472 ここまでやるのか
20170412
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
これは大分神代史研究会(仮称)として国東半島を巡る4人1台という小規模な、しかし、非常に効率的なトレッキングを行っていた時に見た常夜灯の話です。
取り立てて書くほどの事ではないのですが、昔は豊かだったと言う思いを強くするものだった事から書かざるを得なくなったのでした。
この常夜灯は大分県国東市来浦の八坂神社のものですが、灯篭に石の階段が付けられている事がお分かり頂けると思います。
勿論、便利であり有難い物には違いはないのですが、ここまでしなくても踏み台や木製の階段を取り付ければ何でもない…と思ってしまいます。
ただ、木製のものは雨に打たれれば直ぐに痛みますし、いちいち運ぶのも面倒ですから、良く良く考えれば合理的ではあるのです。
狭いステップに足を載せて火を灯すのは怖いと言えば怖いのですが、このような事にまで気を遣うのが文明的と言えるのかも知れません。
実際、国東半島でもこの来浦一帯は谷の幅(舌状台地と舌状台地の間隔)が広く、普通の意味での穀倉とは言えますし、国東半島には、佐原真が生きていたら封殺に躍起になったはずの謎の重藤遺跡(紀元前700年に遡る)の話もありますし、この国東市一帯には濃厚な金山彦祭祀が存在するのです。
2006年01月31日
国東で2万トンを生産した跡
国東半島・重藤遺跡ですね。朝日新聞記事(1977.9.23)あるが、発見者の上野鉄雄さん、九州大学考古学研究室では発表を控えている旨を鹿島昇さん、鈴木旭さんらが述べており、その事情を知らない?大分大学教育学部編「国東半島」や、窪田蔵郎さん「鉄の考古学」でも同遺跡出土鉄剣の年代測定値を載せています。春成教授らによる弥生時代溯上説、日本出土殷代遺物の確認(山形・三崎山出土青銅刀子は殷・安陽期と確定(平尾良光「古代東アジア青銅の流通」)。など)、亀卜・卜骨が弥生中期頃から確認、先の川崎真治さんの説から、克殷による弥生期開始の可能性はあるが、製鉄がフェニキア人と繋がるには海路ルート上の島々での鉄滓出土遺物が殆どない為に難題ですが、聖書に鉄を「赤土からとる」旨の記事(鹿島さん)、山の赤土を川や流水に流して山砂鉄をとる方法は確認が必要ですがほぼ同じらしく、ヒッタイトがあったトルコで「赤い河」意の川もあり、とにかく中継地でして石川三四郎「東洋古代文化史談」ではフェニキア人がインドネシア・バダック族を使っていた旨述べ、G・GERINI報告(Researches on Ptolemy's Geography of Eastern Asia)でフェニキア文字碑文というがブラフミー文字碑文か不明で大学図書館に本があり未確認で、タイ・バンチェン遺跡は当初年代より新しく、新日鉄のHPで述べる製鉄技術伝播ルートが今のところでは。因みに、「牛」文字は来たが動物の「牛」は後から来たようです。「牛」崇拝が先に来た。牛王宝印。また、鹿島さん(「バンチェン・倭人のルーツ」など)は重藤遺跡以外にも何箇所か遺跡があるそうです。最後に、貝紫染料の乾燥防止に蜂蜜を使い、聖書で蜂蜜の採り方が載ってます。また、すこし前に上野鉄雄さんの返信では「船の問題はどうか」が印象的でした。長々失礼しました。
先般、国立歴史民族学博物館・春成教授らにより「弥生時代開始期溯上説」が発表された。これにより吉野ヶ里遺跡の年代も大きく遡るようです。また、吉野ヶ里遺跡や多くの遺跡出土の甕棺からインド・タミール地方出土甕と共通するグラフィティーが大野晋さんにより確認され、吉野ヶ里遺跡でも確認された茜はインドから伝来する旨を上村六郎さんが主張し、弥生期出土ガラスもインドから伝来と肥塚さんらにより科学分析結果発表、川崎真治さんは吉野ヶ里遺跡からピッキングによる「牛」の甲骨文字刻字石を確認し、静岡・水窪石(川崎真治さん)、インドネシア(G・GERINI)、沖縄、フィリピンではフェニキア文字石などフェニキア関連品が確認され、インド・殷・中近東と日本との繋がりがありそうです。因みに、フェニキア人は地中海で貝紫織物を商品の一つとし、ゲルハルト・ヘルムさんは彼らがアカバ湾からインド周辺を商業地域とした旨述べ、インド・ブラフミー文字の起源はフェニキア文字との説からインドでも多く活躍したようで、後に「エリュトュラー海案内記」でもインド周辺の交易品として記載され、地中海の貝では数千から数万個で1gしか貝紫染料は採れないが、インド・太平洋周辺の貝(アカニシなど)では1個から1g程度採れるから、彼らフェニキア人が東南アジア経由で太平洋へ向かう動機になり、結果黒潮に乗り日本への可能性が大いにありうる訳です。染織研究の後藤捷一(ゴトウショウイチ)さんは中・南米伝統の貝紫染織を貝の違いだけでフェニキア由来と述べ(月刊「染織α」)、南米・パライバ碑文もフェニキア文字説があり、北米ではバリー・フェル教授が「紀元前のアメリカ」でフェニキア人往来説を述べたように、吉野ヶ里遺跡出土の貝紫布も彼らの可能性がある訳ですが、まだまだ問題点は残ると思います。長々と失礼しました。
こんなことを発表したら学会追放になるため隠されているのです。要は学問ではなく利権なのです。
奥野正男教授の本(卑弥呼の時代奈良県では鉄は一切出土しない…)でさえ佐○ 真は握り潰そうとしたのですから推して知るべしと言うべきでしょう。
話を戻しますが、これも杵築市安岐町でしたか歳ノ神で見掛けた巨大常夜灯です。これに至っては豪華の極み、贅沢の極みであり驚くばかりです。
現在、国東半島が際立って豊かな土地であるという事は言えないでしょうが、少なくとも江戸時代まではかなり豊かな土地だったのではないかと思います。
それは、多くの神社を見れば分かる事で、現在、寺社の経営が極限まで落ち込んでいる事を考えると隔世の感さえあります。
コラム 江戸時代の農民は豊かだった?
「四公六民」という言葉を聞いたことがありますか。江戸時代の年貢の割合のことで収穫の4割が年貢で6割が手許に残るというものです。今でいうと税率が40%と大変な負担感があり、「貧しい農民」という時代劇のイメージ通りになるのですが、実態は必ずしもそうではなかったようです。
当時、年貢の計算方法には「検見法(けみほう)」と「定免法(じょうめんほう)」の2種類がありました。検見法とは実際の収穫高に応じて年貢の率をかけるものです。定免法とは一定の田地から取れる米の量を固定して、年貢も定額にするというものです。江戸時代も中ごろからは後者の定免法を取る藩が多かったようです。江戸時代は戦乱もなく農業技術が順調に発展した時代です。江戸時代前期には100石の収穫量だった田も江戸時代の後期には2倍の200石の収穫にまでなることも珍しくはありませんでした。100石の収穫に対して年貢は四公六民の40石ですが、実際には200石の収穫があるわけですから二公八民、税率は20%となります。そのうえ、自家で消費する野菜等には年貢は原則かかりませんので、生活実態は時代劇とはかなり違っていました。
所得税、住民税、社会保険料等を否応なく天引きされる現代のサラリーマンと江戸時代のお百姓さん、はたしてどちらが豊かなのでしょうか?
「〇〇の上の雲」とか幕末維新の志士を英雄としてとらえるドラマが盛んに放送されています。「江戸時代は貧しく、明治時代は明るかった」という図式を私たちの頭の中に刷り込む目的がここに隠されていると思うのは筆者だけでしょうか。(2011.8.23)
まず、木下藤吉郎は下人以下の身分(そういえば秀吉が入婿となった木下家の後裔が杵築藩でしたね)…といった話は、徳川家が豊臣を貶めるためのものであり、江戸時代は鎖国政策のもとで欧米に遅れたとか、士農工商の身分制度によって百姓は苦しめられ、飢饉と百姓一揆が続発していた…といった話も明治政府が宣伝のために吹聴したものでしかないのです。そもそも、被差別部落も江戸時代からといった話さえ大嘘で、蝦夷地の侵略以来の東北経営によって移動させられた俘囚によって近畿大和朝廷(天皇家)が被差別部落を創ったのです。
それを物語るかのように北関東以北、沖縄には被差別部落が存在しないのです。
そのような難しい話をすることもないのですが、戦後は特に酷く、アメリカに国家の富を貢いでその片棒を担いだ報酬を貰う官僚や政治家がいっぱいいるようで、今回も、東芝にウェスチング・ハウスの買収を勧めてキックバックを貰った官僚や官僚OBがいるようです。
まさに国賊、売国奴ですね。しばらく前は郵政民営化で、小○竹○中改革でパ○ナに…。次はいよいよ国民健康保険の廃止でアメリカの保険に門戸開放の工作が進んでいるようです。ここでも厚生労働省が…。
確かに物質的には豊かとは言えませんでしたが、敗戦の憂き目にあったものの、半世紀前までの日本は、石屋さんも板金屋さんも下駄屋さんも桶屋さんも大工さんから左官さんまで皆誇りを持ってちゃんと暮らして行けたし、野良には人や子供が溢れ、祭も盛大に行われ、境内はいつも手入れが行き届いていました。
もう取り返しはつかないでしょうね。
もはや、古き良き日本は山田洋二監督の映画や宮本常一民俗学にしか残っていないのかも知れません。
たまたま遭遇した国東市の岐部神社の春の大祭