482 ヤタガラス(豊国主)はなぜヤタガスなのか?
20170429
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
ヤタガラスは知らぬ人のない神代史のスター中のスターの神様ですが、ただ、なぜ、ヤタガラスと呼ばれているのかについてはあまり考えられていません。
まず、豊玉彦は豊の国に居たから豊玉彦と呼ばれているのです。
勿論、三種の神器の八咫(ヤタ)の鏡があるのですから、多分それの意味だろう…とか、身近な人物の説としては、豊前は求菩提山の八天狗を念頭に八人の烏(ヤタリガラス)説までもあるのです。
まずは、百嶋由一郎最終神代系譜からヤタガラスの系統を確認して頂きましょう。
まず、ヤタガラスは豊玉彦(豊国主、鴨建角身命、天太玉もその別名です)と呼ばれていました。
勿論、通説に沿った解釈に従えば、以下のようになります。
豊国主の尊には多くの異名がある。
古事記では、豊雲野神
日本書紀では、本文…豊斟渟尊 一書の一…豊国主尊・豊組野尊・豊香節野尊・浮経野豊買野尊・豊国野尊・豊齧野尊・葉木国野尊・見野尊 一書の二…葉木国
異名が多いのは、丁度、大国主尊の異名が多いのと同様に、重要な神格であるからに違いない。
それ故、私はこの神が最初の人神だと考えているのである。豊国主というのは、個人名ではなく職名だろう。多くの異名の内の幾つかは、個人名であるかもしれない。この神は、日本列島内で初めて出現した国、即ち「豊国」の首長である。豊国は、さほど大きな国ではなく、その中心は福岡県行橋市周辺であったと考えている。 但し、関連地域はかなり広範で、北は山口県の豊北町から南は大分県臼杵辺り迄で、
後の豊前・豊後・長門を含んでいたように考えている。というのも、この地方が、大陸との交易の重要地域であるからである。 玄界灘と周防灘の間に関門海峡があるが、この海峡は潮流が早く、古代に於いて船舶の通行は困難を伴う場所である。それ故、潮待ちの場所として、洞海湾と行橋が、重要性を持っていたと考えるのである。
延喜式内社では、「豊国主」として祭った神社はない。「豊斟渟命」として祭られている。 主祭神として祭る神社には、「野神社」愛知県豊田市野口町水分日面226「比比多神社」神奈川県伊勢原市三ノ宮1468 がある。
www.interq.or.jp/www-user/fuushi/5-anc/yorozu/8a-b6-toyokuni.htm
非常に正確に書いておられます。「豊国主尊」で検索すれば直ぐに出て来ます。
一つ上には「豊雲野神:玄松子の祭神記」があり、普通はこちらを引用するのですが、実に簡潔かつ明瞭です。
問題はヤタガラスが豊国主と言えるかですが、これについて、百嶋神社考古学を受入れた人々には{見えて来るのですが、多くのファクターを理解していただけなければ納得して頂けないと思います。
つまり、多くの事象を押さえてくれば、ヤタガラスが豊玉彦でありそう解釈すれば全体の説明がつくといった性格のものなのです。
ただ、下賀茂神社(賀茂御祖神社)「古事記」「日本書紀」には、賀茂建角身命を金鵄八咫烏(きんしやたからす)であるとはしています。
金山彦がどこにいて、大幡主がどこにいてその妹の埴安姫がどこにいて、櫛稲田姫がどこで産まれその間に誰(鴨玉依姫)が産まれたのか?
現在、下賀茂神社は、自分たちがお祀りしている玉依姫は神武天皇のお妃などではないと本当の事を主張されているようですが、賀茂伝承ではタケツヌミノミコト(建角身命)の娘で火雷神=大山咋と結婚し崇神天皇(別雷神)を産んだとされ、風土記などで豊玉姫の妹(ここで注意すべきは腹違いの妹であること)で、当然、豊玉彦=海神の娘や賀茂別雷神=の母などとして数多く登場します。
繰り返しになりますが、「山城国風土記」逸文の賀茂神社縁起(賀茂伝承)には、賀茂建角身命の子で川上から流れてきた丹塗矢によって神の子(賀茂別雷命)を懐妊した玉依比売(タマヨリヒメ)が登場します。
京都の下鴨神社(賀茂御祖神社)の祭神の玉依姫命も、有力な女神の1人だ。こちらは山の神の賀茂建角身命の娘である。「山城国風土記」逸文に出てくる賀茂神社延喜に、玉依姫命が鴨川で水遊びをしていると、上流から丹塗矢(ニヌリヤ)が流れてきた。その矢は、実は大山咋神の化身で、拾って帰り部屋に飾っておくとやがて身ごもった。そうして産まれた男の子が上賀茂神社の祭神の賀茂別雷神である。byコトバンク
人は移動し神も人であった事から移動し、その後裔達は等しくその先祖神を祀ります。
そのようにして、神々の移動もおこるのです。豊国主とヤタガラスとの直接的交点(接点)は見いだせないのですが、唯一、神魂命(タカミムスビ)の孫とまではされています。
勿論、百嶋神社考古学では孫ではなく子なのですが、一応、ここまでは確認しておきましょう。
山城の賀茂氏(賀茂県主)の始祖であり、賀茂御祖神社(下鴨神社)の祭神として知られる。
『新撰姓氏録』によれば、賀茂建角身命は神魂命(かみむすびのみこと)の孫である。神武東征の際、高木神・天照大神の命を受けて日向の曾の峰に天降り、大和の葛木山に至り、八咫烏に化身して神武天皇を先導し、金鵄として勝利に貢献した。
『山城国風土記』(逸文)によれば、大和の葛木山から山代の岡田の賀茂(岡田鴨神社がある)に至り、葛野河(高野川)と賀茂河(鴨川)が合流する地点(下鴨神社がある)に鎮まった。
賀茂建角身命には建玉依比古命(たけたまよりひこのみこと)と建玉依比売命(建玉依姫命、たけたまよりひめのみこと)の2柱の御子神がいる。建玉依比古命は後に賀茂県主となる。建玉依比売命は、丹塗矢に化身した火雷神(ほのいかづちのかみ)を床の近くに置いていたところ、賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと、上賀茂神社の祭神)を懐妊し出産した。
ここからはヤタガラスが豊国主であるとした場合、何故ヤタガラスと呼ばれたかを考えて見ましょう。
豊玉彦、豊国主とは文字通り豊国の主であり、九州の北東岸(北九州~大分)から山口の西部域(豊浦、豊北、豊田…)に掛けての支配者であったと言えそうです。
さて、この豊の国には求菩提山という山岳修験の山があり「鳥居畑」という地名があります。
「鳥居畑」とはヤタガラスが居た秦氏の地とのイメージがあり以前から気にしていました。
この求菩提には山岳修験の濃厚な伝承があり、八人の天狗と大天狗像が残されています。
この天狗集団は英彦山系の山岳修験と対立したからか肥前の八天神社などの修験集団になったと考えています。
ここでもう一度地名の話に戻しましょう。この豊前一帯には非常に気になる地名が拾えるのです。
一つは、豊前市の中心部の八屋であり、今は同じ豊前市になりましたが、北隣の椎田町の東西八田と地図には出ていませんが、八津田という地名、湊地名(湊は秦氏の港)が拾え多くの正八幡宮があるのです。
豊前に濃厚な「八■」地名が拾える事は、秦氏が住んで居たからかも知れませんが、普通に考えれば、豊国主=豊玉彦は八田に居た烏天狗だから俗称としてヤタガラスと呼ばれたのではないかと考えられるのです。
では「八」とは何でしょうか?
恐らく、秦氏の「秦」(ハタ)であり、その「ハタ」が「ヤタ」とも呼び換えられたのであり、簡略化された「八」がその表示となったものに思えます。
従って、ヤタガラスとの呼称はこの豊前に居た時期から始まったのではないでしょうか。
ここで冒頭の百嶋最終神代系譜をもう一度見て下さい。
ヤタガラスこと豊玉彦は、スサノウのお妃でもあった櫛稲田姫を妃にしています。
豊玉彦は伯母の子=従兄妹である櫛稲田姫をお妃とした事から、瀛氏の金山彦とより強い姻戚関係を結び秦氏の中心的存在となっています。
この金山彦は秦の始皇帝と姻戚関係を結んだのですが、その後先行して渡海し列島に移動しことからさんずい偏を付した瀛氏と呼ばれるようになったのです(始皇帝は贏氏)。
その後、秦も滅び、秦の臣民も王族も列島に移動して来たはずなのですが、それが秦氏であり、大幡主~豊玉彦と秦の始皇帝の一族との強力なスクラムが形成されたものと考えられるのです。
これについて詳しく知りたい方は、ひぼろぎ逍遥 159 秦の始皇帝と市杵島姫 外をお読み下さい。
ついでに触れておきますが、この豊前市には山田という地名があります。
山田とは京都の松尾大社の松尾大神、日枝山王権現、日吉神社、大山咋神に関連する地名であり、その子が贈)崇神天皇になっているのです。
してみると、豊前市には後に下賀茂大社に祀られた豊玉彦の一族と、上賀茂大社の一族とが共に居たことになり、これらの人々が共に畿内へと進出した事が見えてくるのです。
百嶋由一郎ヤタガラス神代系譜(部分)
関連がありますのでヤタガラス系譜を見て頂きましたが、ヤタガラスはもとより、大山咋から贈)崇神まで二つ葵の神紋を使っている事が分かると思います。
もしこれを二葉と見れば、豊前市の地図の青○の「二葉」という地名も関係性があるのかも知れません。