199 「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)の“跡宮”とは何か?
20150403
久留米地名研究会 古川 清久
連携ブログの「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)奥の院は、百嶋神社考古学に特化したより専門的なブログとして別のサーバーからオン・エアしています。
ただ、「(跡宮)って何だ?」という声も聞かれますので、ここで、説明しておこうと思います。
「跡宮」と聞けば古い方ならば、戦後の焼跡ラジオ・ドラマ(NHK連続放送劇と言うべきですか?…実に古い表現ですね…)として全国を沸かした「君の名は」の主人公、氏家真知子の恋人役の後宮春樹を思い出される方もおられるでしょう。
勿論、「宮跡」という言葉は存在します。言うまでもなく神社の移転後の跡地程度の意味ですが、実は「跡宮」という表現を残す神社があるのです。
これは、恐らく後置修飾語(フランス語、スペイン語、イタリア語…)の名残などではなく、“確かに御神霊をお移しした跡地ですが、ちゃんと分霊を今もお宮としてお祭りしているものですよ。”といった気概が込められた名称のように思います。
その神社とは、剣豪塚原卜伝が信奉した武甕槌大神を祀る常陸の国の鹿島本宮(跡宮)です。
みなさんは、鹿島神宮に実は「本宮と跡宮」がある事をご存知でしょうか?このことは「新鹿島神宮史」にも記述があり以前より気になる場所でした。今回の探訪は、今までの鹿島散策とは、一味違った散策となりました。本宮と云われているのは、茨城県潮来市大生にある大生(おおう)神社です。
ここは、毎年11月中旬に開催されている茨城県無形民俗文化財ともなっている「巫女舞神事 」で、有名です。大生神社は、建御雷之男神を祭神としていますが、梅原猛が「神々の流竄」の中でこの神社の事を言及しています。同著の中で氏は、大生神社が建つ地は大生氏すなわち多臣氏が開拓した地であるという説を紹介していて、これらのことから鹿島は建借間命の名をとって地名としたのではないかと結論づけています。確かに「タケカシマ」から「カシマ」そう言われると尤もに感じてしまうわけですが、ここ常陸の国の大半が多氏によって開拓されたのは事実のようです。ここ、大生神社は多臣の氏神様の地でもあるわけです。
通称「なんじゃもんじゃの樹」左下には、明るい「オーブ」が出現!?
参道脇に陰陽石がひっそりとお祭りされていました。
境内は、とても静かで最後まで私達以外は、尋ねてくるものは誰もいませんでした。
本殿は、神社の中でも珍しい三間社流れ造りの見事な茅葺(さすがに現在は、茅葺を模した造りになっています)で、茨城県指定有形文化財にもなっているそうです。由緒では、「創祀年代はあきらかではないが鹿島の本宮と云われ古く大和の飯富(オフ)族の常陸移住の際氏神として奉遷し、祭祀したのに始まる」とありました。跡宮の地は、鹿島神宮から南に行った神野4にあります。ここには、面白い伝承があります。以前サクラさんがさくらの日記に書いていたので紹介します。本社より南にあり、荒魂宮とて有り。大曲津命を祭る。俗に跡宮といふ。是れ神野と云ふ里なり。この傍に女一人あり。神主亀卜を以って之を定む。当社神秘の例を勤め行ふ。当社の神符を授く。物忌職と為す。以上「鹿島宮社例伝記」より
…中略…
鎌倉時代に「光俊朝臣」は歌に
みそらより 跡たれそめし 跡の宮 その代もしらす 神さいにけり
と詠み、この跡宮が「鹿島社の大明神がはしめて天くたらせ給いし所なり云々」と伝えています。この跡宮に降りた神こそ、鹿島の神なのでしょうか…。
「(武甕槌大神が)神護景雲元年に奈良にご遷幸の際ここから出発されたのでその跡宮として祀る」とあります。
ブログ「日々平穏」より
お分かり頂けたでしょうか?「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)奥の院 の“跡宮”とは、この神社から採題したものでした。
さて、ブログ「日々平穏」氏がお書きになっているとおり、大生神社は、建御雷之男神を祭神としており、大生神社が建つ地は大生氏すなわち多臣氏が開拓した地です。
その多氏こそ「ひぼろぎ逍遥」「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)奥の院 で何度となく書いてきた阿蘇氏の事であり、建御雷之男神、建借間命、武甕槌尊…とする阿蘇高森の草部吉見神社の祭神=彦八井耳命=海幸彦=大年神=天児屋根=天忍穂耳=支那ツ彦=贈)孝昭天皇(勿論、本物の天皇ではない)なのです。
この草部吉見神社については、その重要性から「ひぼろぎ逍遥」でも過去何度となく取上げ書いてきました。
「ひぼろぎ逍遥」掲載分のみで「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)奥の院 のものは含まれていませんが、少なくともこれだけは取上げています(以下、関心をお持ちの方はお読みください)。
ブログの冒頭001から書いている様に、この俗称海幸彦は、山幸彦(実は香取神社の祭神)とともに、常陸の国=日高見の国=北上の国(H音とK音の入れ替わり現象)まで進出していたのです。
これが九州王朝の最大版図であり、第二ブログをスタートさせる時点で、「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)とした理由なのです。
では、この鹿島神宮の鹿島とは何でしょうか?
それこそが、肥前の国(佐賀県)有明海西岸の小都市鹿島市の事であり、佐賀県白石町、嬉野市、武雄市…と境を接する「万葉集」に歌われた杵島山の河岸の間である対岸の鹿島市(鹿嶋アントラーズの鹿嶋と鹿島市は市の名称を巡り多少のトラブルがあったことはご存じでしょう)の意味だったと考えるのです。
この地には、建借間命が東に向かったと言う伝承があり、この「万葉集」に歌われた杵島山は歌垣(嬥歌:かがい)の伝承地であり(常陸の筑波山の歌垣と対応します)、「常陸国風土記」に登場する“だまし討ち”とも対応するのです。
これについては、分かり易いブログがありますのでご紹介します。
『肥前国風土記・逸文』(万葉集註)にある杵島の峰は比古神・比売神・御子神が鎮座していて、「郷閭(ムラザト)の士女、酒を提へ琴を抱きて、歳毎の春と秋に、手を携へて登り望(ミサ)け、樂飮歌ひ舞ひて、曲盡きて歸る。歌の詞に云はく、「あられふる杵島が岳を峻(さか)しみと草採りかねて 妹が手を執る」是は杵島曲(キシマブリ)なり」
…中略…
再び常陸国。行方郡の話。
崇神天皇のとき、健借間命という人が国巣(=土蜘蛛)のヤサカシとヤツクシを倒すため、油断をさせようと「天の鳥琴・天の鳥笛、波の随に潮を逐ひて、杵島唱曲を七日七夜遊び楽ぎ歌ひ舞ひき。時に賊の党、盛なる音楽を聞きて、房(イエ)挙りて男女、悉尽に出て来て、浜傾かして歓咲(ヱラ)ぎけり」。そこで我等がタケ・カシマ、「堡を閉ぢしめ、後より襲ひ撃ちて、尽に種属を囚へ、一時に焚き滅しき」。その戦勝を記念して各地にヨクコロシタとかカンタンニコロシタとかいう意味の地名をつけた……。
記紀で崇神天皇が東国に使わした四道将軍は「健沼河別命」(古川注:草部吉見の父)であった。この人は、同時期に強敵・越(つまりヤマタノオロチ の出身地)を平定した大毘古の息子で、二人がそれぞれ攻めあがって、再会したところを「相津」=「会津」と名づけた。ちなみに大毘古は八代・孝元天皇の息子で・次の開化天皇(古川注:高良玉垂命)のお兄さんでもある…。ふうむ。タケカシマなんて、鹿島大神を思わせる武人名。やっぱ、タケミカヅチは後付なのかな?
…中略…
で、この土着マツロワヌ勢力の二人組みを、だまし討ちにしたり・歌にからめて滅ぼすっていうのは、神武軍・大久米命の得意技じゃあないか! このあたり神武=崇神=ハツクシシラシシスメラミコトのミックスジュースを還元できるかどうかワクワクするところであります。で、やっともとの神武天皇の話にもどった。
ブログ「不思議なことはあったほうがいい 」より
恐らく阿蘇五岳の一つに杵島山があり熊本県にも益城郡嘉島町があることもこの通称杵島山や鹿島から建借間命の阿蘇への移動と関係があると考えています(鹿島の前の鹿島は鹿児島県薩摩川内市市の甑島かも…)。
写真提供:松尾紘一郎(糸島市)
杵島山より対岸(古代には杵島山は島だった)の鹿島方面を望む(さらに先は雲仙岳)
軍神建借間命の一族(黎族=多氏=宇治氏=支那人)は、雲南省麗江からメコン川を下り、海に出て海南島に集結し、黒潮に乗り、熊本県の天草下島の苓北町に上陸し(この時点で杵島山方面に移動した分派があったと考えています)、その後阿蘇に移動して、先住者であった高木大神(高御産巣日神)の傘下に入ったのです。
その後(神武後)、九州王朝の時代、第9代開化天皇の時代の四道将軍が東日本に送り込まれるのです。
建借間命が直接送り込まれたのか、この神を奉祭する一族が進出したのかは、まだ、見当が付きません。
その後、七、八世紀になり藤原が権力を掌握して一族を守る軍神が必要とされ春日大社が造られる事は良く知られています。
今回は、「跡宮」の意味をお知らせしただけでしたのでここまでとします。