた蛇にも見えず、そこで思考中断に陥っていたのですが、今回、もしかしたら東の浮嶽(確認はしていませんが多分浮嶽でしょう)を見る山が鏡山ではないかと考えたのでした。

 つまり鏡山とは、(カカ=蛇+巳)山ではなく、(カカ=蛇が見える)山ではないかと言うのがその意味です。

 話としてはこれだけの事ですが、この話には先行する伏線のような話があったのです。

福岡、佐賀の県境に近い佐賀県の旧三瀬村に鏡神社があります。

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この鏡神社の境内(参拝殿中央からが鮮やか)から西を見ると、これまた印象的な三角形の山が見えるのです。

数年前にこの神社を訪れた際に、この事に気付き、この鏡神社とは鏡が奉納されたからなどではなく、稲作にまつわる豊穣のシンボルとしての蛇=カカが見える神社が本来の意味ではないかと考えたのでした。

 ある意味でこの伏線があった事からこそ、唐津の鏡山もカカを見る山ではないかという仮説にある程度の確信を持てたのだと思うのです。ただ、この鏡神社についてはそら恐ろしい背景があるのです。

 実は、この旧三瀬村の鏡神社一帯は「法隆寺は移築された」を書かれた米田良三氏の近著「長谷寺考」に於いて500年代の倭国=九州王朝時代の長谷寺の大回廊の橋脚があった場所とされている場所なのです(これについては話が逸れるため、米田良三、長谷寺、三瀬村、源氏物語…などでダブル検索を行ってください)。

 そもそも、長谷の初瀬川の初瀬川が現在も流れている場所であり、古代九州王朝の宮廷文学であった「源氏物語」の舞台である可能性が高い場所なのです。

関心をお持ちの方は、三瀬トンネルを抜け現地をお尋ね下さい。

 

移築前の「倭国」長谷寺の全体像を理解する上で、『長谷寺考:米田良三著』のp136以降を抜粋引用し、以下転載する。

 517年に長谷観音が造られたとの言い伝えが現在の長谷寺にある。素直に観音像が彫刻された年次の伝承と捉えてみよう。

 倭薈(奈良の帝)が吉野ヶ里近辺の奈良京に都を定めたのは514年から522年の寛平年間である。即位は510年であり、即位後の四年間は「やま」と呼ばれた現在の大宰府都城が都である。

514年に奈良(平城)に都を移し、秋には立田川辺に立たれたと思われる。構想を練ること1年、伝承のように彫刻の材料である巨木が存在して彫刻するのに500日程を要したのではなかろうか。

 回廊は彫刻と同時進行で造られた可能性はあるが、観音像の納まる鞘堂である本堂は彫刻が完成してから造り始めたものと思われる。

そして倭国滅亡の672年以降に解体・移築されたのが現在の奈良の長谷寺本堂である。泊瀬観音像のために特別に造られた世界に唯一の建物であり、彫刻も建物も500年代初頭に倭薈(奈良の帝)が造ったものが現存するのだ。

 現在の富士村下合瀬の萬福寺にはおそらく「経蔵」が、三瀬村杠(ゆずりは)の善正寺には「鐘楼」が建っていたと思われる。後者は「尾上の鐘」と呼ばれる名鐘だが、現在は基壇の石垣と向いに松尾と言う地名が残るのみである。

「経蔵」と「鐘楼」は江戸時代の初めに移築されて現在、京都の知恩院にある。

<途中略>

ところで、立田川は泊瀬川に名称が変わる。現在は初瀬川である。『長谷寺縁起』には神河(みわかわ)に川上から宝塔が流れてきて瀬に泊まったので、神(みわ)を改め泊瀬としたと記す。立田川、龍田川、神河(みわかわ)、三輪川、泊瀬川、初瀬川は同一の川である。

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blog「大和朝廷は、九州「倭国」の【筑紫朝廷と同じ血族・分流 】である。」 から転載

 

その話は置くとして、鏡神社からのオカガミ山をご覧ください。

 

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鏡神社参拝殿中央から西を望むと三角形の御鏡山が見えるのです

 

 

 

  

 


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