スポット107 九州王朝論の危機 “サンゴ礁からやって来た猿田彦”講演に見るあさましさ
20170701
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
九州王朝論の危機と言った場合、それは九州王朝論者を自認する組織の危機と言ったものに収斂されるでしょう。
凡そ教育委員会や自己保身に汲々となっている子飼いの学芸員などが、仮に九州王朝論に一部関心を示したとしても、シンパシーを持つはずもなく(このことは近年菊水インター付近の和水町の庄屋筋の屋敷で発見された「納音九州年号対照表」が一切無視された事でも明らかでしょう)彼らの寄って立つ基盤は学会通説であり、それに奉仕することが飯の種だからです。
ところが、一時期、古田武彦よりも、さらに掘り下げた九州王朝論探究を目指した兼川 晋(公開講座でも講演)荒金卓也、以下、多くの講演者を産みだした某九州王朝論の研究会が次世代の研究者を全く養成できず、今や月例会(と言っても年に8回程度ですが)そのうち6回近くを教育委員会の学芸員や通説派に靡く他の残存郷土史会といったものに依存し御高説を拝聴し平伏するという状況に陥っている(と聴く)のです。
一方、古田史学の会の会員の内部にも、安○美○の息の掛かった半通説派、東遷説派であり学会通説の別動隊である「邪馬台国シン○ジウム」なるものに同調し共催へと動く人々が現れるなど、古田武彦が一生を掛け貫き通した九州王朝研究への姿勢をいとも易々とかなぐり捨て同調する無様な動きが目立ってきているのです。
唯一、これまで佃収講演を行い続けて来た菊水史談会のみが、一貫して通説派の講演会を行なはず孤高を保ち続けているようです。
これも熊本県内の某研究会で行われた発表ですが、「古事記」の“猿田彦がひらぶ貝に挟まれて溺れ死んだ”(「ひらぶ貝にてお且猿は猹田彥の神のひらぶ貝に手をくひ合せられて海におぼれて祌さりましつ」)と言う話を掘り下げる事もなくそのまま披露し、柳田国男、谷川健一の(南方起源説)だけを結び付けシャコガイか何かを引っ張り出し「サンゴ礁からやってきた猿田彦」という大道芸まがいの講演をやった神職(K県K市K神社)がいたのですが、そして、これがまた九州王朝論者の会のメンバーと言うのですから見るも無様で、恐らく故)古田武彦も嘆いている事でしょう。
話題作りや初心者対策のマヌーヴァならいざ知らず、猿田彦の三回公演のメイン・ディッシュというのですから恐れ入ります。これが行政に尾を振り私も使って下さいとするさもしいメッセジ(行政への売り込み)である事は明らかで実に情けない限りです。
つまり、上は○○シンポジウムの講演者(教育委員会の芸人)から果ては、調教された地元のボランティア・ガイドに至るまで肖りと集りとも言えぬ学会通説への擦り寄りを体現しているのです。
これらの動きは古田武彦を失った後の流動化と言えばその通りであり、利権集団と化した教育委員会、○古学協会、学芸員といった通説を宣伝流布する全国的傾向に向かう対抗軸の再構築こそが求められているのです。
町興し村興し果ては世界遺産登録に狂奔する行政に迎合し、ありもしない邪馬台国探しや邪馬台国祭に協力し尾を振るさもしい人々によっては、古田史学が到達した地平さえも易々と譲り渡す事になるでしょう。
そうした中で、高良山に残された「高良玉垂宮神秘書」(コウラタマタレグウジンヒショ)の書き下しを行い、再調査、再研究に取り組んでいる研究者がいます。40年近い筑後の神社調査と公開講座でも講演された百嶋由一郎神社考古学を結び付け最新研究を発表し続けているblog「宮原誠一の神社見聞諜」の管理者である宮原誠一氏です。
勿論、文献の史料批判という概念がある事は十分過ぎるほど承知していますが、この「高良玉垂宮神秘書」は通説派が崇める「記紀」とは全く相いれない内容を持っており、それだけでも検討されるべき価値のある第一級資料と言うべきものであり、「記」「紀」の元になったのではないかと思える部分が多多あり、通説派への対抗への重要な要素を持っている一書です。
これまで九州王朝論は「古事記」「日本書紀」を聖典とする歴史学者を相手に、「記」「紀」をベースに文献史学の立場から正攻法で立ち向かい大きな業績を上げて来ました。
それ自体は素晴らしい業績ではあるのですが(「記」「紀」に依拠する通説派などは大嘘ですが)、そもそも「記」「紀」は藤原が造ったものでしかなく、所詮は勝者の歴史でしかないのです。
ところが「宮神秘書」には「古事記」とは全く異なる世界が描かれており、九州~西日本全域の神社調査を行う限り「宮神秘書」に書かれる事との整合を数多く見出すのです。
象徴的な事としては、筑後周辺には高良玉垂命と神功皇后とを夫婦神としてセットで祀る祭祀が確認できる事です。
それが、藤原が創った「記」「紀」に整合しないとしても、九州王朝の中心地は九州北半であり、最低でも欠史8代に相当する事象はこの九州に探るべきなのです。
それを奈良の周辺だけ調べて痕跡がいっさいないから架空であるとしたのがお粗末な欠史8代架空説なのです。ほとんど漫画の様な話で、これが畿内説論者とか言う人々の実態なのです。
そして、この九州王朝の高良玉垂命と仲哀死後の神功皇后との間に産れた仁徳天皇こそが若宮神社とか若宮八幡宮…の祭神なのです。
引き続きお読み下さい。
スポット108 なぜ神社は生き残れないのか?
20170706
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
年間300~500社もの神社を見るようになってくると、どうしても神社へのシンパシーを持つようになってきます。
以前取上げたK県K市のK神社のY神職のように大道芸紛いの興業(「サンゴ礁からやってきた猿田彦」)で行政や教育委員会に尾を振るどころかチンチンまでして自らを売り込もうとするようなさもしい古代史研究者なるものが居たにせよ、この神社への思いは強まりこそすれ弱まる事はありません。
さて、小○竹○改革なる金融資本のアメリカへの売り飛ばしによって、国民の所得が実質半減した事は、どなたも身を持って実感されている事でしょう。
実感を持たれない方であっても、ここ十年でセカンド・カーどころか車自体が一家一台に減り、軽自動車に変わった事や、若者の車離れが所得の低下と無関係と言える方はおられない事でしょう。
本来ならばその失われた余剰が、室町期以来、日本の伝統文化の基礎となってきた、お茶、お花、書道、舞踊、音曲、詩吟…からピアノ、バイオリン教室に至るまでの様々な習い事から、最後まで残った実利的な学習塾でさえも、少子化、所得の低下によって倒産の憂き目に逢っているのですから、実利など全くない神社の賽銭箱のあがりなど盗まれこそすれ増える気配など全くないのです。
これが、小規模な神社どころか参拝客が急増する大神社においても同様なのですから、事態は極めて深刻です。
これも、押しも押されもしない大神社の幹部から聴いた話なのですが、「参拝者はブームで増えているけれども、交通整理や案内で人手が取られるだけで、お賽銭の方は全く入らないんですよ…」という状況で、賑わっているからと言って決して財政基盤が保持されているとは言えないのです。
大神社に於いてさえこの有様なのですから、中小の神社に至っては想像するのも恐ろしい状況が進んでいる事が推察されるのです。
そもそも神社へのお賽銭とかお寺へのお布施といったものに法的根拠は、一切、存在しません。
このため氏子や檀家と言えども、所得が半減しギリギリのところで生活している状況では、賽銭やお布施を絞るのは致し方ない訳で、人は不要不急の支出をそぎ落とし生きて行くしか手段がないからです。
結果、神社の社殿の老朽化、崩壊、放置が進んでいるのも事実であり、もうしばらくすると氏子組織が急速に崩壊する事が予測され、十年以内には再建されない神社が劇的に増えてくると考えられます。
まず、お祀り、お祭り、社殿の清掃…といったものは、氏子の組織さえ残っていれば、よほど性質の悪い宮司でもない限り、ある程度継続する事は可能でしょう。
しかし、年年歳歳、神社に対する強い親近感を持った氏子が高齢化し神社の行事から消えて行きます。
そのうち、注連縄の作り方から、御幣の作り方、神輿の繰り出し方…に至るまでメモ帳を手に確認しながらやらざるを得なくなってくるのです。
早晩、宮司本人が何も知らないといった状態さえ考えられる状況になりかねないのです。
氏子が経済的基盤を失い、ギリギリの生活を続けている中で、神社の行事に無報酬で呼び出されたり、寄進を求められたり、神社周辺の清掃草祓いに呼び出される時、元々法的根拠が存在しない中、何時まで継続できるかは、ウルトラマンのカラー・タイマー並みの危機的状況にあることは明らかで、神社が先に潰れるか、宮司が先に死ぬか、氏子が消えるか…どちらが先になるかと言った状態にあるでしょう。
多くの神社を見てきた者から見た神社一般の危機はそこまで来ているのです。
ではどうすれば良いのか
この問題に答えを出すには、それぞれの思想的スタンスが関係することから自ずと異なった結果が出てくる事になります。
まず、我々は神社研究から列島の古代を探っているだけであって、信仰心から神社を調べておられる方も一部にはおられるようですが、基本的には研究対象として神社を見ているだけなのです。
事実、私自身は戦前から存在した日本キリスト教団の牧師が経営する幼稚園に通い、その後も日曜学校に通い、クリスマス・キャロルの一員でもあったのですから(もっとも家自体は浄土真宗本願寺派の門徒でもあるのです)、凡そ、神社とか寺院とかいったものとは縁遠い存在だったのです。
従って、私自身の神社へのシンパシーとは列島の古代を今に伝える文化遺産、古代史の資料としてのそれであり、その神社を可能な限り正確に後世に伝えたいと言う事に付きます。
それは、大神社の参拝者を見下したような高慢ちきな伊勢あたりの禰宜(“良く神社の千木を問題にして質問してくる人がおられますが、それは素人の考えで…云々と言った”)や、前述の権力に尾を振るさもしい3K宮司が居たとしても変わらないのです。
勿論、信仰心を持った方、氏子総代といった方には異なる考えが有られるであろうことは言わずもがなでしょう。
単なる文化財としての存続への思いはあるのですが、神社とは建物そのものではなく、伝承、祭礼の在り様、摂社を含む祭神伝承、社殿の様式の一切であり、単に書類が残っていれば済むと言ったものではないのです。
このため、可能な限り神社を自分の目で確認する事が重要になるのですが、記録を残すだけにしても十年掛けても高々5000社程度の踏査に過ぎず、事実上は時間との競争になっているのです。
ところが、多くの神社を見ていると、厳しい条件であるにも拘わらず、神社の存続が確立していると思える神社に一つの特徴があることが見えてきます。
これは経験的に分かる事ですので説明するのは難しいのですが、要は「顔の見える神社」は生き残り、「顔の見えない神社」は生き残れない のではないか…という法則です。
勿論、「顔の見える神社」とは、誰が祀られているのかを明示している神社の事であり、それが摂社、末社、分社の類まで明らかであり、我が奉斎する神は何者であると言う主張が伝わってくる神社と言う意味なのです。
この顔の見える神社は、他社に対して比較的に神社の清掃から寄進者の金額や集落の規模に対して寄進金額が多いとか、行事、祭礼がきちんと行われているという印象があるのです。
要は氏子の結束が強く、地域との連携も良く取れ、結果、参拝者への配慮もきちんとされている事になり、他社が徐々に存在価値を失って行くのに対して生き残り、最後は自らが地域全体主をも塗り潰してしまうと言う気概までが感じられる神社という事になるのです。
つまり、自らが何者であるかを主張する神社とは、自らの一族が祀る神はこの大神様であり、自らはその後裔の一族であると言う強いアイデンテティーの主張なのです。
しかし、ここで考えなければならない事は、時の権力の変化によって、別の勢力からの圧力を受け、絶えず祭神を入れ替えさせられたり、他の勢力の奉斎する神を押し付けられたり、元々の神を消し去られることさえも起こったでしょう。
しかし、政治情勢が変わればたちどころに元の祭祀と自らの主張を復活させ、一族の結束を再建するのです。
このような氏子一族の結束を強めるための教化に継続性を持たせるには、今はこの神を祀る事にはなっているが、本来の神はこの神であり、自らはその後裔なのであるという教化こそが顔の見える神社の意味なのです。
現在の一般的氏子の神社に対するシンパシーの希薄さには驚くべきものがあります。
誰が祀られているかを知らず、仮に知っていたとしても、それがどのような神であるかを誰も知らないと言う有様といった状態では何のシンパシーもなく神社を守ろうとする意識に影響するだろう事は言うまでもないでしょう。
この氏子への教化、自らの氏族の正統性、継承性、神社との一体性こそが神社の強さとなるのです。
問題は、明治期に県社とか郷社といったものに指定され、行政の庇護の元に入ろうと、本来の祭神さえをも捨て去り、隠し、入れ替え自らの氏素性を捨て去った神社が続出した事なのです。
戦時下の政策の一環として、国民統合のため「古事記」を中心にたった一つの統一されたメッセジで全ての国民を塗り潰してしまった事に起因しているのです。
結果、自らの誇りある伝承、歴史をかなぐり捨てることになった途端、氏子達にも嘘を教えることになった場合、一挙に、神社への尊崇、信頼、共鳴、一体感…の全てを失って行く事になるのです。
後は、泣こうが、喚こうが、脅そうが、虎の子の氏子の共感は戻ってこない事になるのです。
坊主や神主と言った曲がりなりにも清廉性、神聖性を売りにした人々が堕落すれば尊崇の念は消え失せるのであって、実はこの部分こそが危機の本質になるのです。
最低でも、K県K市のK神社のY神職のような研究者などと自認する大道芸人まがいのさもしい宮司の神社に未来が無い事だけは確実で、早晩潰え去る事になるでしょう。