スポット135 ドライブ・レコーダーは日本の「恥の文化」を再生するか?
20171019
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
戦後持て囃されたベネディクト女史による「菊と刀」という本があります。
元々、対日戦争目的で米国CIAから委嘱された日本人(日本国)研究によるもので、世界でも特異と思われている日本人(日本)の国民性を解析したとされる評価の高い研究とされているものです。
『菊と刀』は、ベネディクトの戦時中の調査研究をもとに1946年に出版された。ベネディクトは、フランツ・ボアズより教わった急進的な文化相対主義の概念を日本文化に適用するべく、恩や義理などといった日本文化『固有』の価値を分析した。本書は戦争情報局の日本班チーフだったベネディクトがまとめた5章から成る報告書「Japanese Behavior Patterns (日本人の行動パターン)」を基に執筆された[1]。
倉智恒夫によれば、『菊と刀』の認識パターンは、フランス人のルイ・カザミヤンによるイギリス論、『イギリス魂-その歴史的風貌』(1927年、現代教養文庫)と共通するものがあるという。なおカザミヤンについては島田謹二の研究(白水社)がある。ほかに訳書は『大英国』(白水社)、『近代英国』(創文社)がある。
ベネディクトは、日本を訪れたことはなかったが、日本に関する文献の熟読と日系移民との交流を通じて、日本文化の解明を試みた。『菊と刀』はアメリカ文化人類学史上最初の日本文化論である。
『菊と刀』は日本文化の価値体系の独自性を強調する。しかし、懐疑する傾向も見られる。すなわち日本文化が西洋文化とは対極の位置に置かれていることに、批判の目が向けられている。また、日本の文化を外的な批判を意識する「恥の文化」と決め付け、欧米の文化を内的な良心を意識する「罪の文化」と定義したことへの批判もある。
ただ、ベネディクトは教え子たちに「『菊と刀』はあまり読まないように。」と言ったとも伝わる。
ルース・ベネディクトの研究はアメリカ向けのものであり、戦争に勝つための情報戦の一部であり、決して日本人を正しく分析したものとは言えないのでしょう。
ただ、全軍突撃命令が出て大半の日本軍兵士が玉砕したにも拘わらず、不思議にも、命令に反していち早く投降し、食に与った日本軍兵士の一群もあり、それを良く調べると、大阪辺りの兵士で「俺=ワイは日本人じゃない朝鮮人だ…(在日といっても日本併合下=日本編入下の朝鮮であり、一応、当時は日本人なのですが…)。
といった話は良く聴いており、ここら辺りに民族性、国民性を考えさせる部分があるのです。
少し拾って見ましょう。
柩(ひつぎ)を作るのを手伝った人は、もてなしを受ける。だからその人は、ふるまってもらう食事の一部なりとも負担しようと、遺族のところにいくばくかの米を持参する。
人前で嘲笑されたり拒絶されたりするか、そうでなければ、嘲笑されたと思い込むことが恥の原因となる。いずれの場合も、恥は強力な強制力となる。しかしそれが作動するためには、見られていることが必要である。
私は礼儀作法を完璧に身に付けていることを誇りとしていた。日本人ならだれでもそうであるように。ところが誇りはひどく傷つけられた。ここアメリカに来てからはどうすれば礼儀正しく振る舞えるのか分からず、自分で自分に腹が立った。また、周囲に対しても怒りを覚えた。
所謂、日本人論というものが流行った時代もあったのですが、中でも先鞭をつけ脚光を浴びたのは、「日本人とユダヤ人」のイザヤ・ペンダサンこと山本七平氏だったでしょう。
さて、戦後の経済復興期はともかくとして、共同体そのものであった農村経済の過剰労働力を都市に送り込み続けた地方=故郷=親元では(要は資本家だけに都合の良い家族や共同体の解体だったのです)、ベネディクト女史が言った「恥の文化」が残っていたのですが、それ自体は徐々に小さくなり、都市部では“隣に住んでいる人が誰なのかも知らない”と言った共同体無き社会が拡がり続けて来たのです。
結果、都市部では「旅の恥はかき捨て」といった状態が静かに遍く広がり、「恥の文化」がほとんど機能しなくなってしまったのでした。
勿論、全国性を持った企業とか単独でも大きな企業とかいった中では「恥の文化」は機能しており一概には言えないのですが、都市化が進めば進むほど「恥の文化」が機能しなくなるとまでは言えるのではないかと思うものです。
特に酷いのは、通常、自らが住む地域から外れて広域で移動する車社会に於いては、地域とか自らが所属する企業と言ったものから分離、遊離し、殆ど「恥の文化」が機能しなくなっていたのでした。
ところが、「このハゲー」で、一世を風靡した元自民党の豊田真○子議員のICレコーダー音声公開に
続き、今回の東名高速両親死亡事故問題の煽り男(あくまで被疑者ですので、一応、名は伏せますが)を公にして暴いたドライブ・レコーダーの普及(一般化)は、本質的には意味は異なるものの、「恥の文化」を機能させる「世間の目」を復活させる大きな役割を果たす可能性が出て来ているのです。
まず、経験的に言えるのですが、普段に目にする道交法無視の幅寄せ運転、煽り運転、危険運転をやっているのは、傾向として黒塗りの車に乗りたがり(これ自体が警察車両とか自衛隊車両といった強い物=者に憧れる権力志向型の弱者なのですが…)、同時に777,888、333…ナンバーを好む(一目でパチンコしか娯楽がない頭が空っぽなその手の人間と分かる)在日系の土建屋、産廃業者などで、個人的には20年ほど前から、黒塗りの車が来たらパトカー同様に警戒するという習性がしみ込んでいます。
1970年代までは、自家用車の大半が白、メタリック系が殆どで、それほど、黒塗りの車を好む傾向が増大しているのです。
この手の人間は、ヤクザ同様の思考性、指向性、嗜好性を持っている者と考え、それだけである種の選別、人物判断を行うメルクマールとして利用しています。
話を戻しますが。
勿論、かつては「国民総背番号制化」「監視カメラ」肖像権の侵害とか監視社会化とか危機が叫ばれたのでした。しかし、それは構成員が均質で、同じような行動様式を示す人が大多数派を形成していた時代の話であって、これが破れた社会(在日、外人を多く含む都市住民が大半になった)に於いては、最早、後戻りができない所まで来てしまっていたのでした。
特にジョージ・オーウェルの「アニマル・ファーム」(動物農場)を読んだものとしては、ソ連邦の秘密警察による徹底した監視社会(中国も同様ですが…)への抵抗を標榜していた訳で、このような人権と監視、人権と安全とは絶えず裏腹の関係にある訳で、逆に、日本における警察の取り締まりから尋問に至るまで、ICレコーダーや極小型の音声画像の収録機材を持たないと警察の任意の聴き取りも危険な時代となっており、逆に警察自体がそれらの機材を取り上げて尋問を始める事にもなりかねない時代に入っているのです。
勿論、さらに目立たない小型の収録機能を持った物が開発されるでしょうから、結局は江戸時代のいたちごっこ(ねずみごっこ)になるのですが。
ここで、考えるのが監視社会への急速な移行です。
動物農場
『動物農場』(どうぶつのうじょう、原題: Animal Farm)は、1945年8月17日に刊行されたジョージ・オーウェルの小説。動物たちが飲んだくれの農場主を追い出して理想的な共和国を築こうとするが、指導者の豚が独裁者と化し、恐怖政治へ変貌していく過程を描く。スペイン内戦に自ら参加した体験を持つオーウェルが、人間を豚や馬などの動物に見立てることで20世紀前半に台頭した全体主義やスターリン主義への痛烈な批判を寓話的に描いた物語である。
ウィキペディア(20171019 18:01)による
ジョージ・オーウェルはスターリニストに占拠されたソビエト共産党下のソ連邦を念頭に、情報統制社会を描いたのですが、現在のアメリカに於いても、民主化された社会、人権国家などと言うのは大嘘の幻想でしかなく、新聞からTVから有線放送、ラジオ、映画に至るまで、監視下に置かれている訳で、その最たるものがインターネットによる情報収集なのです。
ご存じの、「2チャンネル」「阿修羅」とか反政府、反社会的な言動もどんどん書き込めるサイト自体がゴキブリホイホイそのものでしかなく、全ての危険思想を持つ人々を集める誘蛾灯となっているのです。
それ以上に、携帯電話やネット上の全ての情報が集められているのであって、ソ連や中国だけが監視社会という訳ではないのです。勿論、日本政府の情報も全てアメリカの監視下にあるはずなのです。
ともあれ、ICレコーダーによる音声のネット上の拡散とかドライブ・レコーダーの画像のネット上の公開というものは、一面、喪失して久しい「恥の文化」の一部の再構築といった効果を持つ可能性がある事に気付くのです。
まず、あまり知られてはいないのですが、タクシーは全てドライブ・レコーダーで常時、収録されており、その移動ルートさえも自動的に記録されているのです。
これ無くしては、タクシー会社も防衛ができないのです。
ところが驚くことに、思わぬ副産物としてタクシー・ドライバー自体のマナーの向上が生まれ(監視されているため辛い事は十分に理解できますが)、客とのトラブルにも対抗できるようになっているのです(知らぬは乗客ばかりなりなのです)。
従って、一般の車両に於いてもドライブ・レコーダー登載車両の人は運転マナーが良くなると言う良い効果が生まれているのです。
これについては方々に設置されている監視カメラも同様の機能を持つ物であり、共同体が解体してしまった以上、これらが、直接、政府管理とか警察管理といったものではなければ容認せざるを得ないのではないかと思うものです。
それでなくても、韓国人、中国人、在日、在特も含めたその他外国人による犯罪の増大が予測される状況にある訳で、背に腹は替えられないと言ったところまで来ているのです。
既に、日本のヤクザは取締りが強化され、パチンコ業界まで風前の灯といった状況になっていますが、反作用として外国人のゴロツキ集団に日本のヤクザの組織が追い捲られている状態にあるのです。
つまり、人手不足と少子化の中、ヤクザの後継者も少なくなっており、ゲームお宅や度胸のない連中ばかりになっている事から、悪質な中国人、韓国人ゴロツキにも対抗できなくなり始めているのです。
いずれ、パチンコ業界は劇的な沈滞を迎えるはずで、代わってカジノが横行しアメリカのマフィア(ロックフェラー系)に支配される水先案内人になっているのが、平成維新とか叫んでいる新興の第2与党を目指す関西の在日集団なのです。
話が逸れましたが、日本人の「恥の文化」といったものは、簡単に(裏返て)言えば、“人の目さえ無ければ恥ではない”という脆弱な基盤の上に成立していた物です。
その証拠に「旅の恥は掻き捨て」とばかりに伊勢参りの無礼講(ジョロカイ=女郎買い)も存在していたのです。
このように、日本人の「恥の文化」とは西洋流の宗教的価値観に基づく絶対的規範ではなく、「人様の迷惑にならない様に生きなければならない」「人様に後ろ指を指されない様に生きなければならない」「親の顔に泥をぬるような真似だけはしないでくれ」「人から笑われないような生き方をしなさい」といった「人の目」を気にする相対的規範に基づく文化であった事から、「人の目」の再構築無くしては日本人の文化の維持もままならない状態にあった訳で、車社会、都市化といった「世間の目」「他人の目」が追いつかない事による社会の劣化はどうしようもない崖っ淵に直面していたのです。
総選挙などどうせ不正選挙ですからどうでも良いのですが、実に豊田真○子様には感謝感激といった劇的効果を上げ、これで理念など全くなく利権とエゴだけの糞議員どもも少しは身を律する可能性が出てきたかも知れないのです。勿論、糞議員の資質の向上など期待している訳などではなく、所詮、焼け跡に焼夷弾の類の話でしかないのですが。
果たして、ドライブ・レコーダーが「人の目」にまで成長してくれるかどうかまでは分かりませんが、どうやら、危険極まりない無政府状態になり始めていた日本社会でしたが、多少の光明と言えば言えるのかも知れません。
数十年後、豊田真○子と幅寄せ男のI氏は、列島文化の再構築の切っ掛けとして、急速にICレコーダーやドライブ・レコーダーを普及させた功労者として銅像が立つことになるかも知れません。
これまで、絶対的規範は元より、「人の目」「他人の目」「世間の目」と言う相対的規範しかを持ってこなかった列島人は、ここに来て、ようやく失って久しかった「他人の目」を意識するようになり、代わりになる物を再建できることになったのかも知れません。
最低でも、「幅寄せ男」による危険運転による報道が連日行われて以降、多少ともドライブ・マナーが良くなったような気がするのですが、気のせいかも知れません。
日本人とはこのように従順で争いを避ける人々だった訳で、だからこそ大陸や半島から逃げて、箱庭のような平和な社会を創り上げたのでした。
再び新倭国、新日本国を造るために逃げ出すべき天地を探さなければならなくならないように願います。