スポット092 蘇民将来 巨旦将来と百嶋神代系譜 ③ 分離先行トレッキング
20170213
太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久
2017年3月、熊本のメンバー3~40人を対象に、宮崎県五ヶ瀬町鞍岡をエリアに4社を巡る神社トレッキングを企画しました。
ただ、熊本地震の影響で尚もこの一帯に入るルートには障害が出ており、かなりの距離もあることから年度末でもあり、多くのメンバーが一度に集まる事はなかなかできません。
このため、当日参加できない5~6人と現地を廻る小規模なトレッキングを行う事にしました。
朝から素晴らしいばかりの青空が広がり、反って本番の20日が雨でなければという思いがつのります。
整のための分割開催ですが、下調べの意味もあり、未踏の天津神社への下見と言った意味もあります。
由緒から見る限り、まず、本殿に祀られているのはスサノウ、オオナムチ、イザナミの三神であると考えられます。
まず、注目して頂きたいのは、イザナミがいるもののイザナギがいないことです。
百嶋神社考古学ではイザナミとイザナギはスサノウを産んだ後に別れており、ここではそれが反映された祭神になっている(熊野もそうですが、だから黄泉の国からイザナギは鬼女に追われ死んだことにしてあるのです)のです。
そもそもイザナミは瀛氏の金山彦の妹であり、五瀬命(イツセノミコト)の母なのです。
そもそも祇園神社が鎮座する鞍岡は五ヶ瀬町にありますよね。 単なる偶然だと思われますか?
祭神に奇稲田姫神=櫛稲田姫が書かれているのも、金山彦が大幡主の妹である埴安姫との間に産んだ姫神だからなのです。
そして、蘇民将来、巨胆将来の巨胆将来こそが阿蘇神社の神殿最奥部に祀られている第二代綏靖天皇とされた神沼河耳命なのです(赤枠)。
結局、神殿に祀られている祭神を見ると、祇園神社がイスラエル系=瀛氏の金山彦を中心にスサノウ系、金山彦系で固められた神社である事が分かるのです。
では、なぜか、神殿から出された?若しくは境内摂社として神殿外に置かれた祭神を考える事にしましょう。
まず権現神社から考えますが、誤植があります。
それは最後尾の熊野天須美神です。
これは、通常、熊野夫須美命などと表記される大幡主系=熊野系の主神のお一人、瀛氏の金山彦の妹であり、イザナミからクマノフスミと名を改められた五瀬命(イツセノミコト)の母神(熊野那智大社)であり大幡主(熊野速玉大社)のお妃神なのです。
良く分からないのが権現神社の筆頭に掲げられた家都御子神です。
このような表記に出くわしたことがないため、分からないながらも一応の提案をしておきます。
イザナミ改めクマノフスミ(熊野那智大社)と大幡主(熊野速玉大社)の御子神とすればヤタガラス=豊玉彦で良いはずで、×イチ夫婦の御家の御子神との表現は、熊野権現、熊野修験の影響がこの地まで及んでいた事をまざまざと見せつけられた思いがします。
そう言えば、五ヶ瀬町には南朝方から出された木地師などへの綸旨が残されている事とも符合する事に思い至ります。
※木地屋について
木地屋とは、轤轤でお盆やお椀などをつくりながら全国を渡り歩いた木地屋職人の人たちである。木地屋には山の八合目以上の木は全国どこでも切ってよいとされる朝廷からの天下御免の免許状が与えられていた。
文徳天皇の第一皇子惟喬(これたか)親王(八四四ー八九七年)は二十九歳の時、都をのがれて近江の国小椋郷に移り、貞観十四年(八七二年)に出家して素覚法親王と名乗った。親王は読経中に法華教の経典の丸い軸から轤轤を思いつき、その技術を付近の住民に教えたという。
こうした由緒に基づいて木地師は小椋郷をふるさととし、惟喬親王を轤轤の神様と仰いだ。祖神の氏子に対し朝廷は木地師の特権を認めた綸旨(りんじ)、免許状、鑑札、印鑑、往来手形などのいわゆる木地屋文書を与え身分を保証した。木地師はこの文書を携えて全国各地に散り、独自に生産活動を行うようになった。
氏子には二派あり、一方を筒井公文所、もう一方を高松御所として、氏子狩と呼ぶ制度によって全国的な組織に統一されていく。
氏子狩は小椋郷から奉加帳を持って諸国に散在する木地師を訪ね、祖神への奉加金を徴収し、人別改めを行った。
木地師研究家の杉本壽氏の資料によると、正保四年(一六四七年)から明治二十六年(一八九三年)まで、奉加帳に登録された木地師の延べ人員は筒井公文所約五万人、高松御所約一万人といわれる。
当地では、明治三年(一七六六年)鞍岡山、木地屋九軒とあり十三名分の奉加金が登録されている。しかし江戸末期からはその消息を絶った。代わって明治初年、三ケ所地区に小椋家が移住してきた。小椋家には木地屋文書があり、家宝とされている。木地屋文書は、江戸時代まで先例通り許可したが、明治時代になり土地の所有権制度が確立されてからはその慣例は無効となった。木地師は特権が認められなくなると、山から山へ渡り歩くことをやめて、農耕を兼ねるようになり、定住してきた。
五ケ瀬町史(昭和五十六年発行)によると、小椋家の木地屋古文書には次のようなものがある。承平五年(九三八年)左大丞(太政官の左弁官局長官)の名で出された免許状で『器質の統領として、日本国中の諸国の山に立ち入ることを免許する』という書状。
承久二年(一二二〇年)惟喬(これたか)親王を祭る筒井神社にあてた大蔵政卿雅仲、民部卿頼貞、藤原定勝、連署の惟喬親王由緒書。
元亀三年(一五七二年)『諸国の轤轤師(ろくろし)杓子、塗物師、引き物師の一族は末代其の職を許し諸役を免除させる』という書状。天正十一年(一五八三年)には豊臣秀吉から『日本国中の轤轤師の商売は、先祖からのしきたり通り異議なく差し許す』という許可丈が筒井公文所あて出されている。
九州において、一国の頭領が所持する木地師の由諸書や免許状を保存しているのは小椋家だけではないかといわれる。
なんとか縁起の境内社の部分はお分かり頂けたと思います。
大幡主ご一家が権現神社であり、古我武礼神社がクラオカミ(スサノウの姉)で、妙見神社が天御中主=大幡主の叔母さんにあたります。
最後になりますが、縁起に書かれていない生目神社が大山祗の左に鎮座している事にお気付きでしょう。
これが宮崎市に鎮座している生目神社なのですが、百嶋神社考古学では、阿蘇高森の草部吉見神社の彦八井耳と高木大神(タカミムスビ)の娘であるタクハタチヂヒメの三世の孫が藤原により格上げされた後の贈)垂仁天皇(その実体は宇佐ツ彦)であり、宮崎にあることから明治期持ち込まれたものと思います。
祇園神社の摂社に置かれた冠大明神古我武禮神社は回収され別社となった冠大明神古我武禮神社
祇園神社はスサノオを祀る神社でありそれはそれで良いのですが、スサノウのお妃のお一人であるクラオカミ=ミズナノメ=神大市姫=丹生津姫が鞍岡に祀られているのであれば、この冠大明神こそがこの一帯の本来の主神ではなかったのか?と考えるのですが…思考の暴走は限りなく続きます。