483 豊前市の角田八幡宮は紀州の隅田八幡宮になったのではないのか?
20170427
太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久
日田市から耶馬溪を経由し山国川を降り、大分県の中津市から福岡県豊前市を抜け関門から本州へと向かう事が多くなってきました。
その豊前市の北、椎田町との境に近い椎田道路の入口に気になる八幡宮があります。
通常、近畿大和朝廷に直結する八幡宮については、正八幡宮(本物の八幡)を例外としてあまり取り上げていませんが、良く手入れされた同社には思わず心が惹かれてしまったというのが実感です。
角田(スダ)八幡宮 カーナビ検索 福岡県豊前市中村567
祭神については後で考えるとして、この神社を取り上げた理由は、言うまでもなく隅田八幡宮人物画像鏡で知られる和歌山の隅田八幡宮を念頭に置いての事です。
まず、角田神社、角田八幡宮なる神社は東大阪、北海道を始め幾つかあるのですが、この角田八幡宮は博多の櫛田神社の大幡主が祀られる正八幡宮であったと考えられる白族と言うよりも忌部の八幡宮であったように見えます。
言うまでもなく、豊前は秦氏=忌部=大幡主+豊玉彦の領域でした。
忌部はこの地を拠点に、讃岐、阿波、紀州へと移動した事は知られています。
それが、熊野の神々であり熊野は熊本同様に隈の置換えでもあり隅田八幡宮の「隅」でもあるのです。
隅田町真土があり北には龍王神社(これも豊玉彦=ヤタガラスなのでしょう)が鎮座しているのです。
真土とは真の人々が住み着いた土地に見えますが、秦氏は秦の始皇帝と姻戚関係を結んだ白族、瀛の一族、そして後には(秦そのものも滅び)その王族も豊前に入って来ているはずなのです。
豊前の角田八幡宮の縁起にも「…幸人(シンノヒト)神祀を此地に建立して…」と出ています。
そもそも角田八幡宮の鎮座地は「中村」であり、それだけでも橘一族(豊玉彦)との繋がりを感じさせますし、「福岡県神社誌」冒頭には「大字中■字小細」としていますが、誤植でないとしても、「中」は「那賀」「那珂」であり豊玉彦の領域を感じさせます。また、「小細」も大分の大在、小佐井、豊前市にも石清水八幡系の石清水田中家の紀氏の領地が点在しており、ここもその一つだったのではないかと考えています。
いずれにせよ、そもそも紀州は紀氏の国である事から紀州なのであり、隅田八幡宮が鎮座する橋本市も濃厚な紀氏の領域なのです。
豊前は、本来、大量の秦氏が住み着いた領域であり、紀氏もその一部だったのですが、多くの氏族、民族が入れ替わり本来の氏族が見え難くなっているようなのです。
元は若宮こと仁徳(実は高良玉垂命と神功皇后との間に産まれた長子)が祀られていたという事からも、隅田八幡宮人物画像鏡は九州王朝のものなのです。
嚴島神社 山王神社 今宮神社 竃神社 八島神社 天満神社 大将軍神社 若宮神社 高良神社 松尾神社 諏訪神社 春日神社 若一王子神社 八王子神社 八坂神社 武内神社 猿田彦神社 天照皇大神宮 一言主神社 岩倉神社 稲荷神社 琴平神社
隅田町芋生は製鉄、冶金の鋳物師の住み着いた地に見えますが、「真土」はそう見えます。
一方、豊前の角田八幡宮の縁起にある比咩大神(素戔鳴命)の姫とあるのは宗像三女神であり、現在の宇佐八幡宮の比売大神に対応するものでしょう。
そもそも豊の国とは博多の櫛田神社の大幡主の領域であり、その子であるヤタガラスは豊玉彦とも呼ばれています。
勿論、豊の国を支配していたから豊玉彦と呼ばれていたのです。
さて、角田八幡宮には仁徳天皇が祀られています。そして境内には二つの摂社が置かれています。始めは、この二つの一社が仁徳天皇(高良玉垂命=開化天皇と神功皇后との間の長子)であり、もう一つが高良玉垂命ではないかと考えたのですが、「福岡県神社誌」(下巻294~296p)によれば須佐神社(須佐能男尊)、琴牧神社(大物主神、崇徳天皇)とあります。
ただ、「福岡県神社誌」がそう書いているとしてもその想定が全く間違いとも思えないのです(これは国東の神社群を見た経験からそう思うだけの事で今のところ根拠のない所謂カンの類です)。
「福岡県神社誌」(下巻294~296p)によれば須佐神社(須佐能男尊)、琴牧神社(大物主神、崇徳天皇)
一方、和歌山の隅田八幡宮には高良神社と若宮神社が祀られています。
残念ながら高良神社の写真はないのですが、若宮(高良の若宮)の写真はあります。
和歌山の隅田八幡宮の境内摂社若宮
ここで、和歌山の隅田八幡宮の境内摂社祭神を対応するかどうか試みて見ましょう。
誉田別尊 足仲彦尊 息長足姫尊
嚴島神社 山王神社 今宮神社 竃神社 八島神社 天満神社 大将軍神社 若宮神社 高良神社 松尾神社 諏訪神社 春日神社 若一王子神社 八王子神社 八坂神社 武内神社 猿田彦神社 天照皇大神宮 一言主神社 岩倉神社 稲荷神社 琴平神社
かなりの対応を示していますが、決定的と言うほどのものでもないようです。
隅田八幡神社人物画像鏡
隅田八幡神社人物画像鏡(すだはちまんじんじゃじんぶつがぞうきょう)は、和歌山県橋本市に所在する隅田八幡神社が所蔵する5 - 6世紀頃製作の銅鏡。鏡背の48字の金石文は、日本古代史、考古学、日本語史上の貴重な資料である。国宝に指定されている。…中略…
古代日本において大王号を記す金石文としては稲荷山鉄剣銘、江田船山鉄刀銘があり、この人物画像鏡も大王号がいつ頃から使われたのかを知る手懸かりになるものである。また、いつヤマトの王が大王と称されるようになったかを解明する手懸かりになるものの一つとして注目される。…中略…
「大王」の「大」、「男弟王」の「男」など、必ずしも釈読の定まらない文字が多く、銘文の内容についても異説が多い。また「癸未年」がいつに当たるかについては多くの説があるが、西暦443年とする説、503年とする説が有力である。いずれも、斯麻(しま)、開中費直(かわちのあたい、河内直、『百済本記』云、加不至(カフチ))、今州利はそれぞれ人名と解釈されている。
ウィキペディア(20170429 08:10)による
「隅田八幡神社人物画像鏡」の40字の解読については、古田武彦による「日十大王年」説や元九州古代史の会の兼川 晋と坂田 隆の説が先行して存在するが、さらにそれらを融合し金石文の解読から九州王朝の存在を証明しようとする画期気的な発表が某氏によって久留米米大学の公開講座(九州王朝論)で行われているがここでは触れない。
こうした先進的な研究も、本も出さずネット上にも露出しなければ、現代においては存在しないのと同義であり、時代の流れに埋もれ、再びでたらめな通説派が生き延びて行くだけになる事でしょう。