458(前) 続)荒津 様からのお尋ねにお答えして
20170309
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
ひぼろぎ逍遥 453 荒津 様からのお尋ねにお答えして において「荒津」という姓について取り上げました。これはその続編になります。
前blogと併せお読み頂く必要があるため、関心をお持ちでない向きにはお読み頂く必要は全くありません。
愛知県にお住いの荒津という姓の方から“自分のルーツを探しており福岡市を訪れたいが…“という話が、百嶋神社考古学に関心をお寄せいただいている実質的なメンバーでもある愛知県在住のYさんを通じて持ち込まれました。まず、「荒津」という姓がそれほど多くない(全国でも500以下だろう…)ことは経験的に分かります。…以下省略
荒津姓というものがあり、福岡市と関係がありそうだと言うだけで書いたのが ひぼろぎ逍遥 453 でしたが、その後、当のご本人からかなり詳細な内容を含んだお手紙を頂きました。
今回は、前blogの誤りについてのご報告をし、併せて修正し補足的見解を追加するためのものです。
お手紙は公開を前提としたものではないため、一部しか書けませんが、以下の様に書かれていました。
「まず全国の荒津の分布についてですが、…」として、当方で勝手に推論を展開していた荒津姓の分布拡散の時期を古代に遡らせて考えていたことが誤りであった事が早々に分かりました。
つまり、ほとんどの荒津姓の東海、関東への展開拡散は、同族が明治以降に移動した事によって起こった事が書かれていたのでした。
これは当方の推測の限界であり、分布だけからは移動の時期を容易に特定できない欠陥を突かれた事になったのでした。
当方としては、荒津姓を物部の一派と考えたことから、どう見てもその拠点であった兵庫、愛知にピークがあったことから…つまり、出来過ぎとも言うべき愛知の伊那谷の入口のような場所にお住まいだった事から早とちりしたのでした。
一例ですが、籠神社、「海部文書」から物部の一派が東海から信濃に展開した事などを意識せざるを得なかったからでした。
それほど、古代に於いては東海から信濃への物部の展開は有名な話であり、その先入観に影響を受けていたからでした。
今さら言っても只の弁解にしか思われないでしょうが、福岡県の54件、愛知県の14件、兵庫県の3件、神奈川3件という事から生じた分布の魔術に引き摺られてしまったのでした。
お尋ねの荒津さんは既に十分にお調べになっていたようで、当方が俄(にわか)仕立てで好い加減に書いた事を上回る調査をされておられました。
光雲神社の摂社荒津神社も数度足を運ばれていたようですし、福岡市東部久山の荒津氏の本願地周辺も十分にお調べになっておられたのでした。特に慧眼と思ったのは、久山町周辺の荒津氏と城戸氏に関する焦点の当て方でした。
城戸氏は恐らく橘一族で間違いはなく九州王朝系の氏族であり、もっと踏み込めば白族系(大幡主、ヤタガラス系)の人々のはずです。ただし政略結婚により混血が進み大山祗(トルコ系匈奴)系とも考えられます(まさか城戸は匈奴の置換えではないでしょうね)。
重要なのは、城戸氏と共に建立し維持してこられた若八幡宮(「福岡県神社誌」では村社若宮八幡宮)
を重視されている事です。
ただ、荒津氏は橘一族とは異なる系統の氏族だろうと考えていましたが、なお、決め手を欠いています。
お手紙にあったように、本願地である福岡の若八幡宮で伊弉諾、海童命(実は豊姫、大海姫)を祀っている氏族だとすると、どうも、百嶋神代系譜に於けるニギハヤヒ=山幸彦=猿田彦の息子にあたるウガヤフキアエズ、その子である安曇礒羅系統の氏族ではないか?とまでは言えそうです。
尚、この荒津氏が何者であるかの解明はできていませんが、物部氏であろうことは、ほぼ、間違いないでしょう(そもそも武士=モノノフとは物部の事なのです)。
ただ、安羅伽耶から入ってきた贈)崇神天皇系(大山咋系)である可能性も残しておきたいと思います。
荒津さんは、久山町は元より、苅田、箱崎、宇佐…と神社ばかりではなく寺院もお調べでした。
当方は単に荒津さんの頭をかき乱しただけなのかもしれませんが、今後ともお調べになった若八幡を始めとして久山町を中心に調べて行きたいと思っています。
とは言うものの、距離では百キロを越え、渋滞の酷い所であることから、おいそれとは調べる訳にも行きません。
また、現在、フィールド・ワークといっても知識を持った古老とか優秀な宮司といった方に出会う事は稀で、ほぼ、聴き取りが困難な状態になっています。
「福岡県神社誌」を軸にネット検索を駆使して調べて行きたいと考えています。
まず、重要なのは、荒津氏の本願地であったと考えられる久原です。
久原とは製鉄、冶金の民がいた場所という印象を経験的に獲得しています。また、桑原とも重なり、桑原が桑の木を植え養蚕から繊維、絹布生産という秦氏=大幡主系の居住地であることが見えて来ますが、当然にも、付近には天御中主=妙見神を奉斎する神社が拾えます。
ここでは、まず、村社若宮八幡宮の縁起から考えて見たいと思います。
「福岡県神社誌」上巻112p
記述から直ぐに博多に多いエベスさんこと古々代ヘブライ系の人々(具体的には縁日などで夜店などを出すヤシの人々=神農様を奉斎する)が、木寄神社から事代主を持ち込んでいる事が分かるため、残る仁徳天皇、イザナギ、海童神の三神で考えて良いと思います。
若宮八幡宮とはされていますが、宇佐神宮の権威を受入れ八幡宮としているのであって、応神も神功皇后も宗像三神も祀っていないことから、一時期受け入れたものの現在は祭神を元に戻したようです。
城戸氏は紀氏の可能性が高く、九州王朝の本拠地であった久留米市の高良大社の中枢氏族であり、彼等こそ九州王朝の最後の天皇であった仁徳(高良玉垂命と神功皇后との間に産れた長子 斯礼賀志命=シレカシノミコト)を奉斎していると見て良いでしょう。本当は大山祗系の匈奴の可能性を残したいのですが。
若宮八幡宮の祭神を見て多少は荒津さんの御先祖が見えて来ました。
イザナギが外れ過ぎですが、イザナギか海童神かどちらかを祀られているのが、荒津さんの御先祖ではないかと思うのです。
イザナギはどなたもご存じの開闢神ですが、百嶋神社考古学では新羅系昔(ソク)氏と考えています。
では、海童神とはなんでしょうか?住吉の三筒男命は結構知られていますが、少童、海童はあまり知られていません。
これについては普通の史書では全くだめで、久留米の高良大社の「高良玉垂宮神秘書」(グウジンヒショと読むべし)を読み解く以外に方法がありません。
若宮八幡宮
若宮八幡宮 カーナビ検索 福岡県久山町山田1863