200 越人はスラウェシ海からやって来た!“再び「日本語はなかった」(渡辺光敏)から”
20150403
久留米地名研究会 古川 清久
今回も渡辺光敏氏の「日本語はなかった」“私説日本語の起源”からの採題です。
古代史の世界でも重要なテーマである“「倭人」とは何か?”に関わるものですが、ここには、倭人の主要な部分が中国の江南地方の海岸部からの移住者だったのではないかという問題が横たわっているのです。
二千数百年前、漢族の南下によって中原、江南から押し出された人々が、対馬海流にのって日本海を北上し定着したのが、越前、越中、越後であったのかも知れないし、また、同時に「倭人は呉の太伯の裔」との云いとも重なってもいるのです。
一方、陸路で南に追われた人々によって生まれたのが南越国や、越南(ベトナム)であったのではないかとも考えられる訳であり、この越人が何であるかも倭人を考える上で大きな課題と言えるのです。これについても、渡辺光敏氏は実に明確でした。
とっくの昔に答えを出しておられたのです。
インドネシアのボルネオ島の東のスラウェシ海、スラウェシ(セレベス)島にいた人々が北に移動し江南に入っていたのが「越」であったと考えておられたのです。
その根拠とされたのが、前三世紀の「越絶書」であり、そこには「舟を須慮(スラ)と言う」とあると言うのです。
そう言えば、石を載せて運ぶソリも修羅(シュラ)と言い、船も「コンピラ舟舟シュラシュシュシュ」ですね。
まさに、越人とはスンダランドから北に移動した海洋民であり、その中にはバジャウ起源の船上生活者である家船の人々もあったのだろうと思うのです。
さらに言えば、ボルネオ島ダヤク族のガルーダの葬舟も列島の舟形石棺と対応するのです。
以下は、私の「船越」という小論に書いたものです。
民俗学の世界には"西船東馬"という言葉があります。これは中国の軍団の移動や物資輸送が"南船北馬"と表現されたことにヒントを得たものでしょうが、確かに西は船による輸送が主力でした。また、"東の神輿、西の山車"という言葉もあります。これは、それほど明瞭ではないのですが、東には比較的神輿が多く、西には山車が多いというほどの意味です。
非常に大雑把な話をすれば、全国の船越地名の分布と、祭りで山車(ダンジリ、ヤマ)を使う地域がかなり重なることから、もしかしたら、祭りの山車は、車の付いた台車で"船越"を行なっていた時代からの伝承ではないかとまで想像の冒険をしてしまいます。
直接には長崎(長崎市)に船越地名は見出せませんが、ここの"精霊流し"もそのなごりのように思えてくるのです(長崎の精霊船は舟形の山車であり底に車が付いており道路を曳き回しますね)。」
…中略…
永留久恵氏の「海神と天神」の「第一部 海神編 第二章 対馬のウツロ舟伝説 十、葬送と舟」にこの話の解答に近いものがありますので、少し長くなりますが、その一部をも紹介してこの論考をひとまず終わりにしたいと思います。しかし、再び対馬を訪ねることになると思います。その時には再び、船越(補稿)II を書きたいと思います。
「・・・中国の史書「隋書」倭国伝を見ると、倭人の風俗を述べたなかに、「貴人三年殯於外、庶人卜日而葬」との記述があり、貴族は殯宮を建てて長期間もごり をしたことがわかる。庶民は卜して葬(はふり)をしたが、その間にはやはり殯の仮屋をこしらえたはずである。
しかし、屍を安置する施設をもたないものは風葬に近い形がとられたであろう、と井上氏は説く。そして『続日本紀』文武天皇の七〇六年に、放置された屍を埋葬するよう令した詔が引用されている。
水葬について諸先学は、蛭子を舟に載せて流したという『記』『紀』の神話は水葬の習俗を映したものだと説いている。南方の海洋民族の間には、死者は船に乗って他界するという説話があり、死者を舟に載せて流す風習があったという。この南海の民族と、いろいろの点で似た習性をもっていた倭の水人に、水葬があったと考えることは無理ではない。志摩で棺をフネとよぶことには、遠い昔のある姿を想像して深い意味を感じる。志摩は、熊野へと続く海人の活動舞台だったからである。また、海辺の村で初盆に精霊船を流すのは、死者の霊が遠い海の彼方に帰るという信仰による。
と舟について考えるとき、死者を載せて流すことばかりにこだわってはいけない。屍を葬地に運ぶためには船が必要だったからである。これを思うのは縄文晩期に始まる対馬の古い埋葬遺跡がほとんど海岸にあり、海に臨んだ突崎や、離れた小島にあるからだ。南西諸島では、今でもそのような場所に葬地を営んでいる。この葬地まで運ぶためには、当然舟を必要としたはずである。陸路から行けるところもあるが、舟による方が便利であり、また、舟なくしては不可能な場所が多い。死者を葬地に送るために、舟に乗せて運んだことは間違いない。
さきに引用した『隋書』のなかに、「及葬置屍船上牽之」と、屍を船上に載せて葬地に運ぶことが記されているが、この場合は水上を航行するのではなく、陸上をいたのである。およそ推古朝頃の風俗を記したものであろうが、船と棺との区別がわからない。しかし、これについて上井氏が攝津の住吉大社の資料から分析した論考は明快である。その概要は、同社に深い関係を持っていた舟木氏があり、この舟木は舟の建造を職掌としたが、同時に棺をも造った。しかも木棺ばかりではなく、石棺をも作っていた。そこで『古事記』にいう「鳥之石楠舟」には舟と棺のイメージが混然としている。というものである。・・・」
本引用は私の「環境問題を考える」(環境問題の科学的根拠を論じる)のサブ・サイト、「有明海・諫早湾干拓リポート」II(八月号)掲載文書「77.船越(補稿)対馬 阿麻氏*留神社の小船越」の転載です。
これらも含めて越人の風習の様に思えてくるのです。では、渡辺光敏氏の説をお読みください。
古代中国の越人は、スラウェシ島からの移住者なのです。
スラウェシ島は、インドネシア中部にある島。植民地時代はセレベス島と呼ばれたが、インドネシア独立後は一般的にはスラウェシ島と呼ばれる。一部が赤みがかったタロイモの品種であるセレベス芋は、この島が原産である。
セレベス芋
セレベス(Celebes)は、サトイモ(里芋)の仲間のサトイモ目サトイモ科サトイモ属の非耐寒性イモ類です。インドネシアのセレベス島(現スラウェシ島)から伝来したサトイモの一種で、千葉が主要な産地となっており早生栽培されます。
そもそも、倭人も里芋を食べて生き残って来た民族なのですが、民俗学で有名な「里芋正月」「餅なし正月」が強く残るのも愛媛県であり、そこが海賊の住処だった事と、倭人のルーツをセレベス(スラウェス)に求めれば、通底しているようにも思えるのです。