399(前) 「有明海」はなかった
20160910(20090815)再改訂
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
本稿は堕落した久留米地名研究会のHPからバック・アップ(避退)掲載したものです。
本文は民俗学の延長にある論稿に過ぎませんが、今日、古のものとして誰もが信じて疑わぬ「有明海」という呼称が、実はほんの百年足らずのものでしかないのではないかという仮想から若干の知的探求を行なうものです。
“「有明海」はなかった”などと書くと驚かれる方も多いと思います。
しかし、なお、オカシイと思われる方は地図を広げて見て下さい。ここでも、また、びっくりされるはずです。
地図によっても異なりますが、一般に考えられている有明海の認識と、市販されている地図上の有明海の表記が全く異なるのです。
国土地理院地図
恐らく、皆さんが手にする大半の地図では長崎県島原市(島原半島)と熊本市の間の海は有明海ではなく島原湾となっていると思います。
つまり熊本県宇土市から西に伸びる宇土半島や天草諸島の北に広がる海は島原湾でしかなく、天草(三角)へと向かう国道五七号線から右手に見える海は有明海ではないのです。
実際、地図の成立時期によっても、また、官庁によっても記載がまちまちで、混乱が行政によって持ち込まれているという印象は拭えません。実はこの問題についてふれた本があります。『有明海』自然・生物・観察ガイド(菅野 徹 著)東海大学出版会 です。
多分、有明海沿岸の図書館であればどこにでも置いてあると思いますので、ムツゴロウを表紙にしたこの本をご覧になった方も多いと思います。一九八一年初版で、有明海の珍しい生物を取上げたものです。まずはこの事についてどのように書かれているかをご紹介しましょう。
『有明海』自然・生物・観察ガイド 東海大学出版会
国土地理院は、こう主張する。
有明海というのは、この海の北半分で、南半分は島原湾というべきだ。しかし、その境界については、当院は関知しない。
海上保安庁はこうだ。
この湾は島原湾と呼ばれるべきだ。有明海などというものは、当庁の採らないところである。
辞典類の執筆者は、こういう。有明海と島原湾の境界は、長洲と多比良を結ぶ線である。
そして、生物学者、地質学者も含めた一般国民は、有明海といえば、この大きな湾の入口にある、早崎瀬戸という海峡の内側の水域全部だと思っている。
国土地理院は、一九七九年に「日本国勢地図帳」というものを出している。・・・中略・・・「有明海」と「島原湾」の境界が、どこにあるのか、一行の説明も見出せないのである。
いまみてきたように、国土地理院のこの水域に対する態度は、ひどく及び腰にみえる。その点を、電話で問い合わせたが、
「境界は知らぬ」
という返事であった。電話のことだから、これを同院の公式見解とはみなせないにしても、妙な話である。
海図にも当たってみた。海図は、運輸省海上保安庁水路部がだしている。航海用の精密な図である。一九八一年発行の第一六九号「島原湾」を見てみよう。海図の隅に「有明海」の名は記入されているものの、その示す範囲はどうみても、おおよそ福岡県柳川と佐賀県藤津郡多良(たら)を結ぶ線以北としか考えられない。・・・中略・・・
そこで水路部に電話してたずねたところ、
「この水域の名としては、島原湾だけを用いている」
という答えだった。念のために、水路部発行の潮汐表を見て、驚いた。・・・中略・・・ついに有明海のアの字もでてこなかったのである。「海上保安庁に、有明海の字はない」のである。
『有明海』自然・生物・観察ガイド掲載の図面 (さまざまな有明海)消される有明海
お分かりになったと思います。意識的か無意識的かは分かりませんが、有明海は消されつつあるのです。
菅野 徹氏も「ようやく、有明海を見た-と、このときは信じて疑わなかった」とされ
ているのですが、熊本の南、宇土半島の長浜というところで初めて見たものが有明海ではなかったのです。
この一般の意識とのギャップはどこからくるのでしょうか?
私は、生物、社会、理科といった小学校以来の意識やイメージを支えているのが教科書であり、それの元となっている学者、研究者の認識には「島原湾」はなかったからではないかと考えています。現在の教育現場についてまでは調べていませんが、もしも、この世界にまで国土地理院や海上保安庁水路部といった一行政機関の意志が浸透するようになれば、有明海は遠からず掻き消されていくのではないかと考えています。
有明町は消された
もう一つ、皆の記憶から完全に消えようとしているものがあります。
言うまでもなく有明町です。
平成の大合併が進められる中、三つの有明町が消えることになりました。
北から、佐賀県杵島郡有明町(現白石町)、長崎県南高来郡有明町(現島原市)、熊本県
天草郡有明町(本渡市などと三月に合併)です。佐賀県の旧有明町はもとより、この島原市と合併した旧有明町と天草上島の有明町の存在は、一般的認識としての有明海が正しい事を示すものです。このことについても菅野徹 氏は書いておられます。
この有明町という町名が地図から消失し、有明海という名さえも抹殺される時が来るのかも知れません。有明海を破壊した農水省の諫早湾干拓事業という犯罪行為や沿岸の針葉樹林化、旧建設省の不必要なダムの乱発も忘れ去られる事になるのでしょうか?
『有明海』自然・生物・観察ガイド掲載の図面 (3つの有明町)
実に慧眼です。残念ながら、私には菅野徹氏の恐るべき予言が現実のものとなったと考えています。
有明海と帝国陸海軍
ここで、私が考えている仮説をご紹介致しましょう。既に、HP「有明海・諫早湾干拓リポートⅠ」で書
いている文書を原文のまま二本再掲載することで換えたいと思います。判断は読者にお任せします(これについてもネット上に公開しています)。
2. 「有明海」という呼称と帝国海軍水路部
さっそく民俗学的なテーマで驚かれたかもしれませんが、民俗学者の宮本常一に魅了され続けている私には、話を始める以上、どうしても「有明海」という呼称を気にしてしまうのです。このため環境問題、環境論議といったものを期待されている読者には多少の辛抱をお願いしたいと思います。
簡単に言えば「有明海」という呼称は思うほど古いものでもなく、どうやら帝国海軍(ジャパニーズ・エンペアリアル・ネービー)が付けたのではないかといった荒唐無稽な話です。極めてローカルな話になりますがしばらくお付き合い下さい。
相当古いと思われている「有明海」という呼称は実は明治も終わり頃からのもので、それ以前は単に「筑紫海」「筑紫潟」「有明沖」などと記され、また、土地の人からは単に「前海」と呼ばれていたようです(もっとも、「この江戸前」にも似た「前海」という表現は、どうやら佐賀県の福富、白石、福富町などの戦後の干拓地域を多く抱え込む新興の地域や太良町などの海洋民的風土の地域ではあまり流通しておらず、柳川市あたりから佐賀市、鹿島市(鍋島支藩)などの武家文化の浸透した地域で使われていたように思うのですが、もちろん詳細に調べているわけではなく、良くは分かりません)。ただ、具体的にどの段階でこの「有明海」という海の呼称が成立したのかについては現在のところ旧帝国海軍水路部あたりが付けたのではないかなどといった勝手な想像をしています。
野母崎(ノモザキ、ノモサキ)と千々石湾(チヂワワン、チチワワン)
有明海に帝国海軍の艦隊が入ってきたという話しはあまり聞きませんが(干満が大きく浅い半閉鎖性の海というものは座礁や衝突の危険が極めて高く、艦隊行動にとってはこれほど不向きなものはないのですから当然でしょう)、かつて島原半島の南に位置する千々石湾沖には演習で大艦隊が回航してきたことがありました。この帝国海軍の大演習に際して、日露戦争は「旅順港閉塞」の広瀬中佐(「杉野は何処・・・」)と並んで有名な、陸軍の軍神「遼陽会戦」の橘周太がここ千々石町の出身地であったことをもって、島原半島の南の千々石湾を橘湾と呼ぶように呼称の変更を行い、ある意味で陸軍にゴマを摺ったのが海軍であったという話を考えると、この「有明海」という落下傘的呼称もそのようなものではないかと考えているところです。
長崎から南西方向に長く突き出した半島は野母崎(ノモザキ)と呼ばれていますが、国土地理院の地図では長崎半島とも併記されています。前述した橘湾、千々石(チチワ、チヂワ)湾も同様です。とりあえず、橘湾、千々石湾の方はそれなりの傍証があるのですが、長崎半島(野母崎)の方は、当面全くの推測です。
明治よりこのかた、このような岬、半島、海峡、海湾さらに細かい話をすれば海底の山(大和堆、武蔵堆)といった呼称を決定してきたのは、海では帝国海軍の水路部でした(陸では陸軍参謀本部陸地測量部)。当然ながら、彼らは水深、暗礁、干満、潮流、流速、卓越風といったものを調査し、艦隊行動に必要な水路情報を開発し蓄積してきたのでした。
当然ながら、海軍はシナ海に面し三菱長崎造船所と佐世保の海軍工廠に近い野母崎を造船所の防衛線として最期の艦隊決戦の要地と考えていたはずです。それでなくとも日露戦争ではロシアのバルチック艦隊が対馬海峡を通過するかどうかを真剣に悩んだのですから、冬場は北西の季節風が遮断される波静かな千々石湾に多くの艦艇を伏せ、野母崎沖で艦隊決戦(空の場合は航空撃滅戦)に臨むとすればこれほど格好の錨地はないのであって(太平洋側では大分県の佐伯湾付近鶴見崎、四浦半島、日本海側では山口県の油谷湾でしょうか?)、海軍の大演習は当然といえば当然の話なのです。
山口県の油谷湾における海軍大演習の写真が油谷湾温泉のある温泉ホテルに現在も飾られていますが、当時は国威発揚と海軍の威信を大いに拡大せしめる(大量の税金を獲得するための)、国民や地域を巻き込んだビッグイベントであったことでしょう。
さて、話を戻しますが、艦隊決戦に際して岬や半島の呼称は非常に重要であり、「ヒトヒトマルマルノモザキオキデゴウリュウサレタシ」といった伝令(陸軍は通達)において野母崎(ノモサキ、ノモザキ)といった通常現地の人間でなければ読めないような呼称は艦隊行動の間違いの元になりやすく、瞬時を争う艦隊決戦に於いては勝敗を分かつ大問題でもあったのです。特に海軍の場合は陸軍以上に全国から言葉の違う将兵が数多く乗組んでいるのであって、言葉や呼称は最重要事だったのです。このため、水路部は可能な限り誰にでも判る平易な呼称に変えていこうとしていたはずなのです。
「簡潔明瞭をモットー(英語のmotto)とするのが帝国海軍の伝統」であったことからしても、大演習に参加していた海軍軍令部(陸軍の場合は参謀本部)の高級将官あたりから、野母崎や千々石湾などといった通常は正確に読めない呼称をもって「これらの名称は間違いのもとである」「直ちに変更を検討せよ!」といった話が出たと想像することはあながち難しいことではないと思うのです。
先に千々石湾の場合は傍証があると書きましたが、「海軍よもやま話」だったか、一昨年の秋口に読んだ本だかにこのことが触れられていたのですが、現在、それがどれであったかを忘失し正確な出典を示せません。仕方がなく友人が橘神社に参拝したいと言った際に随行し(私は唯物論者のため参拝は絶対にありえないので)、海上自衛隊(佐世保総監部)派遣の宮司代行にお訊ねしたところ、「それは間違いありません。海軍水路部あたりがやったことではないでしょうか。千々石湾沖の海軍大演習に際して幹部連が橘神社に表敬参拝(筆者の評価ですが併せて千々石湾の呼称の変更を贈り物のように行った)したという神社側の記録や橘家の日記に記録があるようです」との話をお聞き致しました(資料の写しを頂く予定でしたが未だに頂いておりません)。どうやらこれが、千々岩湾と橘湾、野母崎と長崎半島といった二つの呼称が今なお残っている理由のようなのです。
野母崎と長崎半島という呼称の並存については(財)日本地図センター地図相談室長・参事役をされていた山口恵一郎氏が「地名を考える」(NHKブックス)の中で触れておられます。
興味がおありの方は読んで見てください。もちろん山口恵一郎氏は有明海や長崎半島といった呼称が帝国海軍水路部によるものとの指摘はされていません。以下。
「そうして国土地理院の回答、“『長崎半島』採用の理由”として、「野母半島」という呼称があることは事実だ。しかし一方、「長崎半島」という呼称も、明治四十四年発行の山崎直方・佐藤伝蔵編『大日本地誌』第八巻及び古くからの『水路誌』に記されている。つまり…」189p
(20040128)