スポット109(後) 列島(劣等)民族の今後の生き方について“東芝が嵌められタカタも食い物にされた”①
20170701
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
そもそも、秀吉から家康に引き継がれたこの外交政策は、イエズス会の宣教師(ルイス・アルメイダ…)などが、黒色火薬一樽と婦日本の婦女子50人とを交換し、実質的にはアフリカの黒人奴隷の三角貿易と同様の構造でバダヴィアなどに娼婦として送り込んでいた(一説には35万人とも)事を知ったからだったのです(これについてはネット検索をされればミッション系ではなくプロテスタント系の牧師さんなどが色々な事を書いています)。
明治維新政府とは、そもそも背後にいたユダヤ金融マフィアの資金と武器と力を借りて実行した事から(中東のバラ革命などと同様)彼らを悪く言えず、大東亜以降の永久占領下においてもアメリカやバチカンを批判する事はしないのです。
不審に思われる方はご自分でお調べ下さい。一応、一例ですがご紹介しておきます。
ポルトガル人による日本人などのアジア人の奴隷貿易 アジア人の奴隷[編集]
ポルトガル人が日本人に1543年に初めて接触したのち、16~17世紀を通じ、ポルトガル人が日本で日本人を奴隷として買い付け、ポルトガル本国を含む海外の様々な場所で売りつけるという大規模な奴隷交易が発展した[1][2]。多くの文献において、日本人を奴隷にすることへの抗議とともに、大規模な奴隷交易の存在が述べられている[3][4][5][6][7][8][9][10][11][12]。日本人の奴隷たちはヨーロッパに流れ着いた最初の日本人であると考えられており、1555年の教会の記録によれば、ポルトガル人は多数の日本人の奴隷の少女を買い取り性的な目的でポルトガルに連れ帰っていた。国王セバスティアン1世は日本人の奴隷交易が大規模なものへと成長してきたため、カトリック教会への改宗に悪影響が出ることを懸念して1571年に日本人の奴隷交易の中止を命令した[13][14]。
日本人の女性奴隷は、日本で交易を行うポルトガル船で働くヨーロッパ人水夫だけでなく、黒人水夫に対しても、妾として売られていた、とポルトガル人イエズス会士ルイス・セルケイラ(Luís Cerqueira)が1598年に書かれた文書で述べている[15]。日本人の奴隷はポルトガル人によってマカオに連れて行かれ、そこでポルトガル人の奴隷となるだけでなく、一部の者はポルトガル人が所有していたマレー人やアフリカ人の奴隷とさせられた[16][17]。
豊臣秀吉は自国の民が九州において大規模に奴隷として売買されていることを大変不快に感じ、1587年7月24日にイエズス会の副管区長のガスパール・コエリョに手紙を書き、ポルトガル人、タイ人、カンボジア人に日本人を買い付けて奴隷にすることを中止するよう命じた。また、インドにまで流れ着いた日本人を連れ戻すよう言い渡した[18][19][20]。秀吉はポルトガル人とイエズス会をこの奴隷交易について非難し、結果としてキリスト教への強制改宗が禁止された[21][22]。 ウィキペディア(20170705 19:54)
「日葡辞書」やルイス・フロイスの「日本史」(部分的にしか読んでいませんが…)は素晴らしいのですが、カトリコの宣教師などただの人でなしの人買いの武器商人でしかなかった事が分かるのです。
現在でも文部省はこの事実を教えようとすらしていないのです。それは日本の支配者がアメリカだからでしょう。
さて、ここで、江戸時代の貿易品であった有田焼、伊万里焼の事を考えて見ましょう。
これは、有田焼の業者から直接聞いた話ですが、“もう20年以上前から、有田焼は一部の高級品は別として経費の掛かる現地生産を縮小から終了させ、デザインだけを指定し中国での半製品から実質完成品を持ち込み有田焼のブランドで売っている”との事でした。
つまり、実質的に安物しか買わない買えない庶民にとっての有田焼は存在していなかったのです。
結局、陶器市なるもので客寄せイベントだけを行い、中国生産の「有田焼」を通常の値段で販売しているからこそ売上高は減ったとしても販売元だけは何とか食えている(た)だけで、デザイン、絵付師、実際に焼き上げる職人、さらには中級品以下の転写屋から果ては縄で包装する業者に至るまで、とっくの昔に消え失せてしまっていたのです。
半耐久消費財である焼き物が過剰生産の中で将来とも生き残れるかは別にしても、最低でもこれまで消えて行った職人達にも、それなりの給料を貰い、誇りを持って生きて行け国民経済に貢献できていたはずだったのです。
勿論、技術革新は江戸時代にもあった訳で、後家さんの唯一の収入源であった脱穀作業が、センバコキの登場によって消失してしまったり、どぶろく生産が清酒にとって代わられた様に、封建体制化の江戸時代においても資本主義的な商品生産、商品経済は勃興期を迎えており、国内で必要な物の大半は外国に依存する事無く国内で全て賄え、平和で安定した経済体制が維持できていたのでした。
日本の対外政策を見ると、遣唐使を派遣していた時代から、それを廃止して閉鎖型の社会に変えた時代、ご存じの通りの鎌倉期の閉鎖型農業国家、平家の対宋貿易の時代、源氏~北条氏による鎌倉政権の閉鎖政策、足利将軍家による室町期の倭寇を排除した対明勘合貿易の時代、ご存じの宣教師が乗り込んでくる戦国期の外交喪失開放時代、その反動としての鎖国時代、そして文明開化の明治時代…と開放型、閉鎖型が交互に入れ替わる社会だったのです。
これは、良い悪いの問題ではなく、列島を取り巻く情勢の変化によって、大陸に強国が登場し、国益を損なう恐れがある場合には貝が蓋を閉じるが如く閉鎖し、大陸が混乱し分裂国家の時代になれば、新しい技術、文化、思想を受け入れても安全であり、単に扉を開け開放政策を採れば良いだけであって、常時開けっ放しで自由貿易をやる必要など全くないのです。勿論、シー・レーン防衛も低減できるのです。
別に永世閉鎖国家にするべきだなどと言っているのではなく、日本の独自の文化と独自の経済政策=経済利益を守るには、自由貿易よりも厳格な管理貿易から貿易の廃止へと向かった方が望ましいと考えているのです。
そうすれば、海洋資源開発、海底の石油、メタン・ハイドレート、液化天然ガスの開発、航空宇宙技術など自由に行え、高高度技術の多品種少量生産によって内国経済は十分に賄え潤せ、全ての日本国家の成員が誇りを持って生きて行けるでしょう…。という提案なのです。
そうでなくても、既に日本の貧困はアメリカ以上に急激に進みつつあります。
かつての日本には国立大学の授業料が年間12,000円という時代がありました(私の入学年度から36,000円=36万円ではないのです になったので個人的にはその恩恵に与っていませんでしたが)。
このことは、全ての国民に高等教育の機会を均等に与え、全国津々浦々まで張り巡らされた国鉄によってほぼ全ての地域からの就学が可能な国家が成立していたのでした。
それを徹底的に潰したのが売国奴中曽根による国鉄改革(国労潰し)だったのであり、それ以降の日本は決定的な格差社会へと変貌していったのでした。
今や、三度の食事にありつけない児童(終戦直後は欠食児童と呼ばれていましたが)が巷に目立つようになり、バブル崩壊以降の二十年の停滞期に明るい未来どころか人生を失った若者たちが社会の半数を占める様な時代になっているのです。
特に悲惨なのは、就労の機会を奪われるどころか始めから与えられなかった女性であり、この一群から少子化、少産化、無婚化が始まり、とうとう大規模な国家の縮小が始まったのでした。
悪者が誰だったかは明らかでしょう。
結局、猛獣や化け物が棲む大陸国家の人でなしどもを相手にする外国貿易そのものは、平和な島の羊にとっては悪なのであり、現代版鎖国政策へと舵を切る時期が近付いているように思うのですが、それを見る事無く終焉を迎える事になりそうです。
熱い中たくさんの資料をお送りしてご迷惑とは思いますが、あまりにもひどい事が列島で引き起こされており書かずにはいられないのです。
故意かどうかは置くとしても、熊本地震に引き続き、こんどは朝倉、日田が酷い目に逢っています。
それに、48時間降水量(二日で550㎜など普通の大雨でしかない)などと言った水増し印象操作により、普通の大雨をあたかもとんでもない大雨のような表現で責任逃れをし、40年ほどで切らなければならない杉を売れない事から放置し総崩れが始まったようなのです。
私が産れた昭和28年の諫早大水害は24時間で1109㎜、35年前の長崎大水害は24時間で600㎜なのです。
朝倉、日田程度の雨は毎年でも降るのです。ということは災害復旧工事が無意味なのです。
なぜなら、復旧できたとしてまた災害が起きるのです。それは、日田が5年前の復旧が終わる前に再び洪水に見舞われたのです。