462 武田信玄も九州王朝系氏族の後裔だったのではないか?
20170319
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
右は宮脇淳子先生の「日本人が教えたい新しい世界史」に入っていた しおり なのですが、武田信玄の家紋が「花菱」でもあったと書かれているのです。
一般的に、武田信玄の旗指物には「風林火山」と共に、「四割菱」が使われていた事はどなたもご存じのはずです。
ところが、この「四割菱」のイメージが強すぎて、「唐花」を使っていたと言う事についぞ気づかなかったのでした。
と、いうよりも、「四ツ目紋」「四面紋」の延長上に創られたものとの理解から、高木大神=タカミムスビの神の後裔との方向で考えていたからでした。
結局、先入観のなせる業だったのですが、この間、山梨のぶどう寺に関するものを連続して書いてくると、やはり、三枝氏が仕えた武田氏そのものが、唐花紋の継承者であった事に気付いたのでした。
話はこれだけと言うか、実際にはここから始まるのですが、我々、九州王朝論者の内部でも極めて特殊な「百嶋神社考古学」と言う過激な神社研究を行っている者の中ではかなりの常識になっているもので、ある時代に於いて九州王朝の本拠地であったと考えられる、久留米の高良大社の公称としての神紋は、確かに「左三ツ巴紋」と「木瓜」なのですが、私達の内部では、唐花こそ本当の神紋であり、それは外部に分からない様に今も隠されているという事を知っているのです。
伊勢皇大神宮の神紋に気づかれたかたはいますか?門光です。開化天皇が四王子山にお立ちになった時に、まばゆいばかりの光が周囲に散ったのです。現在では、花菱といいます。これが高良神紋であり、住吉神紋です。門光以前の紋章は桐です。男は五七、女は五三の桐です。まだ日本が定まっていなかった頃は、九七があった。神武後継五瀬のみことが働いていた頃は九七の桐もあったのです。但し、十六葉菊は後鳥羽上皇が追加されたものです。従って、天皇家の紋章は、桐、門光(花菱)の二つです。宮地嶽さんは高良と同一神を祀っていることを隠すために、紋章切替をなさっている。三階松です、江差追分の江差町、牛深天草ハイヤの連中は船で全国を廻っていた。九州の王朝の行事を日本国中広めていた。
してみると、高良大社の内部に「門光」が隠され、宮地嶽神社が「三階松」を表に出していると言う事実と、武田氏が「門光」=「唐花」を使い、その臣下である三枝氏が「三階松」を使用していると言う事実が対応している事に戦慄を覚えるのです。
決定版知れば知るほど面白い! 家紋と名字 より
戦闘用の旗指物は大量に生産する必要性から簡略化された意匠になる場合が多く、唐花(門光)が四ツ割菱となった可能性もあるのですが、唐花と四ツ割菱に直接的な関係はなく、四面紋=四ツ目紋が四ツ割菱に変えられた可能性もあるのではないかと思うものです。
つまり、女系は唐花(門光)で、ある時代、四ツ目を使う高木大神系氏族との通婚によって成立したのが武田氏かも知れないと言う仮説です。
この辺りの作業は、どうしても郷土史的な掘り下げが必要となるため、今後の課題として残しますが、北関東から山梨に掛けて有名なタケコロ(建許呂命)がカギになりそうです。
建許呂命
建許呂命(たけころのみこと)は古代日本の人物。建己呂命、建凝命とも書き(『新撰姓氏録』)、また天津多祁許呂命や多祁許呂命(『常陸国風土記』)、建許侶命(『先代旧事本紀』)とも書く。
『姓氏録』によれば、天津彦根命の14世の子孫にあたり、中央氏族の三枝部連と庵智造(以上大和国神別)、高市県主(和泉国神別)の祖とされる。
地方にあっては『常陸風土記』に茨城国造(後の常陸国茨城郡にあたる国の国造、現茨城県中部。以下これに准う)の祖で、神功皇后の朝廷に仕え、その子供が8人いたとされ(茨城郡条)、『旧事紀(国造本紀)』でも茨城国造の祖で、成務天皇の時代に初めて石城国造(陸奥国石城郡。現福島県いわき市)に任じられたとある。
また『国造本紀』では、その子供が成務天皇の時代にそれぞれ
に任じられ、また、応神天皇の時代に別の子供が
に任じられている。
ウィキペディア 20170319 22:42 による
現在、関心を持っているのは武田氏とその配下とされている三枝氏の関係であり、共に、天津彦根命の後裔としても、どちらが本来の本流であり、古代に於いてはどちらが格上の氏族であったのかといった事です。
ここらになると、どうしても現地の研究に頼らざるを得ず、今後の作業になります。
「新撰姓氏録」、「常陸国風土記」、「先代旧事本紀」、「旧事紀(国造本紀)」…といったところに登場する氏族ですからそれなりの大族であったことは理解できそうです。
「天津彦根命の14世の子孫にあたり、中央氏族の三枝部連と庵智造(以上大和国神別)、高市県主(和泉国神別)の祖とされる。」云々は、常陸の氏族が九州からの植民であると思われるだけに、興味津々といったところです。
今回は、武田が九州王朝の本当の神紋である「門光」を使用していたと言った事だけを頼りに引き延ばした薄い考察でしたが、こういうものの積み重ねで、また、新たな展開に繋がるのかも知れません。
天津日子根命 あまつひこねのみこと
敬愛するHP「玄松子」氏による
別名 天津彦根命:あまつひこねのみこと
…… 根の国へ向かう建速須佐之男命は、高天原へ天照大御神に別れを告げに来た時、天照大御神は武装して迎えた。 建速須佐之男命は他意の無い事を示すため自分の持つ十握剣と 天照大御神の飾りの勾玉(八坂瓊五百津御統珠)を交換し、 誓約によって、建速須佐之男命は三女(多紀理毘売命、狭依毘売命、田寸津比売命)を、 天照大御神は五男(天之忍穂耳命、天之菩卑能命、天津日子根命、活津日子根命、熊野久須毘命、『日本書紀』の一書では熯速日命を加えた六柱)を生んだ。
鬘の珠から化生した神が天津日子根命。火か日に関係ある神か。
『日本書紀』一書では、天照大御神の首の珠を建速須佐之男命が口に含んで左の腕に生まれたとある。
天津日子根命は、凡川内国造(河内国)、額田部湯坐連(北茨城国造額田部連等)、 茨城国造(常陸国茨城郡)、倭田中直(大和国生駒郡内)、山代国造(山城国)、 馬来田国造(上総国望陀郡)、道尻岐閇国造(常陸国多賀郡の一部)、 周芳国造(周防国)、倭淹知造(大和国山辺郡)、高市県主(大和国高市郡)、 蒲生稲寸(近江国蒲生郡)、三枝部造の祖。