458(後) 続)荒津 様からのお尋ねにお答えして
20170309
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
丁度、うちの研究会の主力メンバーとしてblogをオンエアし始めた宮原誠一氏のblog №.4でこれについてふれておられますのでご紹介する事にしましょう。
6.住吉五神と海祗(わたつみ)の神
豊玉彦は海神と呼ばれ、後の天穂日命である。その父は大幡主であり、外洋航海の腕効きでもあった。海神・豊玉彦の二人の姫君、豊玉姫・(鴨)玉依姫は海童女二神と呼ばれる。
鵜草葺不合命は大海祗(おおわたつみ)であり、その子、豊姫・大海姫は海童少女二神と呼ばれ、福岡市の志賀海神社の祭神でもあり「少童(わたつみの)命」二神とも呼ばれる。
なお、志賀大明神は安曇磯良であり、安曇磯良・豊姫・大海姫はいずれも鵜草葺不合命の子である。この三神を総して、海祗(わたつみ)三神という。
高良玉垂宮神秘書 第435~440条
彦波瀲武鵜草葺不合尊と申すは住吉大明神のことなり。この御子に住吉の五神がおわします。
嫡男 表筒男尊 日神垂迹 玄孫大臣物部大連のことなり。これより大祝の家の初まりなり。
表津少童尊 女神におわします。
次男 中筒男尊 崇神天皇のことなり。
中津少童尊 女神におわします。
三男 底筒男尊 月神垂迹 高良大菩薩におわします。
高良玉垂宮神秘書 第1条
(前略) 彦波瀲武鵜草葺不合尊は住吉大明神なり。
この御子に住吉の五神として、御子おわします。二人は女子、三人男子にておわします。
二人の女子の御名は、表津少童命、中津少童命なり。
男子三人おわします。嫡男大祝の先祖で御名は表筒男尊なり。次男崇神天皇の御名は、中筒男尊なり。三男高良大菩薩の御名は、底筒男尊なり。次男中筒男尊はこの地に留りて、崇神天皇となり給うなり。住吉大明神は明星天子の垂迹、大祝先祖 表筒男尊は日神の垂迹なり。高良大菩薩 底筒男尊は月神の垂迹なり。
高良玉垂宮神秘書 第1条
(前略) 異国征伐の時、幕の御文これなり。四方に光を放ちたまう故に門光と名付けたり。月神現れ給いて、半時後、明星天子の垂迹、住吉の明神、七句老翁と現れ給う。この御子嫡男、日神の垂迹、表筒男尊、二人あらわれ給う。
三男、月神の垂迹、底筒男尊、四王寺の山において、三人共に立ち給う。
皇后の前にて、住吉の明神のたまう。我子の三男月神垂迹底筒男尊は、応作天大将軍の再誕にして、天上の大力士なり。大将軍に就くとありければ、住吉高良両名を大将軍と定め給う。皇后日く、日神垂迹表筒男尊、副将軍定め給いて、三韓を攻め給う。
綿津見(わたつみ)三神といえば、底津綿津見神、中津綿津見神、表津綿津見神と代名詞的に語られてきた。しかし、正式には「わたつみ」は「海祗」であり、「海」は朝鮮語で「パタ」と発音する。海祗(わたつみ)二女神は少童命(わたつみのみこと)とよばれ、鵜草葺不合命・大海祗(おおわたつみ)の子、豊姫・大海姫を指す。志賀大明神の安曇磯良、豊姫、大海姫はいずれも鵜草葺不合命の子であり、この三神を総して、海祗(わたつみ)三神という。
鵜草葺不合尊は住吉大明神と呼ばれ、後に引退され、三人の男子に住吉の神祗をお渡しになる。
住吉三神を整理すれば
(嫡男) 表筒男尊 日神垂迹 玄孫大臣物部大連・安曇磯良
(次男) 中筒男尊 (贈)崇神天皇
(三男) 底筒男尊 月神垂迹 高良大菩薩・大政大臣物部保連・玉垂命となる。
福岡県の志賀島に鎮座する志賀海神社は海祗(わたつみ)三神を祀るという。
「宮原誠一の神社見聞牒」による
blog「ひもろぎ逍遥」の綾杉るなさんもお書きですので参考のためにお読み頂きましょう。
さあ、続きを読みましょう。
嫡男の日神・表筒男の尊は神功皇后の妹・豊姫と夫婦になった。
地上での名は太政大臣玄孫(ひまこ)大臣物部の大連。天照大神のひまごという事から付いた名である。二人の間の御子は大祝日往子(おおはふり・ひゆきこ)という。
(玄孫って「やしゃご」と読むのが正解。ひまごは「曾孫」と書きますよね。)
三男の月神・底筒男の尊は神功皇后と夫婦になった。
地上での名は物部の保連。藤大臣。高良大菩薩。
藤大臣と呼ぶのは、干珠満珠を借りた時の仮の名前。
皇后には九人の御子がいた。
四人は仲哀天皇との間の御子で、五人は高良大菩薩との間の御子である。
合わせて九人の御子を九躰の皇子と言う。
残った月神と日神は、神功皇后姉妹とそれぞれ夫婦になったんですって。
なるほど、だから20歳の若者の姿で現れたんだ。
この二組の夫婦は仲が良くて、一緒に皇宮に住んだそうですよ。
場所はどこだろ?文脈からは、高良山の麓なんでしょうね。
それとも、四王寺山の麓?(どちらも九州王朝の都の候補地だ!)
長男の日神は豊姫と結婚して、生まれた子供に大祝日往子という名をつけました。
この大祝家は神官を務める家系です。物部氏なんですね。
この日往子のお墓が、祇園山古墳だという伝承もあります。
さて、メインの月神は神功皇后と夫婦になり、二人の間には5人の子供が生まれます。
仲哀天皇との間の4人の子供と合わせて九人を九躰の皇子と呼びます。
どれもこれも、記紀とは全く系譜が違っています。
記紀に洗脳された頭には、何が描かれているのが理解に苦労しました。
この九人の御子の名前は『神秘書』には書かれていませんでしたが、
宝物殿に、それを書いた縁起書がありました!
1 斯礼賀志命(しれかし)
2 朝日豊盛命(あさひとよもり)
3 暮日豊盛命(ゆうひとよもり)
4 渕志命(ふちし)
5 谿上命(たにがみ)
6 那男美命(なをみ)
7 坂本命(さかもと)
8 安志奇命(あしき)
9 安楽應寳秘命(あらをほひめ)
9人の名前が伝わってるとはスゴイです。
さて、これも系図にしてみようとして、はたと困りました。
これが生れた順に書かれているなら、最初の四人は仲哀天皇の御子たちになります。
高良大菩薩の子供じゃないんです。
単純に考えるなら、シレカシ命は仲哀天皇の嫡男になってしまいます。
(宇美神社で生まれたホムタワケの命はどうなる?)
どうしよう。辻妻を合わせられない。そうだ。
神功皇后は元夫の子供を4人連れ子にした。
だから、高良大菩薩にとっては、子供が9人になった。
そうだ、別に変じゃない。それで、いいのかな…。
(違う気もする…。とりあえずスル―しよう…。)
神功皇后はこの後、東征をせずに、高良山の麓で幸せに暮らした?
そうなると、記紀とはかなりの違いですね。むむむ。
先に“イザナギが外れ過ぎですが、イザナギか海童神かどちらかを祀られているのが荒津さんの御先祖ではないかと思うのです。”としました。
最も重要な若宮八幡宮(若八幡宮)の祭神の解明に関して、当初から荒津の「荒」は朝鮮半島の伽耶国の安羅を置き換えたものである可能性が高いと考えて来ました。
実は、この最も重要な神社の鎮座地が、これまた安羅国との関係を考えさせる久山町山田1863なのです。
山田という極ありふれた地名の様に思われるかもしれませんが、この「山田」は大山咋=日吉神社=日枝山王宮=佐田神社=阿蘇北宮=松尾大社の祭神である大山咋神に関係の深い地名なのです。
従って、山田さんと聞けば、まず、阿蘇草部吉見系(黎族)と宗像の市杵島姫(白族)との混血民族の末裔といった可能性を考えているほどなのです。一例ですが熊本県玉名市のHPをご紹介しておきましょう。
山田の集落は、南北に細長い丘陵上に形成されており、もっとも北側に山田日吉神社が所在します。もともと日吉神社は、京都府と滋賀県の境の比叡山にあって、山の神である大山咋神(おおやまくいのかみ)を祭ってあり、そこを拠点とした山王信仰の総本山として有名です。また平安時代に最澄によって比叡山に天台宗の延暦寺が開かれると、神仏習合により一体化しつつ全国へ広まっていきました。
山田日吉神社には、本殿に大山咋神、西の相殿に白山比売神(しらやまひめのかみ)が祭ってあり、集落内には延暦寺の末寺とされる山田山吉祥寺もあります。その他にもお堂や石塔などが多くあり、一帯は玉名地方の天台宗の拠点的な地域であったと思われ、丘陵全体が「玉名の比叡山」と呼べるような状況であったと考えられます。
境内には推定樹齢200年の藤があり、満開の時期には1メートルを越える花房が垂れ下がります。歴史ある神社にふさわしい見事な藤で、熊本県の天然記念物に指定されています。
この大山咋神こそクマカブトアラカシヒコであり(熊本県甲佐町の甲佐神社、石川県七尾市久麻加夫都阿良加志比古神社…)、その子がツヌガノアラシト=藤原により第10代と格上げされた贈)崇神天皇になるのです(京都府敦賀市の気比神宮)。
これについては、「ひぼろぎ逍遥」285 北北東に進路を取れ! ⑤ 石川県七尾市のクマカブトアラカシヒコ神社 を参照して下さい。
このため、久山町にはどうしても伽耶の安羅国との関係が否定できないのです。
とすると、荒津さんがこの大山咋系=崇神系である可能性は容易には捨てきれないのです。
お手紙でも「一族に漁業関係者はいない…」と書かれていたため、ニギハヤヒ~ウガヤフキアエズ~安曇磯羅の線では考え難いのです。
勿論、ロケーションから考えて配下に海人族がいなかったはずはないのであり、その海人族が「海童神」を祀り、荒津氏は当たり障りのない「イザナギ」を祀っていた可能性はあるのです。
百嶋由一郎最終神代系譜をご覧頂ければ分かるのですが、イザナギとイザナミの子にスサノウ(弟)と神俣姫(姉)が産まれるのですが、その神俣姫と神沼河耳=贈)綏靖天皇との間に産れたのが阿蘇高森の草部吉見となり、さらに、宗像の市杵島姫との間に産れたのが大山咋になるからなのです。
「一族に漁業関係者はいない…」と書かれてはいたのですが、このクマカブトアラカシヒコ、ツヌガノアラシトは半島と博多、肥後の甲佐、京都の敦賀などを頻繁に行き来していた舵取りであり、その事は、贈)崇神による東征(初代神武天皇はあくまでも巡行なのです)の際にその水先案内をしたとされる椎根津彦(倭ウヅ彦)=舵取も贈)崇神の弟である事からそれが読み取れるのです。
ここまで考えてくると、やはり、荒津さんは崇神の流れを汲む少数派の物部氏と見たいのです。
百嶋由一郎最終神代系譜(部分)
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