436 冬至の日の小規模トレッキング “熊本県御船町の玉来神社、駄野神社”
20161222
太宰府地名研究会 古川 清久
熊本の神社トレッキング・メンバーから、“今回は30~40名単位の大規模な神社詣りをやめて、熊本市の被災地の鎮魂のために身近な神社に参る事にします。”と連絡が入りました。
声を掛ければ十分なメンバーが集める事は可能なのですが、今回、そのような半ば浮かれた気分になれなかったのには、やはり、熊本地震の事があったのだと思います。
そこで、5~6人の小グループで震源地に近い益城町の津森神社に集合しました。
当方もブログを書いているばかりだと、頸肩腕症候群になりますので、気分転換とばかりにのこのこ出てきた訳です。
天気予報では雨だったのですが、完全に外れで、朝から上天気でした。
津森神社は神武から何故か綏靖をはずし(神社縁起はそう書いてないのですが、「熊本県神社誌」ではそう書いている)第29代欽明天皇までを祀る珍しい神社なのです。
印象としては、肥後の古社ながら神殿摂社に阿蘇系が祀られていない神社という特徴を持っています。
しかし、宮司は甲斐であり、一目阿蘇系の名であり不思議なのです。
今回、震源地そのもののような場所にも関わらず、何故かほとんど被害を受けなかったのです。
この神社は非常に重要ですので、いずれ別稿として書くつもりですが、ここでは五七桐紋を頂く重要な古社とまでしておき、普段訪れないような忘れられた二社をご紹介したいと思います。
既に、限界集落を先頭に、多くの小さな神社が祀る人々そのものを失い、潰え去って行きつつあります。
津森神社を出て最初に訪れたのは御船町の玉来(タマライ)神社でした。
訪ねる人はいないと思いますが、現地は非常に分かり難い事から、熊本県上益城郡御船町田代950 ℡ 096-281-9177 の玉来郵便局でお尋ねになる事をお勧めします。
そこからは、十分、歩いても行ける場所なのです。
玉来神社 カーナビ検索 御船町田代1248 祭神 菅公
見ての通りの小集落の神社ですが、反ってそれなりの信仰心を感じてしまいます。
このバス停の直ぐ上に祠がある事から玉来地区の鎮守様であることが分かります
まず、玉来(タマライ)という地名が珍しいと思われる方は多いと思います。
この地名については、民俗学者の故)谷川健一が、狩り集らい(狩りをする前に神前で山の神の狩の許しを請い、段取り分担を付けるために集まった場所)=玉来として書いていますが、彼の念頭にあったのは、大分県の玉来地名だったようです。
荒城の月で知られる豊後竹田の一つ西側にJR玉来駅があり、玉来川が注いでいますし、鹿児島県南さつま市の金峰町周辺のでも認められますが、谷川は気づいていなかったようですが、阿蘇の波野村、この御船町の玉来…など九州では5~6ケ所はあるのです。
この「玉来」地名については、奈良県の玉置神社と関係があるのではないかと考えています。
ただ、今のところ玉置→玉来、玉来→玉置のベクトルは分かりません。
南北朝争乱期に、宮方のネット・ワークで山岳修験が関わっていたのではないかと考えていますが、今のところそこまでです。
菅公とお妃なのでしょうか?
さて、「熊本県神社誌」を見るとこの神社は付近にある旧村社駄野神社の摂社とされています。
この駄野神社も見て頂きますが、建物の損傷はそれほどないようですが、熊本地震によって鳥居、参拝殿、手摺、参道には大きな被害が出ています。
ただでさえ神社の存亡が囁かれているのですから、小集落だけに再建は容易に進まないでしょう。
玉来神社が85戸の氏子に対して、駄野神社は1029戸の氏子を持つ大神社(旧村社)です。
「熊本県神社誌」によれば、現在は、阿蘇の三、四、五、六宮(阿蘇神社の三~六宮となると草部吉見系)を祀る阿蘇系神社とされています。
ただ、多分それは違うであろうとの思いがありました。
概して阿蘇系の神々が肥後の多くの神社に覆いかぶさっているのは南北朝争乱期以降の事であり、それ以前は、菅原系、大山祗系(トルコ系匈奴)の神社が多かったはずなのです。
そう思って境内を見回すと、直ぐに大山祗神社があったのです。
この点、朝来山(アサクナヤマ、チョウライサン)の南をアサクナから連想し邪馬台国に敵対した狗奴国(クナコク)ではないかとの仮説が出されているのです(邪馬台国と狗奴国と鉄)。
数年前に菊池秀夫氏を現地に案内しましたが、その後、朝倉地名の移動、全国展開と併せ考えると、この狗奴国の勢力の北上、全国展開こそが物部氏の跳梁跋扈と連動しており、この勢力こそが大山祗を奉祭する人々であることが見えてくるのです。
まさに、この玉来地区に鎮座する駄野神社に大山祗が祀っているとすると、それはまさにこの朝来山の南であり、狗奴国の領域にもなるのです。
そして、駄野神社の駄野とは製鉄を行う時に必要となる大量の燃料の木炭、柴、薪の集積地であり、製鉄地帯には、駄野、駄ノ原、…といった地名が付き纏うのです。
西原村、益城町、御船町一帯も古代製鉄が確認できる場所でありうなずけるのです。
この写真は冒頭に書いた玉来郵便局です。
麻生交通のバス停がありますが、「牧の原」となっていることがお分かり頂けると思います。
かつて、この地には阿蘇氏の「牧」が置かれていたことが、この「牧の原」と言う地名からも想像できそうです。