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extra013 宇佐神宮とは何か? ⑬ “御許山の別名=馬城峰(マキボン)とは「三国史記」の目

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extra013 宇佐神宮とは何か? ⑬ “御許山の別名=馬城峰(マキボン)とは「三国史記」の目支国のマキ

「ひぼろぎ逍遥」「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)奥の院 共通掲載

201504015

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


101 宇佐神宮とは何か? ⑪ “安心院の妻垣神社は自称神武こと贈)崇神天皇を供応したか?において、

「記」「紀」に言う神武天皇とは“東征の神武”を含め初代の神武(カムヤマトイワレヒコ)ではなく、“自称神武”“神武僭称”第10代崇神天皇(ハツクニシラススメラミコト)だからなのです。


と、しましたが、崇神の和風諡号「紀」では御間城入彦五十瓊殖天皇(ミマキイリヒコイニエ)とも御肇國天皇(ハツクニシラススメラミコト)とし、「記」でも御真木入日子印恵命(ミマキイリヒコイニエ)とします。

してみると、そのマキとは、宇佐神宮上宮の遥拝所から崇める御許山の別名が馬城峰(マキボン)と呼ばれている意味が分かってもらえたと思います。

この、贈)崇神天皇に関わるマキは外にも馬城小学校などとして現地でも確認できます。

ここで、敬愛する渡辺光敏氏の「日本語はなかった」から一部をお読み頂きます。

妻垣神社に現れた神武天皇なるものが、初代神武天皇ではなく、藤原によって第10代と超格上げされた贈)崇神天皇の事である(この事は日向から東征した神武も)としたことが多少とも理解頂けるでしょう。

無題.png

無題.pngでは、藤原氏は九州王朝の臣下でしかなかった崇神を贈)崇神天皇とまで格上げしたのでしょうか?

 それは、彼らの出自そのものがそこにあったからなのです。

 事実、妻垣神社の縁起でも、天種子命が藤原氏の遠祖であるとしています。

無題.png

妻 垣神社で供応した宇佐津彦、宇佐津姫の一族が藤原の遠祖である天種子と合体しその後の薦神社の社家や宇佐神宮の到津家になっているのですが、だからこそ、 妻垣で供応されたとする贈)崇神を初代神武としたいのであり、九州王朝の痕跡を消す事によって、盤石の近畿大和王権(実質は藤原王朝)を確立しようとした のです。

無題.png



どうやら近畿大和朝廷が、何故 宇佐神宮をこれほどまでに重視し贈)崇神を神武であるかのように装ったのかが見えてきました。皆さんも、再度、百嶋神代系譜で確認して下さい。

 ここで「記」「紀」に「一柱騰宮」、「足一騰宮」と書きとめられた時代を考えて見ましょう。

 この神武が藤原によって高下駄を履かされた贈)崇神天皇だったとしましょう。

 では、それを出迎えた(受け容れた)菟狭國造の祖ともなる菟狭津彦と菟狭津媛とは如何なる一族(民族)だったのでしょうか?

 まず、贈)崇神は大山咋の子であり、大山咋は阿蘇の草部吉見の子です。ただ、これは父(男)系として見た場合の話であり、母(女)系として見れば、鴨)玉依姫、活)玉依姫…瀛氏、白族の流れとも言えるでしょう。

 そこまで考えれば、宇佐の安心院で供応した一族も同様(阿蘇系、白族)だったと考える余地は十分にあるわけで、 既に三女神社があることはお知らせしましたし、瀛氏の宗像大社の一族が先住者としていた事が見えてきます。

他に、大神比義の一族、唐(韓)島氏もありえるのですが、後に、各々排斥された事を考えれば、恐らくこの瀛氏、白族の一族が、宇佐神宮の原初的な一族だったことが見えてくるのです。

この点は今後とも探求が続きます。

最後に、百嶋先生は安曇族の故地もここ安心院であり、直接的には温見(ヌクミ)地区で、本来はアツミなのだと言われていました。熱海温泉の「熱海」も渥美半島の「渥美」もこの派生したものなのです。

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