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414 苧扱川(オコンゴウ) ②

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414 苧扱川(オコンゴウ) ②

20161029再改版(20110701改版)20080314

太宰府地名研究会 古川 清久

口之津は九州王朝の最重要港湾か?

皆さんは、口之津湾の湾奥に高良山神社があることをご存知でしょうか?


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国道筋から数百メートルも入った目立たない所にあることから、地元でもこの界隈に住む方しかご存じの方がおられないようですが、今も高良山という小字が残る小丘に、立派な鳥居を持つ社が鎮座しているのです。もちろんご存じないのが道理ですが、大牟田市の西南部、有明海に鋭く突出した黒崎岬の先端や、私の住む武雄市花島地区のこれまた高良大社に向かって東に突出した小丘にも高良玉垂が祀られていることから、この口之津高良神社もそれらの一つであると考えられます。

京都や青森の五戸にもあることから、直ちに何かが分かるというものではありませんが、古来、有明海一帯を支配したはずの高良玉垂の威光を感じさせるものであることは言わずもがなのことであるはずなのです。

この場所は、現在、公園化されているポルトガル船の接岸泊地跡からさらに百メートル近く奥に入ったところに位置しています。さらに言えば、埋め立てが進んだ口之津湾の相当に古い時代の港湾跡の上にあたるようなのです。

遠い古代に於いて、外洋航海も含めた出船泊地であったとしか思えない場所なのです。

そして、そのことを証明するかのように、この岬の直下には「西潮入」という小字が残っています。

もはや疑う余地はありません。朝鮮半島から中国大陸への最後の安全な寄港地、停泊地

である口之津から、帆をいっぱいに張った外洋船が、遠く、中国、朝鮮に向けて出て行く姿が目に浮かんでくるようです。きっと彼らは、高良玉垂に航海の安全を願い外海に出て行ったと思うのです

長崎の最南端、野母崎(長崎半島)を廻ります。すると、自然と対馬海流に乗り、全く労することなく一気に壱岐、対馬、そして朝鮮へと、また、五島列島を経由し江南へと向かったことが想い描けるのです。

さらに思考の冒険を進めてみましょう。

何故、この地に苧扱川があるかです。繊維を採り布を作るとしても、単純に、服の生産などと考えるべきではないでしょう。恐らく古代に於いても、最も大きな布(繊維)の利用は、服などではなく、、船の帆ではなかったかと考えるのです。

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一般的には、中央の目から、また、九州に於いても博多の目から、宗像、博多、唐津、呼子が強調され過ぎていますが、宗像はともかくも、博多から半島に向かうとしても、一旦は西航し、対馬海流に乗ったと言われるのですから、久留米、太宰府からも引き潮はもとより、有明海の左回りの海流を利用して口之津に出て、対馬海流を利用する方が遙かに安全で有利だったはずなのです。

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苧扱川の苧麻布とは木綿以前の繊維


古代において、有明海の最奥部であったと考えられる久留米の市街地にオコンゴウと呼ばれる川、苧扱川(池町川)があり、西に開いた有明海のまさにその出口の一角に苧扱川と苧扱平という地名が三ケ所も残っています。

さて、この島原半島南端の良港、口之津にオコンゴ地名があることは象徴的ですらあります。始めはそれほどでもなかったのですが、今になって、このことの意味することが非常に重要であることに気づき、今さらながら戦慄をさえ覚えるほどです。

一つは、あまりにも強固な地名の遺存性についての感動であり、今ひとつは、有明海が西に開いていることと多くの伝承や物象が符合していることです。

まず、広辞苑を見ましょう。「【苧麻】ちょま〔植〕カラムシ(苧)の別称。」としています。カラムシ(苧)を見れば、かなり多くの記述あり、ここでは略載しますが「…木綿以前の代表的繊維(青苧(あおそ))…」などと書かれています。

重要なことは、もしも外回りの航路を採ったとすれば、口之津が大陸へ向けた本土最後の寄港地であることからして、この苧が衣服ばかりではなく、船の帆や綱として組織的に生産され、それが地名として今日まで痕跡をとどめたのではないかとも考えられるのです。

ここで、さらに視点を拡げます。実は、この苧、苧麻が皆さん誰もがご存知の、いわゆる『魏志倭人伝』(魏志東夷伝倭人条)に登場するのです。

もはや、写本のどれが正しいかといった議論は一切必要ありませんので、手っ取り早くネットから拾いますが、いきおい「苧」、「苧麻」が出ています。少なくとも有明海沿岸が倭人の国の候補地になることは間違いがないところでしょう。


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婦人は髪を束ね、単衣の布の中央に穴を開けた様な衣である。
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稲、チョマを植え桑の木に蚕を飼い糸を紡ぐ。(苧麻は沖縄から南で繊維を使う)

http://www5.ocn.ne.jp/~isao-pw/wazin.htmを参照されたし。

もう一つ補足の意味でご紹介します。宿敵安本美典系のサイトから…(ほんの洒落ですが)。


其風俗不淫 男子皆露以木緜招頭其衣幅但結束相連略無縫 婦人被髪屈作衣如單被穿其中央貫頭衣之種禾紵麻 蠶桑緝績 出細紵緜 其地無牛馬虎豹羊鵲 兵用矛楯木弓 木弓短下長上 竹箭或鐵鏃或骨鏃 所有無與擔耳朱崖同

http://www001.upp.so-net.ne.jp/dassai/gishi/gishi_gen.htmを参照されたし。

その風俗は、淫(みだら)でない。

男子は、みなみずら(の髪)(冠もなく) ()している。木緜(ゆう:膽こうぞの皮の繊維を糸状にしたものとみられる)をもって頭にかけ(はちまきをし)、その衣は横に広い布で、結びあわせただけで、ほとんど縫うことがない。

婦人は、髪をたらしたり、まげてたばねたりしている。

作った衣は、単被(ひとえ)のようである。その中央をうがち(まん中に穴をあけて)頭をつらぬいてこれを衣る(いわゆる貫頭衣)


禾稲(いね)、紵麻(からむし。イラクサ科の多年草。くきの皮から繊維をとり、糸をつくる)をうえている。蚕桑し(桑を蚕に与え)、糸をつむいでいる。細紵(こまかく織られたからむしの布)・絹織物、綿織物を(作り)だしている。

http://yamatai.cside.com/tousennsetu/wazinnden.htm を参照されたし。

古代史、それも、九州王朝説(論)に地名の話を持ち込みましたが、当然にも奇異な感じをお持ちになった方もおられたことでしょう。   

そろそろ、それに何らかの決着を着けなければなりません。久留米地名研究会を十人足らずで始めた実質的な第二回目の会合において、「久留米市街地にオコンゴが流れる」を取り上げました。非常に間の抜けた話なのですが、その頃になって、このオコンゴ=苧扱川の「苧」(チョマorオ)がいわゆる『魏志倭人伝』に出ていたことに気づいたのです。

もちろん、“倭の水人が好んで潜水し魚貝を採る”など倭人の風俗に触れた部分なのですが、女が貫頭衣を着ているとした後に、種禾稲紵麻…出細紵(稲チョマを植え桑の木に蚕を飼い糸を紡ぐ)と書かれているのです。

当時の研究会でも久留米の池町川と有明海の出口にあたる島原半島の口之津に同じオコンゴという地名があり、久留米がかつて繊維産業(久留米絣)の中心地であったことを考える時、いわゆる倭人伝に書かれた文字がそのまま残る両地が、また、同時に倭人の棲む土地であったことを意識したのです。

私も九州王朝が卑弥呼の国の後継国家であることを疑わない一人なのですが、このオコンゴ地名の分布を考える時、その分布が有明海沿岸に集中し、分布領域の中心部に位置していることに気付くのです。もちろん、地名はその成立時期を特定することが、ほぼ、不可能な上に、サンプルの絶対量が少ないことから、何の根拠にもならないとお考えになるかもしれませんが、神籠石、真珠、絹、鉄の分布に加え、正確に拾い出し作業を行なえば、複数の地名複合の対応などにより何らかの示唆を得られるのではないかとも考えています。

実際、絹の分布を考える時、それほど絶対量が多いわけでもないのですし、考古学の世界では纏向遺跡のようにたった一つの発掘例で卑弥呼の時代のものだなどと決め付ける愚か者の学者や大新聞があるのですから、それで良いとは言わないものの、無視されるほどの物でもないように思います。


口之津の高良山神社について


私は20103月まで口之津史談会に入っていましたが、同会の平 一敏氏が書かれた「口之津の神社総覧」を頂き読ませていただきました。その中に高良山神社が出てきますのでご紹介しておきます。

このような小冊子でも同様ですが、その地域で重要な神社、信仰を集める神社は先頭に掲げられます。ここもその例にもれず、口之津湾の裏山とも言うべき富士山(190m)山頂に鎮座する富士山神社に次ぐ二番目に高良山神社が掲載されています。


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口之津港字界図

唐人町の裏山、高良山に建つ3棟の社殿、御堂によりなる。昔の鎮守の杜の面影をそのまま残す姿の美しい神社である。向かって左は金比羅宮、有翼の像を祀り潜伏キリシタンの信仰をも思わせる。右は大師堂、島原半島版鎮西八十八ケ巡りの第17番札所となっている。 (古川:以下省略)


平 氏もその由来などはほとんど知られていないとされながらも、「ただ有家町木場に同名の神社があり、創建の由来もはっきりしている。同社は島原の乱の後の慶安4年(1651)、筑後吉村から移住してきた末吉氏が故郷の高良神を勧請してきたもので、…(中略)…唐人町の高良さんも、その名称からして同様の経緯で創建されたものとみてほぼ間違いない。すなわち、島原の乱後、すっかり荒廃したこの地に筑後周辺から来た移住者が、高良大社から勧請、創建したものであろう。」とされています。

私は木場の高良神社(有家町堂崎)も、複数回に亘り注意深く見てきました。平氏の説には敬意を払いつつも率直に言わせて頂ければ、木場は全くの開拓集落であり、名称も玉垂宮(旧字ですが)と異なることから、埋立の進んだ口之津港湾奥の一等地とも言うべき地にある同地の一の宮とも言うべき神社が、新参者の外地からの移住者によるものとの説には容易には同意できかねます。まず、金比羅とのセットであることが、九州王朝との関係が揶揄される宮地嶽神社と同じであり、背後に聳える富士山神社(祭神は言うまでもなく木乃花佐久耶媛でこれまた九州王朝との関係が濃厚であり、もしかしたら、「フジ」と言う地名も東海に持ち出されたものかも知れないと考えています。)も天長3年(826)という古い時代に富士山浅間(せんげん)神社から分祀されたものとの伝承を考え併せれば、九州王朝との関係を否定できないと考えています。

なお、有家町堂崎の高良玉垂神社については、「木場の高良さんの祭り」(『有家風土記』)という伊福芳樹 氏による詳細なリポートもあります。また、付近の六郎木地区には同町(当時)教育委員会で神籠石ではないかと言われる未調査の遺跡があることもお知らせしておきます。


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