457 “田原神社とは何でしょうか?”との問い合わせについて 熊本県小国町田原の田原神社
20170306
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
blog「ひぼろぎ逍遥」の読者の方からこの研修所からもそう遠くない場所に田原神社というのがあるがどのような神社かとのコメントが寄せられた事がありました。
このコメントが送られてきた当時でもその存在には承知していたのですが、いつでも行ける神社には足が向かないもので、それきりにしていたものです。
この手の問い合わせに逐一対応できないというのは当然ですが、“自らはここまで調べていますがこの部分が分からないのでどのように思われますか?”ならば、多少は対応しようという気になりますが、“軽い興味で結果だけを得たい”といった問い合わせに対しては触手が動かないのは致し方なかったのです。
恐らくスーパー林道か高規格広域農道なのでしょうが、日田市の中心部から玖珠と小国の間辺りに抜ける髙規格の道路が集落を避けて造られています。
高原神社 カーナビ検索 熊本県小国町下城高原
山の稜線に沿って縫うように造られた道路ですから、高規格ながらも長延長となり普段は利用しませんが、ここを通るとカーナビに田原の集落と田原神社が出てくることから山上集落とも言うべき場所だけに興味を持っていました。
分かり難いでしょうが、杖縦温泉の東側の山上高原の一角にこの田原神社が鎮座しているのです
ただ、近いにもかかわらず気が進まなかった理由は、この手の小集落の神社には由緒書から神名帳といった物もなく、神紋などもないものが多く、徒労に帰すことが多い事もありました。
さて、予想していた事とは言いながら案の定、祭神の記述がありません。
小国町教育委員会に問い合わせれば分かるかもしれませんが、「熊本県神社誌」にさえ記載のないものが容易に見えてくるとも思えません。
現地は小国町下城にあるのですが、ご覧のとおり高原神社なるものはありません。
元々、この地は戦後の開拓集落かと思ったのですが、どうも下城集落の一部として日当たりの良い山上へと上がったもののように見えます。
参考になりそうなものは神殿脇の装飾模様だけですが、「丸に篠笹」紋は清和源氏の系統と考えられますので、恐らく、鎌倉期に小国の満願寺を中心に探題が置かれ、源家家臣団、関東武士団、平氏では北条氏が入っているようで、下城神社(「熊本県神社誌」参照の事)の祭神が北篠定宗命とある事からもある程度推測がつきます。
当然にも、笹紋の下に牛があしらわれている事は、先住者か配下にスサノウを奉斎する氏族が居た事も考えられそうです。
高原神社とはあまり耳慣れない神社ですから、始めは、高原という地名から付された神社であると甘く考えていました。
しかし、どうもそうではないような気がしてきました。
勿論、本物の神武天皇=カムヤマトイワレヒコ(神武僭称贈崇神=ハツクニシラススメラミコトとは別)の出身地である宮崎県高原町の狭野神社も頭に入れてはいるのですが、それは、奈良県の高原熊野神社や栃木県の高原山神社との関係がありそうなのです。
一般的に熊本県は阿蘇氏ばかりが目立ち阿蘇系神社ばかりがあるとお思いの方が多いと思いますが、実際には、県下の三千数百社中一千数百社が菅原神社であることはあまり知られていません。
この小国町でもご覧になれば分かるように、二十社ほどの中の半数弱が菅原神社であることがお分かり頂けると思います。
この意味の見当はある程度着いていますが、これについてはいずれ別稿とするものとして、どうも高原神社人々は菅原を奉斎する土着の人々とは別の氏族の様に見えてしまうのです。
勿論、牛が描かれていますので、菅原神を奉斎する人々が配慮されている事は見えるのですが、高原神社の主神とは、やはり、前述の神社との関係を考えるべきではないかと思うものです。
情報が少なすぎる事から、小国町の図書館、役場を探し回りましたが、徒労に帰し、当面、調査を保留する事にしました
ネット上には島根県松江市の田原神社が出て来ます。
この神社の存在は知っていましたし、今年の元旦もこの神社の前を通過していますが、まだ訪問するまでには至っていません。
主祭神
東殿:武御雷之男神、経津主神、天津児屋根命、姫大神
西殿:宇迦之御魂神
配神
東殿:天手力男神
西殿:奥津日子命、奥津日売命、波邇夜須毘売神、須佐之男命、櫛名田姫命
東殿は、『出雲国風土記』島根郡条の田原社に比定される。元々、北方の春日町田原谷(城北通り沿いに田原谷池有り)に鎮座した田原神社、或いは春日神社である。『雲陽誌』によれば、江戸期には、奥谷にあって春日四社大明神と呼ばれていた。
ウィキペディア 20170308 19:28による
これ以外にも幾つかの田原神社が拾えますが、あまりにも情報が少なく届きません。