461 白川稲荷の祭礼に出くわした “大分県杵築市大田の白川稲荷”
20170318
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
三月の三連休の初日、国東半島の付け根、半島南麓と言ってもかなりの山の中ですが、白川稲荷に行きました。
以前、国東半島の西の付け根、豊後高田の田渋荘の白川稲荷を訪ねた時、こちらの大田の白川稲荷にも廻ろうとしたのですが、場所が分からず引き返した事がありました。
今回、大分県の豊後大野市清川町三玉宇田の宇田姫神社の写真を撮りに行ったついでに、白川稲荷に向かうことにしました。
前の話をご存じない方もおられるでしょうが、簡単に言えば、京都の伏見稲荷の原点は福岡県春日市の白川伯王益寿稲荷であり、田渋荘のそれも大田のそれも九州での分社ではないのか?という話です。
ひぼろぎ逍遥(跡宮) 029 伏見稲荷様も九州出身 “春日市の白川伯王益寿稲荷”
ひぼろぎ逍遥 149 白川伯王益寿稲荷の分霊分社の発見か? “田渋荘の三宮八幡宮手前の小社”
朝9時を回った頃に杵築市の中心部から北の山中に向かいましたが、かなりの山を越える事になりました。
途中の道路脇にも白塚稲荷があるなど白川伯王家の神威が及んでいる事が明らかでした。
バイパスも通行止めであったため旧道で移動しましたがようやく入口に辿り着きました
偶然でしたが、春の大祭の日だったようです。
同社由緒
古い神体と思われる磐座と石の神殿
あいにくながら、いつも用意している祝い袋が探し出せなくお賽銭は入れたものの、奉賀金を差し上げませんでした。
祭礼はそれほど長くはなく、天気にも恵まれ良い御祭りだったようです。
このような、集まるのも大変な場所で祭礼を続けられている関係者の皆さんには改めて頭が下がる思いです。
さて、この祭礼の祝詞を聴いていると、祓戸神が頻繁に登場していました。まあ藤原が造ったもので当たり前と言えば当たり前ですが…。
スセリヒメ(実は櫛稲田姫)、豊アキツヒメ、ハヤサスラヒメ…と聴き間違いでなければ、ハラエドの神というフレーズも出て来たようです。不信心ながらも有難いお札を頂きました。
祝詞は関心が無く詳しい事は分からないのですが、常套句なのかもしれません。
しかし、右に示した1.2.3の神々は、金山彦=カグツチの神の娘、孫娘に当たる三代の瀛氏の神々に高木大=タカミムスビの長女が加わったものなのです。
春日市に白川伯王益寿稲荷という古風な神社があります。
稲荷については、オコンコン様として以外は分からず、文字通り狐につままれてきたのですが、最近になって、ようやくその一部分が理解できるようになってきました。
「ひぼろぎ逍遥」でも、063 「神埼の櫛田宮内の二つの稲荷神社の祭神」として取り上げています。
さて、「白川王家」というものがあり、この白川伯王家に伝わる宮中秘事である天皇が行う「天子の行」など祭儀とそれにもとづく理論が「白川神道」であり天皇家と皇室のための神道があったとされていますが、これは明治維新前後に消えた(潰された)と聞き及んでいます。
「稲荷神」とは難解で、いまだに要領を得ませんが、製鉄に絡む神であることだけは確かです。
それは、鳥居の色にも示されていますが、ここでは稲荷一般について語らず、京都伏見稲荷大社さえも上回るドエライ神社があると聴いていることをご紹介したいと思います。
簡単に言えば、京都の伏見稲荷の原点がここであると言えばお分かりいただけるのではないでしょうか。
幸いにも菊池川流域地名研究会メンバーで「牛島稔太のHP」のマネージャー牛島氏(最近会から離脱されましたが)が「神社伝承から見る古代史」百嶋由一郎先生の世界--- もう一つの神々の系譜 --- で百嶋講演を文字化しておられますので、以下、白川伯王益寿稲荷について話されたことをご紹介します。
この地域でとてつもない神社といえば、秘密になっているが春日市の須玖に出勢(いせ)の稲荷さんがある、御祭神は伏見の稲荷さんである。先ほどいった狗奴国の乱の整理を済まして、ほっとしている出勢の稲荷様、ただしその当時はまだ、出勢稲荷なんて申し上げないていないので、判りやすくいうと、伊勢の外宮様と申し上げておく。
そして、狗奴国の乱を起こしたのが、大山祇の神、別名、月読みの神です。齢は西暦2000年を基準にいきておられれば、即ち、積年1888歳である。そして、このスクの稲荷さんの叔父さんである大国主のみこと、この方は、狗奴国の乱の張本人、大山祇(月読みこと)の神の息子であります。その張本人と同じ責任を取らないといけない立場にあったのが、大国主のみことである。そして、これはそういう乱を起こしたからといって、乱を起こしたほうが悪いというわけではない。民族と民族の対決なので喧嘩してもどうということはない。とにかく、そういう過程を経て、日本という大和と言う国が出来上がったという一つの段階としてお考えて(ママ)下さい。
そこのスクの稲荷さんのお名前を申し上げます。白川伯王益壽稲荷(出勢の稲荷様の別の名前)
この神社はいつ消えてなくなるか分からない非常に重要な神社のため、あえてカーナビのデータを上げませんでした(もっとも、ナビでも分からない場所で心配はないのですが…)。
熱心な方だけに訪問して頂きたいからです。ただ、非常に分かりにくい場所にあるため下調べをして参拝されることをお勧めします。
参拝に際しては失礼がないように、また、存続のために多少の御寄進、お賽銭をお願いします。
もっと詳しくお知りになりたい方は「春日市誌」を何度もお読み下さい。
正しいことが、分断され分からなくなっていますが、何度も読めばご理解いただけるかと思います。
京都伏見稲荷大社の原点 白川伯王益寿稲荷神社
さて、問題は残されています。古代磐座祭祀から白川稲荷に発展した事は由緒に明らかなのですが、どこからの勧請ともされていません。しかし、白川の名は、天皇家の宮中祭祀を司った白川伯王家以外には考えようがありません。そして、明治維新によってその痕跡は消されたのでした。
百嶋由一郎最終神代系譜(部分)
研究目的で百嶋由一郎神社考古学に関する音声CD、神代系譜、手書きデータを必要とされる方は09062983254まで