403 「百嶋神社考古学」概論 001 “出雲とは何か?”
20160929
太宰府地名研究会 古川清久
巷では大和朝廷に先行する「古代出雲王国」とか“九州王朝に先行する古代出雲王権”といった大げさな話が横行しているようですが、これは近畿大和政権による偽装ではないかという事を考え始めたのは最近の事でした。
① “大国主を出雲の国の人だと思っておられる方がおられますが全くの誤りです。”と言われたのは故)百嶋由一郎氏でした。
② “出雲はいたるところにあったのです。”という奇妙な話をされていてこれまで意味が分からなかったのですが、最近になってようやく意味するところが分かるようになってきました。
恐らく先生が言いたかったのは、列島の開拓段階での事であり、全体としての大幡主系と言うか、白族(大幡主)、越智族(大山祗)、瀛氏(金山彦)の連合体とも言うべき忌部、卜部…が展開した入植地こそが出雲だった、現出雲はその多くの出雲の一つだったという意味だったようなのです。
③ 従って、出雲を「イズモ」と読み呼ぶのは、本来、誤りで、出雲は「イン」と呼ぶべきなのです。
④ つまり、忌部(豊玉彦)の展開した讃岐、阿波、紀国、忌部の一員であった大国主が後から展開した現出雲もそうであり、九州島内にも出雲地名(飯塚市桂川)があるように、この旧忌部が展開していた地域が今もモザイク的、斑状に存在しているのです。
⑤ 出雲は「出」をイズルの「イ」、「雲」をウンと読めば、「イ+ウン」で忌部の「イ(ム)ン」と一応は読めるのです。
⑥ では、大国主はどこにおられたのでしょうか?これについては、既に、ひぼろぎ逍遥 024 「大国主は九州で生まれた“オオナビコ(大国主命=オオナムチの幼名)を祀る春日市の伯玄社”」で書いていますのでお読み頂きたいと思います。
⑦ これを読まれれば、少彦名命が春日市の須久岡本遺跡のある須久に住んでいた須久の彦だったことがお分かり頂けるのではないでしょうか?「スクナ」は「スクノ」の古形であり、今でも「そこな御人」「そこな女子」といった言葉が落語などに留められている事が思い浮かばれます。所有の格助詞の「な」がスクナヒコナ命の意味つまり、スクの彦の命がその意味だったのです。すると、春日市商工会議所敷地内に残された伯玄社にオオナビコとスクナヒコナノミコトとは幼馴染であった事までが見えてくるのであり、神話の世界が現実の歴史の世界に引き下ろされて来るのです。
⑧ 最後に、大国主の国譲りの結果、最終的に大国主もしくは、その配下の大国主の一党が移動していった旧出雲の一つが現出雲であり、移動先(移転先)が現出雲だったことが見えてくるのです。
⑨ 従って、現出雲とは近畿大和朝廷が創ったものであり、因幡の白兎神話の舞台とか大国主が大怪我をしてウムギヒメ、キサガイヒメが介護に送り込まれた現場といいテーマ・パークでしかないのです。
⑩ このことは、九州の大国主祭祀圏の再検討再調査が極めて重要であることを示しているのです。