スポット120 緊急リポート 全国の九州王朝論者に告ぐ! “九州王朝の古代官道と勅使門”
20170916
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
一昨年は単独行で日本海沿いに山形の手前まで主要な神社を見てきました。また、昨年の11月には、百嶋神社考古学の研究拠点の一つである茨城県常陸大宮を基地に周辺の埼玉、茨木、栃木、福島の各県の神社に訪問し、取って返して山梨市から富士五湖の周辺の神社を踏査してきました(富士吉田市にも調査用の居留地が確保されていますので)。
現在、熊本、福岡両県に続き、仮称)大分県神代史研究会を軸に大分県下でも神社トレッキングを続けていますが、今のところ月例で国東半島全域の神社調査を行っています。
これとは別にトレッキングの延長上ながら個人的な作業として西日本全域の神社探査も継続して行っています。この複数の過程で非常に重要な「勅使門問題」に気付くに至りました。
まだ、十分には掘り下げてはいませんが、まずはこの重要な事実に気付いて頂き、全国の真面目な研究者の皆さんに検討、批判を深めて頂きたいと提案するものです。
勿論、藤原一族、近畿大和朝廷によって隠され続けて来た歴史ですから容易には復元できません。
学会通説派は元より、九州王朝論者にあってもアカデミズムに毒された方々はせせら笑う事でしょう。
しかし、事は1500年も前の話であり元々完全な復元ができるはずもはく、「古事記」の95%が嘘だと言い切った故)百嶋由一郎氏を信奉する人々の中からしかこのような事実には気づくはずはなかったのです。
普通の古代史探究者の方々は、ただひたすら文献史学の立場から繊細に(細々と)「記紀」の欠陥を追求し真実らしき痕跡を追求するしかないのであって、元々、都合の良いように藤原が造っただけのただの虚構の書でしかないものを精査する事にどれ程の意味があるのかと思わざるを得ないのです。
ここで重要なのは、九州王朝の存在を追求する者にはその大凡のアウトラインが分かれば良いのであって、まずは、そういった観点でお話を進めたいと思います。
話は数年前にまで遡ります。過去何十回と訪れている大分県の国東半島ですが、姫島正面の伊美別宮社~岩倉社~岐部神社~…と九州王朝系の高良玉垂命と若宮社が脇殿として抱く神社が並んでいます。
その中でも、岐部神社にあまりにも立派すぎる神殿への脇門が造られている事にようやく気付き不思議に思っていました。
これは橘一族(紀氏)の石清水八幡宮国東別宮、伊美の別宮社の神殿内摂社 左)高良社、右)若宮社
さらに、今年になり国東半島の付け根と言うべき豊後高田市の若宮八幡社に豪華この上ない勅使門風の神殿への脇門を見出すに至り、今回の但馬の朝来市に勅使門を持つ神社が二社存在している事の対応に気付いたのでした。
このようなものも、何度も訪れて初めて気付くもので、そう言えばあそこにもあったと思うようになりようやく気付くものなのです。
そして、今回の但馬の粟鹿神社と赤淵神社の勅使門を見るに及ぶや、これは近畿大和朝廷に先行する九州王朝の勅使門の痕跡ではないかと考えるようになったのでした。
今般、丹後、丹波の神社踏査に続き、但馬でも朝来の調査に入ったのですが、新たに兵庫県朝来市の二社に九州王朝の時代としか考えようのない勅使門を確認した事から、改めてこの重要さを認識し全国の皆さんに関心を向けて頂きたいとお知らせしようとするものです。以下は赤淵神社の石碑文です。
仰 赤淵大明神 人皇始以来第九代開化天皇御代也 是時皇子四道将軍祀彦坐王 是粟鹿大社之流也 彦坐王為但馬國造子孫代々國造而 司神事執行政務開 拓國土劃治水振興農業以愛民生偉業烈烈恩澤普及 自是營一祠祀歴代國造赤淵 大明神是也
號日下部表米宿禰命 赤淵宿禰五世孫而忠功有奉聞 丹後丹波但州三箇國可為 守賜宣使本國也
因在所窮見給枚田郷内高山麓淵有之淵尋赤淵云 平城守東向赤淵大明神奉祝之 宮也 赤淵神社合祀久世田庄勘納岡表米明神奉祝 然而惣名日下部姓始祖神表 米御子在所分附給 朝倉 絲井 奈佐 日下 八木 本山 太田垣 宿南 姓 是也 属者尊崇殊厚是皆在所名也 日下部表米流丙与繼為子孫不依上下男女可奉 仰 昭和四十五年三月二十七日赤淵神社為國重要文化財 枚田郷赤淵神宮司佐 宗氏同郷地頭枚田氏始氏子連之厚思奉謝 茲来裔氏旌考證家傳祈念之建碑傳永 世者也 -赤淵神社境内石碑-
ここには、第9代「開化天皇」の名が出てきます。「百嶋神社考古学」では高良玉垂命その人なのです。
左)同社由緒 右)境内の石塔と急遽大阪からお呼びした内倉武久(元朝日新聞記者)氏
青枠の「常色元年」が九州年号である事がお分かり頂けますね…従ってこの時代に使われた九州王朝の天皇の一族とその勅使だけが使える門であることが推定できるのです。
なお、勅使門の問題には踏み込んでおられませんが、古田史学の会の古賀達也氏により、この赤淵神社の九州年号「常色」についてブログ5本(実質2本)で検討を加えておられます。
1. 第636話 2013/12/21 1ドルの『邪馬壱国の証明』の邂逅 791話 2014/09/24 所功『年号の歴史』を読んで(3)第697話 2014/04/22 『古代に真実を求めて』17集の採用稿 第690話 2014/04/06 朝来市「赤淵神社」へのドライブ 古賀達也の洛中洛外日記 '14 以上。
古賀氏も一度は現地を踏み、九州年号の「常色」について取り上げられておられますが、残念にもこの勅使門の存在のあまりにも大きな重要性についてはお気づきになっておられないようです。
九州王朝の古代官道
九州王朝の古代官道については、神社調査の中で 「車路」「車地」…地名に関しては九州島以外でも何度か遭遇していますし、福岡県大牟田市の「駛馬」地名や宇佐神宮の「駅館」地名にしても近畿大和朝廷の付したものではないと考えてきました。
詳しくは「ひぼろぎ逍遥」のblogを読まれるとしても、この事を強く意識したのは宇佐神宮の「勅使道」問題でした。
誰がどう考えてもおかしいと思うのが宇佐神宮への勅使道であり、東からやってくるはずの近畿大和朝廷の勅使がどうして宇佐神宮から西にしか伸びていない勅使道を使うのか…との疑問が消えなかったのです。それが、当時「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)に宇佐神宮リポートを書いた動機でもあったのです。
ご覧の通り、宇佐神宮の脇から寄藻川を跨ぐ呉橋を渡り、西(北西)に延びているのが勅使道であり、同じく呉橋を持つことで有名な薦神社(中津市)を経て、豊前市の大冨神社(勅使井戸を持つ)or金富神社へと西へ西へと延び、採銅所のある香春神社を経て宇佐の元宮とも言われる飯塚市の大分八幡宮から米の山峠を越え太宰府、小郡、久留米(恐らく大善寺玉垂宮)へと延びていたものと考えられるのです。
こんなものが近畿大和朝廷が造った勅使道であり、それを使用していたなどと言うのは大嘘と言うより、ほぼ漫画に近く、事実、道鏡事件(宝亀3年 772年)の和気清麻呂は宇佐神宮の東で寄藻川の下流に鎮座する梶鼻神社の船繋石に舟付し上陸しているのです。
当初、呉橋は勅使道に掛けられていたもので、そこ(宇佐)が終着点ではないかと考えていました。
しかし、紀氏の牙城であり、九州年号を持つ石立山岩戸寺などがある六郷満山の国東まで勅使道が延びていなかったなどと考える事が土台大きな誤りでした。
当然、宇佐神宮を越え、仏教王国の国東まで勅使が行っていたと考えておくべきだったのです。
これらの事実を知っていたことから、この但馬(兵庫県北半部)の勅使門も元々は近畿大和朝廷のものではない…と徐々に理解が及んだのでした。
九州の「風土記」は良く知られていますが、遠く飛んで「播磨国風土記」が存在します。
当然、ここにも初期の九州王朝の植民国家と呼ぶべきものが存在していたはずなのです。
一方、赤淵神社の元宮とも言える粟鹿神社の由緒を見ると、天武から後宇多天皇までの間に三度の勅使の派遣記事が書き留められています。では、それ以前はなかったのでしょうか?
恐らく、継体天皇の25年(531)年の創立という古い神社である事から(勿論、「二中暦」など九州年号の一部には継体があるものもあるのですが)、776年になって勅使門が造られ、以後、二回勅使が派遣されたと考えるのは間違いでしょう。
赤淵神社「伝説」(パンフ参照)にある新羅からの侵攻を受け半島情勢が緊迫している時期に
こそ勅使は派遣されているはずであり、それ以前にも勅使が送られていたと考えられるのです。
今、考えを思い巡らせているのはこの但馬の国の性格についてです。
まず、豊岡市、養父市、朝来市の三市とは、福岡県の遠賀川河口の岡垣町の豊の岡の意味であり、養父市も肥前国(現佐賀県鳥栖市)の養父郡の置換え(現鳥栖市養父町)であり、朝来市も筑前国の朝倉郡(現朝倉市朝倉町=朝来町)の置換えなのです。
その上、但馬の国とは現在の宗像大社の鎮座地である福岡県宗像市大字田島そのものなのです。
さて、故)百嶋由一郎氏は、“九州王朝は但馬の国に逃げています”“但馬には九州の地名がゴロゴロしていますし、現地では九州の言葉が話されています…”“その九州王朝を支えたのは橘一族です”と言われていました。
播磨も同様ですが、兵庫県の北半部の但馬地方の地名を見ると、半分近くは九州の地名ではないかと思えるものばかりが拾えます。
その事を強く意識したのは養父市の市役所の傍にある「朝倉」という地名を見た時だったのですが、浅井朝倉連合軍で知られた朝倉義景の御先祖も、敦賀に入る以前はこの養父(養父市屋岡)に居たのであり、弟の小佐氏(小佐も福岡市の日佐=オサですね)に譲り敦賀に進出したのです。
多くの地名はご自分で調べられるとして、これらの地名が713年の所謂「好字令」以降の二字の好字の地名である事から、どうやら九州王朝が滅亡する切っ掛けとなった白村江の戦い(白江戦)前後からの動乱、701年の九州王朝滅亡、749年の九州王朝の宗廟を宇佐に譲る(「高良玉垂宮神秘書」)の時代に追い詰められた九州王朝が、近畿大和から最も遠い場所に避退したのが但馬への移動だったのではないかと考えています。
何故ならば、海路が全てであった時代、仮に奈良大和から難波へさらに瀬戸内海を渡り関門海峡を抜け、遠路日本海側に倍の航路を移動しなければ到達できない但馬の地こそが安全な地であり、それは但馬の真裏に形成された平安京成立(794年)まで続くのです。
つまり地名と政治情勢から考えて、701年or713年(好字令)から794年までの間に元々九州王朝の重要な経営拠点であったと考えられる但馬へ避退したものと考えられるのです。
この間、養父市大屋町の御井神社(養父市を中心に10社程度)=久留米市の高良山直下の御井町の御井を軸に調べて来ました。
朝来市(ここにも高良玉垂命と神功皇后の間に産まれた長子=仁徳天皇=斯礼賀志命(シレカシノミコト)を祀る若宮神社が5社程度拾える但馬の最奥部の朝来市もさらに調査を進めるべきと考えています。
この朝来市を中心とするリポートも既に10本程度を書き上げていますが、掲載の順番もあり、来年の初夏以降になりそうです。
なお、但馬と九州北半部の地名対応に関しては六年前に書いています。
ただ、故)百嶋由一郎氏の添削が入っている事から調査を優先し棚上げにしていたことから公開していません。
このため、今後遅れ馳せながら公開したいと考えていますので、この点はご容赦願います。
ただ、詳細な地図を持って見比べれば直ぐに分かる事ですからご自分で試みて頂ければ良いだけです。
また、今後、但馬周辺の方のご協力を頂けると有難いのですが…。
既にメンバーの一部から、「赤淵~粟鹿神社ラインは南丹市(小)大淀比神社(式内)を掠め、麻気神社に繋がる」との連絡を頂きました。
一方、内倉先生からも直ちにコメントを頂きましたので公開しておきます。
古川さん「緊急レポート」の送付、謝謝。日本列島の古代史の真実をあばく いいレポートと思います。たくさんの人に読んでもらえればいいですね。
ただ、小生など全体像をつかんでいる者はよくわかるのですが、一般的な人が読む場合を考えれば、全体的にやや説明不足気味です。初めての人、知識不足の人が読んでも納得できるように書けば、さらに
いいレポートになるのではないかと感じています。以後、そのことに気をつけながら書いてください。重複もいとわずに。
書き手はわかっていてもほかの人が充分理解できるかは別問題ですよ。ついでですが、レポートの中にある「継体」という年号はありません。「継体天皇即位後25年」という意味です。機会を見て訂正されたらいいと思います。それと「式内社」というのは新しく誕生した大和政権にとって都合の良い、あるいは新政権に屈服した神社を顕彰した制度です。「古い歴史を持つ神社」ということではありません。もちろんそれはご存知のことだと思いますが、そのこともまたしっかり書いておかれた方がいいと思います。
小生のブログも大分読者が増えてきました。先週はなんと7000人を越える人が見に来てくれました。「関西における熊曾於と紀氏の足跡をさぐる」という表題に引かれた一時的な現象かもしれませんが、喜んでいるところです。
ちょい多忙なため、関東への調査旅行に同行できないのは残念ですがまたの機会に!うっちゃん先生
なお、継体天皇の25年という書き方の事は九州年号の継体の意味ではない事は理解していましたが、初稿は曖昧なまま書いていました。
以下、「新古代学の扉」の「九州年号総覧」古賀達也から一部抜粋。
継体 五 元丁酉 五一七~五二一 善記 四 元壬寅 五二二~五二五
(同三年発誰成始文善記以前武烈即位)
正和 五 元丙午 五二六~五三〇 教倒 五 元辛亥 五三一~五三五
(舞遊始)