399(後) 「有明海」はなかった
7. 千々石湾(灘)を橘湾に変更した帝国海軍水路部(補足)
帝国陸軍の軍神とされた橘周太中佐についてインター・ネットで検索していたのですが、出身地の長崎県千々石(チヂワ)町のホーム・ページ「千々石ネット」に辿りつき、その中の「橘周太(橘中佐)年譜」を見出しました。これによると銅像建立と橘神社「大正8年2月竣工、除幕式が行われる。像の高さは3m30Cm(ママ)。千々石町南船津上山の天然石に安置された。この年、長く中佐の偉勲を記念して千々石灘を橘湾と命名し正式に当局に申請、海軍水路部により地図上に記載される事となった」と書きこまれていました。このことによって、2.「有明海という呼称と帝国海軍水路部」の部分的な裏取りができたことになるようです。
なお、敗戦後、昭和二〇年十一月三〇日の海軍軍政の終了によって「海軍水路部」は「第二復員省」を経て旧運輸省「海上保安庁水路部」に移行します。
さて、思考の冒険はさらに広がるのですが、九州の「多島海」そして「地中海」でもあり、広義の有明海にも含まれる「不知火海」(しらぬい・かい)が同時に「八代海」と呼ばれているのですが、これについても同様に海軍水路部の仕業ではないかと考えています。
しかし、今のところは想像の域を出ません。「不知火海」(しらぬい・かい)も一般的には読めない呼称であることは言うまでもないため、なんでも水路部のしわざと考えるくせがついてしまいました。
(20040311)
ただし、2.「有明海」という呼称と帝国海軍水路部において、
「現在のところ旧帝国海軍水路部あたりが付けたのではないかなどといった勝手 な想像をしています」
と、していましたが、最近、これは違うと考えるようになってきました。今は、明治政府のなんらかのセクションが始めに「有明海」を採用し、その後、海の呼称ですから、旧海軍水路部が「島原湾」を持ち込み、戦後、海上保安庁水路部が消し去ろうとしている(消し去った)と考えています。恐らく、国土地理院(旧陸軍測地部)は水路部の顔を立てているだけでしょう。
なお、7.千々石湾(灘)を橘湾に変更した帝国海軍水路部(補足)で書いた
「八代海」と呼ばれているのですが、これについても同様に海軍水路部の仕業ではないかと考えています。
については、ほぼ、間違いないのではないかとの思いを深めています。
水路部沿革
・・・明治四年七月二十八日、兵部省に海軍部が置かれ、同年九月八日、同部に水路局が設けられた(兵部省海軍部内条令)。・・・
・・・終戦で海軍は解体し、水路部は昭和二十年十一月二十九日、運輸省に移管され、運輸省水路部となった。・・・昭和二十三年五月一日、海上保安庁が創設されて水路部は同庁の水路局となり、二十四年六月一日には同庁機構改正で海上保安庁水路部と現在の名称になった。
『日本海軍史』第六巻 部門小史下(財団法人海軍歴史保存会)より
有明海という呼称の起源
相当古いと思われている「有明海」という呼称は実は明治も終わり頃からのもので、それ以前は単に「筑紫海」「筑紫潟」「有明沖」などと記され、また、土地の人からは単に「前海」と呼ばれていたようです。(…中略…)ただ、具体的にどの段階でこの「有明海」という海の呼称が成立したのかについては現在のところ旧帝国海軍水路部あたりが付けたのではないかなどといった勝手な想像をしています。(再掲)
これは、有明海・諫早湾干拓リポートを書き始めた時の冒頭の論文 1.はじめに(20040126)の一節です。「筑紫海」「筑紫潟」「有明沖」という呼称は「有明海」に付けられていたということについて拙著「有明海異変」でもふれていますが、菅野 徹氏もこのことについて書かれています。
なお、有明海の名は一九一二(明治四十五)年の『帝国地名辞典』(太田為三郎編、三省堂刊)に、筑紫潟の別名としてでているが、・・・ただし、「有明」の名そのものは、天保年間(だいたい一八三〇年代)の地図には、有明の沖としてあらわれている。しかし、わが国最初の百科事典である『和漢三才図絵』(正徳ニ(一七一二)年)にはこの水域に関してなにひとつ記述がない。・・・
東京湾とか有明海とかいう名称は、その概念とともに、かなり新しいものではなかろうか。一八九五(明治二十八)年の地図を見ても、福岡県の地先を筑紫潟、佐賀県・長崎県の地先を有明ノ沖、としていて、まだ、有明海、島原湾、などの名は見えない。
『有明海』自然・生物・観察ガイド(菅野 徹 著)
さて、九州には有明という海がもう一つあります。鹿児島県の志布志湾が別名有明湾と呼ばれているのです(沿岸に有明町があります)。氏は、このことから、
有明海を「ザ・ベイ・オブ・アリアケ」とやれば、前述のように志布志湾と混同されるおそれがある。海上保安庁では、このあたりを勘案して有明海の名を嫌っているのかも知れない。
と、されています。
鉄道唱歌は証言する
“有明海”という呼称を考えていて気付いた事がありました。鉄道唱歌です。明治に作られましたが、鉄道の普及と沿線の風物が歌い込まれ大変に流行った物でしたから、いまだに耳に残っている方も数多くおられることと思います。
言うまでもなく「汽笛一声新橋をはや我が汽車は離れたり・・・・・・」ですが、この第二集山陽・九州編を聴くと、三角線や鹿児島本線では“有明海”という名は出てこないものの、“不知火海”という名ははっきりと歌い込まれているのです(「・・・国の名に負う不知火の見ゆるはここの海と聞く・・・」)。少なくとも、唱歌が作られた明治三十三年当時の作詞家や鉄道省、地元の認識は八代湾ではなく“不知火海”であったことがこれからも分かります。
ただ、八代海(湾)ではなく“不知火の海”という名称が流通していた事までは分かるのですが、依然として疑問は残ります。「わたる白川緑川川尻ゆけば宇土の里・・・」を聴くと、ここまではまだ宇土半島の北側であり、現在の有明海(島原湾)側の海しか見えないはずなのです(当時は干拓が進んでいなかったために鉄路からの海は現在よりも間近に見えたはずです)。「国の名に負う不知火の見ゆるはここの海と聞く」となると、当時まで宇土半島の北側の海も不知火の海と呼ばれていた可能性があるのですが、この問題については、まだ作業中ですので、いずれ別稿として書きたいと思います。ただし、今の段階で考えている事を少しお話しておきます。
有明の不知火、不知火の有明
まず、多くの方が“不知火は不知火海に出るもの”と、考えておられると思います。確かに、現在、有明海に不知火が出るという話は聞きません。一般的にも不知火が見えるのは、熊本県宇土半島の不知火海(八代湾)側にある旧不知火町(現宇城市)付近(から)とされています(永尾神社)。
しかし、最近になってどうもそうではなかったということにようやく気付きました。
元々、“有明海”も“不知火海”と呼ばれていたと言う話をどこかで聞いた事があったためですが、ただ、今はそれがどのような意味だったのかは出典も含めて辿れません。
しかし、有明海沿岸を走り回る日々が続くと、幾つかの地名にその痕跡がある事に気付きます。
一つは福岡県大牟田市のJR大牟田駅に近い不知火町です。ここに熊本県不知火町からの組織的移住があったという話は聞きませんから、少なくとも百年、二百年は遡れる地名ではないかと思われます。
地名としては、熊本県旧不知火町の外にも、旧小川町などに“不知火”という字名が見られます。
もう一つは、“長崎県諌早市からも不知火が見えたという話があるのです。一例をご紹介しましょう。「あとで話していただく木下良先生(元国学院大学教授:古川註)は、諫早の御出身ですが、不知火は諫早からも見えるそうです。不知火の正体は何か、それは再生の火、誕生の火、若返りの火であったと思うのです。それが丁度八朔の日に出てくる。古代日本では、新年は一年に二回あったと、折口信夫は言っております。その八朔の日に燃える火というのは、旧年をすてて新しい年に生まれかえる火だったと思うのです。」
これは熊本地名研究会が一九九五年に行った第10回熊本地名シンポジウムの資料集「火の国の原像」に掲載されている民俗学者谷川健一(日本地名研究所所長、近畿大学教授=当時)氏による基調講演「火の國の原像」の一節です。
これを読むと、諫早湾干拓に流れ込む本名川に掛かる橋が不知火橋と命名されているの
も不思議ではなくなります(諫早の市街地から諫早湾に注ぐ本明川に掛かる県道124号大里森山肥前長田停車場線の大型橋が不知火橋と呼ばれているのです)。
さらに、一つは、東京オリンピックが行われた1964年(昭和三九年)に作られた島原市の盆踊り歌「本丸踊り」(向島しのぶ、ビクター少年民謡会:唄)「・・・沖の不知火沖の不知火ヨー、誰故燃える・・・」や、「島原の子守唄」(森山良子:唄)「沖の不知火、沖の不知火消えては燃える・・・」などの歌詞の中に“不知火”が歌い込まれている事です。
ついでに言えば、旧制福岡高校(現九大教養部)で歌われていたものにも「不知火の筑紫の浜に・・・」とあったようですし、私の地元にある佐賀大学の学生寮が“不知火寮”でもあったのです。このように有明海沿岸にも不知火に関する地名などの痕跡がある事を考えると、有明海も、かつては“不知火の海”と呼ばれたか、少なくとも“不知火の見える海”であったのではないかと思うのです。
そもそも、景光天皇の火邑伝承は現在の不知火海(八代海、湾)としても、考えてみれば、万葉集における筑紫の枕詞が不知火であったことと符合するのです。
万葉集の白縫
「万葉集における筑紫の枕詞が不知火であったことと符合するのです」としました。しかし、誤解がないように断っておきますが、「不知火」という漢字表記が記紀や風土記にあるわけではないのです。筑紫にかかる枕言葉の表記は「之良奴日」「剘羅農比」「白縫」などですが、この“ヒ”音はいずれも甲類であり、“ヒ”音でも乙類の「火」「肥」ではないのです。この法則性を絶対化すべきかどうかの問題はあるのですが、単純に“シラヌヒ”“シラヌイ”を不知火とするには無理があるようです。ただ、甲類、乙類の使い分けは後には消え、混用されていったのではないかとする事は許されるはずです。従って、「白日別」とされた筑紫が、宇土半島北側でも見えていた不知火と重なり、万葉集における筑紫の枕詞が不知火であったかのように様々な痕跡を残したのではないかと思うものです。
立石巌氏の「不知火新考」によると、江戸時代の僧侶が「不知火」という表記をしたことが始まりとされています。
55. 熊本~宇土 大和田建樹(作詞)
わたる白川緑川
川尻ゆけば宇土の里
国の名に負う不知火の
見ゆるはここの海と聞く
さて、長々と脱線しましたが、どう考えても鉄道唱歌に有明海が歌い込まれていないはずはないと考えました。一つは、現在の長崎本線は昭和十年頃新たに建設されたものであり、鉄道唱歌の時代には、佐世保線(肥前山口~佐世保)と大村線(早岐~諫早⇒長崎)が長崎本線だったのです。このため、車窓に出てこない有明海が鉄道唱歌に歌われないのは理解できそうなのですが、どうもそうではないようなのです。理由は極めて簡単でした。鉄道唱歌が作られたのは一九〇〇年(明治三十三年)なのです。そうです。前述したように、この時点でも「有明海」は、まだ、「筑紫海」「筑紫潟」「有明沖」・・・など呼ばれているのです。実は、それも鉄道唱歌が証明してくれていました。
68.
あしたは花の嵐山
ゆうべは月の筑紫潟
かしこも楽しここもよし
いざ見てめぐれ汽車の友
速さを誇る旧鉄道省は京都から長崎に半日余りで到着すると唄いたいのですが、ここで分かるように、有明海は“月の筑紫潟”と歌われているのです。つまり、有明海という呼称は、やはり、わずか百年足らずのものなのでした。
話がかなり輻輳しましたが、結局、明治の中頃までは有明海の北部が筑紫潟と呼ばれ、宇土半島の南北、つまり、有明海南部と現在の不知火海が“不知火の海”と呼ばれていた。
さらに遡れば、現在の有明海と不知火海を併せた“九州内海”とも言うべき内湾全体を“不知火の海”と呼んでいた時代があったのではないかと考えるのです。
では、皆さん。このような百年も立たない“有明海”という呼称は“消えてしまっても構わない、仕方がない事だ”とお考えになるでしょうか?
少なくとも私は嫌です。なんとも惜しい事だと思います。
それも含めて、皆さんに考えて頂くことにして、最後にもう一つ、菅野徹氏の文章を引用して本稿を終わりとします。
だが、有明海は、重要な海で、その名をおろそかにすることはできないのである。
同じく『有明海』自然・生物・観察ガイド
有明海の出口、島原半島早瀬崎灯台
おわりに
『夜豆志呂』一六〇号に掲載された田辺達也氏の「口之津へ」という紀行文を読ませて頂きましたが私の名前が数多く飛び出してきました。さらに口之津の史談会での当方の講演“「有明海」はなかった”についてもふれてありましたので、ご無沙汰していることもあり、今回、この一文を寄稿させて頂きました。
また、「ご無沙汰していることもあり」ともしましたが、実は、二〇〇八年年頭から久留米地名研究会の結成に動きました。一年半余りで月例研究会を20回行い、現在、会員も50名を越え、どうやら60名も視野に入ってきました。特に嬉しいことは、この会が、教育員会や公民館、地元郷土史会といった既存の組織に頼ることなく結成され、ありがたいことに若い世代も取り込み、多くの研究者レベルの参加者を得たことです。現在はさらに太宰府地名研究会を準備中であり、筑前、筑後両領域にささやかな拠点を用意しようとしています。既に会の運営も軌道に乗ったことから、今後とも寄稿させて頂きたく思っております。本稿は「有明海」というごくありふれた地名に焦点をあわせたものですが、結論は意外にも大変驚くべきものになってしまいました。
この問題の検証も含め、今後は、八代海と不知火海というテーマにも踏み込みたいのですが、なにぶん遠方からの調査でもあり、地元の皆さんのご協力を頂ければと密かに期待しております。
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