456 アイヌ語地名アラカルト ②
20170301
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
004 七面岳(ヒレメウシ)
恐らくどこの山だかお分かりにならないでしょう。しかし、熊本県の阿蘇五岳の一つだと言うとさらに驚かれるでしょう。
今や、通常の地図にも国土地理院の地図にも根子岳としてしか表記されていないと思いますが、七面岳(ヒレメウシ)とは東端の根子岳のことで、私自身も昔の地理院地図に根子岳(七面岳)と併記されていたのを見た事があります。
私は学生時代に山歩きのサークルに所属していましたが、ゼミの教官などとこの山に登り、下山の途中、東の尾根で落雷に襲われ、非常に危険な目に逢った事を今でも鮮明に覚えています。ノコギリの歯のように尖ったいくつもの峰を持つこの山は、阿蘇五岳の中でも際立って印象的なシルエットを見せています。
もちろん、根子岳を木の根っ子と思えば、確かにそれらしくは見えますが、これは北の阿蘇谷側から付けられた地名であるのに対して、七面岳とは南の南郷谷の方から付けられた山の名称なのです。
このあたりのことについて一九八三年に書かれた本がありますのでご紹介しましょう。
・・・阿蘇山の場合、陸軍参謀本部地図班は阿蘇谷の宮地を根拠として、地図作成を行った。この明治三十五年発行の地図が一般に通用している五万分の一の地図である。一方、これに先立ち、農商務省地図班は南郷谷に白川を根拠地として、地図作成作業を行っている。これは明治十六年に発行なされた。一つの山でも、見る方向や谷が異なり、部落が異なると呼び名が違う場合がある。阿蘇谷の方は、郡役所の案内で作業を行い、地名のつけ方についても阿蘇五岳の中央河口丘の東端にあるピークを「根子岳」と記載した。しかし一方、南郷谷の方は、古老の言や古文書を渉猟して、「七面岳」と記載した。古くは「ヒレメウシ」または「七面岳」と呼ばれていた(前熊本大教授、前々京大阿蘇火山研究所長であった南葉教授とは、「ヒレメウシ」とは鋸の歯のようにとがった山という意味のアイヌ語であると、私に語ってくれた。・・・)。
『九州の先住民はアイヌ』(新地名学による探求)根中治/葦書房
阿蘇の根子岳 別名 七面岳(ヒレメウシ)
特に山について、移動が困難であった時代には、一つの山に対して別の名が付けられる事は決して珍しいことではなく、佐賀県唐津市の鏡山が別名領布振(ヒレフル)と呼ばれ、別府温泉の西の大平山が扇山とも呼ばれるように、今でもこのような例はかなり採集できます。
文中には明治の農商務省地図班が地図を作成する上で、現地での古老の言の聴き取りや古文書の調査がされている点など、より民俗学に近い手法で採集された事が想像できます。
「七面岳」とは、恐らく「ヒレメウシ」という数千年の単位で継承されてきた地名が「七面岳」として書き留められたものと思われます。少なくともその可能性は否定できないでしょう。
私は、思索の冒険、暴走を止められない人間ですので、北の阿蘇谷に進出してきた新興民族に追い落とされたアイヌ、もしくは縄文系の先住民が、黒川、白川の大峡谷を最後の防衛ラインとして南郷谷辺りに命脈を保っていたのではないかなどと考えてしまいます。
九州のアイヌ語地名については今後も取上げて行くつもりですが、佐賀県に限定しても脊振山の辰巳谷(ポロメキ)、ズーベット山、東松浦半島のトリカ崎、枝去木(エザルギ)、江北町の佐留志(サルシ)・・・とアイヌ語めいた奇妙な名前が採集されます。これらについても、いずれ取上げたいと思います。
005小吹毛井(コプケイ)
宮崎市の鵜戸神宮と言えば、有名な青島の南にある観光スポットです。かつては新婚旅行の定番とされ、多くの新婚カップルが訪れた海蝕洞に造られた有名な神社(旧官幣大社:祭神はウガヤフキアエズ)があることでも知られています。この入口に吹毛井(フケイ)という奇妙な地名があるのです。
フケイとは何か?004七面岳(ヒレメウシ)で引用させて頂きましたが、『九州の先住民はアイヌ』(新地名学による探求)を書かれた根中治氏は、これについてもアイヌ語地名として紹介されています。
熊本大学の南葉教授と一緒に宮崎市周辺の天然ガスの調査に出かけた。調査行の途中、有名な鵜戸神宮に一緒に御参りした。お宮は太平洋に突き出した鵜戸岬の突端にあり、祭神は海幸彦・山幸彦の伝説を生んだ鵜草葺不合尊(神武天皇の父君)である。茂在寅雄教授(東海大学教授、『日本語大漂流』の著者)によれば、海幸彦は火照・山幸彦は火遠理で、ホテリは「舵取り」、ホオリは「喜びを与える」の意であり、ポリネシア語で海幸・山幸の意になるという。・・・(中略)・・・
バス停より山を越えて海岸の方へ降りて行くと、大きい水成岩(日南層群)の海蝕岩窟があり、神殿は、その大きい岩窟の中にある。・・・(中略)・・・
この鵜戸神宮の入口、宮崎交通のバスの停留所の地名が「吹毛井」である。南葉教授は私にそのバス停の看板の地名を指示して「この吹毛井というのは“プケイ”岩窟のあるところというアイヌ語である」とおっしゃる。・・・(中略)・・・
アイヌ語とポリネシア語のかかわりについては後に述べる。
私はこのようにして、言語学者や地名学者でもない二人の自然科学系の学者から、九州南の果てにあるアイヌ語地名の話を聞かされたのである。
『九州の先住民はアイヌ』(新地名学による探求)根中治/葦書房
吹毛井(フケイ)と小吹毛井(コプケイ)が対応している事は間違いありません。これは付近を通るJR日南線の北一〇キロほどの区間に内海駅、小内海駅があり、小目井(こちらは大目井は消失していますが、かつては北の富士川、伊比井川のどちらかに同地名があったと思われます)があることでも推察されます。
私が現地を踏んだのは三十年も前ですが、地図でこの鵜戸神宮の南に小吹毛井(コプケイ)という地名があることには知っていました。小吹毛井とは、小さな海蝕洞のある土地となる訳ですが、確かそのような話を聞いた事があります。これについてはそのうち確認したいと思っています。
006 アイヌ語地名とアカデミズム
既に004 七面岳(ヒレメウシ)などで取上げたアイヌ語地名について、
かなり違和感をお持ちの方が多いと思いますので、この際、この問題について簡単にふれておこうと思います。
九州の地名をアイヌ語で説明をすると、通常は、学者、研究者ばかりではなく、一般の方々にもそれだけで馬鹿にされてしまいます。
学会では東北地方まではアイヌ語地名の存在を認められていますが、それ以外となると簡単ではありません。この傾向はアイヌが北方ルートで日本列島に渡って来たとする向きが多く、大陸と日本列島が繋がっていた時代に半島経由で南から入って来るルートは無視されるきらいがあるからです。
もしも、南方ルートが認められ、いったんはアイヌ系の人々が列島全体にあまねく広がったことが想定されれば、九州のアイヌ語地名についても、その存在の可能性について多少は信用していただけるのでしょうが、時代は、まだ、そこまで到達していないのかも知れません。
ここで、谷川健一氏がアイヌ語についてどのように考えているかを見て、当面の答えにしたいと思います。
ともかくも、柳田はアイヌ語地名を白河以北にとどめて考えてはない。それどころか東日本に分布する堂満や当間という地名がアイヌ語であるとしている。これからしても、柳田が単一民族国家の考えに基礎を置いた一国民俗学に加担したものではないことが確かめられる。そこで私どもは、アイヌ語地名が白河以南にも残存する可能性を原則的に認める必要がある。その上でアイヌ語地名の取扱いには思いつきや語呂合わせを避けた慎重な取扱いが要求されよう。
『日本の地名』谷川健一(岩波新書)
東北地方のアイヌ語地名については、金田一京助や山田秀三など、少数の研究家の業績のほか見るべきものはない。日本を相対化する武器として、東北のアイヌ語地名は限りなく重要である。しかるに、日本の諸学問は今なおその価値を認めることに冷淡である。
『柳田国男の民俗学』谷川健一(岩波新書)
ヒレメウシは阿蘇の根子岳の話でしたし、コプケイは宮崎県の鵜戸神社の話でしたが・・・。
再 掲
・・・阿蘇山の場合、陸軍参謀本部地図班は阿蘇谷の宮地を根拠として、地図作成を行った。この明治三十五年発行の地図が一般に通用している五万分の一の地図である。一方、これに先立ち、農商務省地図班は南郷谷に白川を根拠地として、地図作成作業を行っている。これは明治十六年に発行なされた。一つの山でも、見る方向や谷が異なり、部落が異なると呼び名が違う場合がある。阿蘇谷の方は、郡役所の案内で作業を行い、地名のつけ方についても阿蘇五岳の中央河口丘の東端にあるピークを「根子岳」と記載した。しかし一方、南郷谷の方は、古老の言や古文書を渉猟して、「七面岳」と記載した。古くは「ヒレメウシ」または「七面岳」と呼ばれていた(前熊本大教授、前々京大阿蘇火山研究所長であった南葉教授とは、「ヒレメウシ」とは鋸の歯のようにとがった山という意味のアイヌ語であると、私に語ってくれた。・・・)。
『九州の先住民はアイヌ』(新地名学による探求)根中治/葦書房
熊本大学の南葉教授と一緒に宮崎市周辺の天然ガスの調査に出かけた。調査行の途中、有名な鵜戸神宮に一緒に御参りした。お宮は太平洋に突き出した鵜戸岬の突端にあり、祭神は海幸彦・山幸彦の伝説を生んだ鵜草葺不合尊(神武天皇の父君)である。茂在寅雄教授(東海大学教授、『日本語大漂流』の著者)によれば、海幸彦は火照・山幸彦は火遠理で、ホテリは「舵取り」、ホオリは「喜びを与える」の意であり、ポリネシア語で海幸・山幸の意になるという。・・・(中略)・・・
バス停より山を越えて海岸の方へ降りて行くと、大きい水成岩(日南層群)の海蝕岩窟があり、神殿は、その大きい岩窟の中にある。・・・(中略)・・・
この鵜戸神宮の入口、宮崎交通のバスの停留所の地名が「吹毛井」である。南葉教授は私にそのバス停の看板の地名を指示して「この吹毛井というのは“プケイ”岩窟のあるところというアイヌ語である」とおっしゃる。・・・(中略)・・・
アイヌ語とポリネシア語のかかわりについては後に述べる。
私はこのようにして、言語学者や地名学者でもない二人の自然科学系の学者から、九州南の果てにあるアイヌ語地名の話を聞かされたのである。
『九州の先住民はアイヌ』(新地名学による探求)根中治/葦書房
007 『縄文語の発見』小泉保 の衝撃
元言語学会会長、大阪外国語大学教授、関西外国語大学国際言語学部長を歴任された小泉保教授の『縄文語の発見』が出版されたのは九七年ですから、三版まで重ねたこの本を十年遅れで読んだ事になります。手に入れて二日余りで読み上げましたが、これまで自分が不思議に思っていた問題がかなり解決したような気がしています。
内容を説明するなどむろん不可能ですが、簡単に言えば、日本語の方言形に比較言語学の手法を適用してその祖形を求め、さらに、方言の分布について地域言語学的考察から縄文晩期の日本語を復元されているのです。
一般的には、稲作の普及と連動する弥生時代の言語がその後の大和言葉に繋がり、それ以前の言語を考えるにも、その起源、系統をチベット、ビルマ、タミール、ツングースなどの外部に求める傾向が強く、弥生時代の言語は先住の縄文人の言語とは全く別系統でその駆逐によって成立したと考えるものが一般の大半の日本語起源論のようです。
ところが、小泉教授は前述の手法によって復元された縄文晩期の日本語は沖縄や東北地方の言語に近く、その言語が縄文晩期の言語に近いものとされているのです。この事に関して、我が古代史にも関係する重要な部分を、一部ですが紹介したいと思います。
・・・弥生語交替説の弱点は弥生語を奈良時代の言語そのものと見なしていることになる。そもそも弥生語はいかにして形成されたか。これについて、交替説はあいまいな形でしか説明していない。弥生語は北九州において成立し、やがて畿内に移動したという見解が有力である。そこで、北九州における弥生語の形成について、次の三通りの考え方ができると思う。
(1)渡来人の言語が弥生語である。
(2)北九州方言が弥生語である。
(3)北九州方言が渡来人の言語の影響を受けて弥生語となった。
(1)の仮説については、渡来人の出自が明確でない上に、渡来者の数がそれほど多くなく、断続的であったということから、渡来者の言語が弥生語となった可能性はきわめて少ないであろう。
(2)北九州方言が弥生語になったとするならば、九州の縄文語がそのまま弥生語の前身であったということになる。
(3)渡来人の言語的な訛が九州縄文語に作用したということは十分考えられる。
(2)と(3)の仮説はともに九州縄文語を前提としているから、その直系ともいうべき奈良時代の言語に九州縄文語の特徴が継承されていると考えられよう。筆者は(3)の立場にあって縄文語を再現しようと企てている。九州縄文語は琉球縄文語によって、その原形を伺い知ることができるであろう。だが、これ以外に縄文語の候補があるが、これ以外に有力な縄文語の候補がある。まず、この辺から手をつけていこうと思う。
『縄文語の発見』小泉保
日本語成立の起源については、過去、多くの提案がなされてきました。最近でも、茂在寅夫教授の南方系海洋民言語起源論や大野晋教授のドラヴィダ語起源説が話題になりましたが、このように外来の言語が日本語になったとか、日本語に大きな影響を与えたという考え方が普通であり、私達もそのように受け入れてきました。小泉教授の提案は、まず、原縄文語が前期九州の縄文語となり、渡来語の影響を受けながら原弥生語になり、さらにそれが弥生語となり関西方言になっていったとするものです。今後、もっと注意深く読みイメージを強化したいと考えています。