484 牛に曳かれて善光寺詣り
20170501
太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久
信州信濃の善光寺と言えば知らぬ人のない列島を代表する古刹中の古刹ですが、この神社の紋章をご存じでしょうか?
『善光寺縁起』によれば、御本尊の一光三尊阿弥陀如来様は、インドから朝鮮半島百済国へとお渡りになり、欽明天皇十三年(552年)、仏教伝来の折りに百済から日本へ伝えられた日本最古の仏像といわれております。この仏像は、仏教の受容を巡っての崇仏・廃仏論争の最中、廃仏派の物部氏によって難波の堀江へと打ち捨てられました。後に、信濃国司の従者として都に上った本田善光が信濃の国へとお連れし、はじめは今の長野県飯田市でお祀りされ、後に皇極天皇元年(642年)現在の地に遷座いたしました。皇極天皇三年(644年)には勅願により伽藍が造営され、本田善光の名を取って「善光寺」と名付けられました。創建以来十数回の火災に遭いましたが、その度ごとに、民衆の如来様をお慕いする心によって復興され、護持されてまいりました。
この善光寺が無宗派の寺として知られています。
それは現在においても引き継がれ、宗派、男女の区別なく全国各地から参拝者が訪れています。
大勧進と大本願が、善光寺の住職として勤めており、大本願=お上人は尼僧で、男女の差別はないようです。住職は天台と浄土宗が多いのでしょうか、浄土宗の僧侶は尼僧で公家の出の人とされているとも聴きます。
この善光寺には二度ほど足を運んだ記憶があるのですが、人の多さに圧倒され、早々に退散し、実際には周辺の寺や神社に足を延ばす事ばかりでした。
さて、本題に入りましょう。善光寺には菊の御紋もあるのですが、ここには右離れ立ち葵の紋章が使われているのです。
見落とされた方に、再度、お見せしましょう
多少の宗派性は認められるものの善光寺には、宗派、男女、貴賤を問わず、無差別、平等の寺との伝統があることは間違いが無いようで、その理由は、奈良仏教(南都六宗派)、平安仏教(比叡、高野山)以前に善光寺が成立していた可能性があるからではないかと考えています。
いずれにせよ、善光寺は一生に一度訪れれば、往生がかなうと信じられています。だからこそ全国から参拝者が毎年大勢訪れる列島を代表する寺になったと言えるでしょう。
百嶋由一郎神代(ヤタガラス)系譜
これで、善光寺の性格が見えてきたと思います。
博多の櫛田神社の大幡主=ヤタガラスの父神の妹の埴安姫と大山祗=コノハナノサクヤヒメの父神との間に産れた神大市姫=罔象女神=ヤタガラスのお妃の後裔が善光寺を支えている事がお分かり頂けたと思います。