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453 荒津 様からのお尋ねにお答えして

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453 荒津 様からのお尋ねにお答えして

20170213

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 愛知県にお住いの荒津という姓の方から“自分のルーツを探しており福岡市を訪れたいが…“という話が、百嶋神社考古学に関心をお寄せいただいている実質的なメンバーでもある愛知県在住のYさんを通じて持ち込まれました。

 まず、「荒津」という姓がそれほど多くない(全国でも500以下だろう…)ことは経験的に分かります。


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これまで地名研究に携わってきたことからこの手の話は頻繁に入るのですが、まず、いつも利用させて頂いている「姓名分布&ランキング」というサイトから「荒津」姓の全国分布を見る事にします。

 結果は明瞭でした。この手のケースでもこれほど鮮明な結果が現れる事はなかなかありません。

 500件どころか、全体でも100件にも満たない姓であり、比較的判別の付く氏族である事が分かります。

 ご覧の通り、全国で79件中 ① 福岡県(福岡市東区~西区糸島半島東部) 54件 ② 愛知県(ほぼ渥美半島付け根の豊橋市一帯) 14件 ③ 兵庫県(神戸市長田区、灘区~) 3件…という分布を示しています。

 初見ながら、どのように考えても福岡県から兵庫県を経由し、紀伊半島を迂回し東海に進出した小規模ながらもかなり有力な小氏族である事が見て取れます。もう少し詳しく見る事にしましょう。


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兵庫県に関してはご自分でご覧になって頂く事にしますが、これは、姓名の分布から見た全国傾向であり、今度は地名の分布を見て頂きましょう。

博多湾岸の「荒津」という地名に関しては、問い合わせを頂いた時から頭に浮かぶ事がありました。

それは、「荒津」、「荒江」、「荒戸」と言った地名が古代博多湾の湾奥、汀線、室見川支流の流域に分布しており、故)百嶋由一郎氏からも、“この「荒」(アラ)は、半島でも伽耶の安羅国の意味ですよ”と聴いていた事から、今回もその線で考えるべきであろうと言う予想を建てる事にしました。


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まず、ごく大雑把に言えば、大濠公園の湖は古代の博多湾の「草ケ江」の名残なのです。

それを意味するのが「荒戸」という地名であり、「荒津」から「草ヶ江」への通路としての荒「門」であり、「草ケ江」の「草」も「茅」(実は朝鮮半島の伽耶)の置換えと考えられるのです。

模倣とされるのを嫌うため、勿論、設計者は認めないでしょうが、中国浙江省の杭州市にある名所中の名所である西湖を模して整備された事は明らかで、古代においても国際都市であった博多(福岡ではない)には、現在でも大博通(これも実は呉の太伯の大伯通りの意味と考えられる)も存在しているのです。

では、「荒津」姓に最も関係があると思われる「荒津」一帯で関連のある神社を調べて見ましょう。

「荒津」では一社だけ思い当たる神社があります。西公園の北に鎮座する光雲(テルモ)神社です。


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そして、西公園の山も古くは「荒津山」と呼ばれていたそうですから、(地元の研究者からのアドバイス)「荒津」の地名の発信源がこの地であろう事は疑い得ないでしょう。


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「福岡県神社誌」上巻(64p


 お分かりの通り、旧県社)光雲神社は黒田氏入府によって持ち込まれた神社ですから、荒津神社こそが元々古くからこの荒津の地にあった神社である事が分かります。

当然、境内末社の日吉神社も光雲神社との関係はなさそうですが、付近の住吉神社と併せて関係がありそうです。

 では、荒津神社の祭神を考えて見ましょう。神武天皇、大物主神、金毘羅神の三神となっています。

まず、百嶋神社考古学では、博多の住吉神社の祭神は中筒男命であり、その実体も、神武僭称第10代贈)崇神の事であって、当然、荒津の住吉もこの崇神(ハツクニシラススメラミコト)と考えます。

とすると、大物主神、金毘羅神が誰かと言う話になるのですが、大物主は「主」という尊称を使用している事から、恐らく博多の櫛田神社の主神である大幡主(「主」がありますね)の傘下の大国主命かスサノウ(こちらも同じく大幡主の傘下です)であり、金毘羅様も通説では大国主命とされますが、百嶋神社考古学では大山咋=日吉神社=山王社…としますので、その三神の一族と「荒津」氏は関係があるように思えるのです。

 ここで視点を変えて見ましょう。小規模ながら福岡の近世史にも「荒津」氏が登場するのです。

 場所は福岡ICに近い福岡市東部の糟屋の一帯で、「荒津」姓が集中する第二のポイントです(黄)。

 一部ではありますが、北九州市立自然史・歴史博物館の中西義昌氏の論文をご覧ください。


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荒津氏が拠点としていたと思われる福岡ICのある一帯は、福岡市東部の多々良川の河口に近い場所で、あり、恐らく、古代には汀線に近いまさにウォーター・フロントといった場所であって、同時に、南北朝争乱期にも多々良浜の合戦が行われた要衝でもあるのです(戦国期にも激戦が行われています)。

この要衝に居た氏族となると、それこそ重要な中核部隊であり、同時に水戦にも長じた勢力であった可能性が考えられそうです。


足利勢は、筑前国宗像(現在の福岡県宗像市周辺)を本拠とする宗像氏範らの支援を受けて宗像大社に戦勝を祈願し、筑前国の多々良浜(福岡市東区)に布陣した菊池氏率いる宮方と戦うが、足利軍は約2千騎に過ぎなかった。兵力の差は歴然で、少弐貞経が足利軍のために調達した装備は菊池軍の大宰府攻撃の際に焼失していたため、当初は宮方の菊池軍が優勢であったが、菊池軍に大量の裏切りが出たため戦況は逆転し、菊池軍は総崩れで敗走し、阿蘇惟直は戦死した。    ウィキペディア(20170213 1909


当然にも要衝ですから、古くから多くの有力氏族がひしめき合っていたようです。

まず、八田はヤタガラス=豊玉彦系の氏族(白族)であり、猪野は現在も皇大神宮があるニギハヤヒ=山幸彦系の拠点でしょう。また、山田も大山咋=日吉神社=山王社…系統の氏族と思われますし、神武僭称贈)崇神天皇系統の氏族が展開していた様に思えます。

まだ、断定はできませんが、久原姓は桑原姓とかなりの重なりがある事から、「桑原」は桑の木を植え蚕を飼い生糸、絹織物生産に携わった人々が住み着いた場所に付けられる傾向があり、秦氏、豊玉彦(ヤタガラス)系統と考えて良いように思えます。

城戸氏も他の地域から類推すれば、橘諸兄の橘一族=豊玉彦系かも知れません。

宇美の神武(コウタケ)や桜井は、贈)崇神に続く事になる草部吉見系=春日大神=鹿島大神=武甕槌系と考えられ、恐らく阿蘇系(黎族)氏族で良いように思えます。

鎌田については「ひぼろぎ逍遥」202208 釜蓋 ①~⑦で書いた民族と思われ、知多半島にも展開した民族(恐らく漂海民のバジャウ)と考えていますので参考にして下さい。

ここまで見てくると、この「荒津」氏はどのような人々なのでしょうか?

朝鮮半島の安羅伽耶から進出してきた大山祗系(トルコ系匈奴)なのか、それとも大山咋系なのか、もう少し情報が欲しいところです。

なお、この久山~糟屋の一帯は交通の要衝である事から、現在でも、非常に交通量が多く、フィールド・ワークの絶対量が少ない事から、今のところ直ぐに結論を出せる状況にはありません。

久原地区だけでも、スサノウ系の須賀神社、天御中主系白山姫神社、乙宮神社(恐らく阿蘇系)、木寄神社(不明)…が散見され、フィールド・ワーク後に再度書く事にしたいと考えています。


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参考 百嶋由一郎手書きデータ第1集より半島の「伽耶国」


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数字は成立順を表しています


「荒津」さんは、愛知県名古屋市昭和区川名本町付近の方と聴いています。ここには延喜式内川原神社(別名川名の弁天様 川名本町4-4)があり、日の神、埴山姫神(土の神)、罔象女神(水の神)を祀っているようです。この点から言えば、「荒津」様もスサノウ系か大幡主系氏族である可能性はあると考えられそうです。勿論、いつも申し上げる通り、日本列島に住む人々は全て半島や大陸からの渡来系民族が融合し合ったものと考えています。それでは答えにならないため、ここでは伽耶の安羅から45(謎の世紀)世紀に進出してきた民族と考えられそうですが、現段階では一応、大幡主系の白族としておきます。


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