スポット136(前) No.17 長髄彦の反乱と鬼門荒神 (宮原誠一論文のご紹介)
20171019
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
既に、スポット 101 飯塚市伊岐須の高宮八幡宮とは何か? “鳥見の長脛彦は飯塚にいた”
(20170515)として福岡県飯塚市の高宮八幡宮に長脛彦が居たのではないかという仮説を提出しました。
これをどのようにお読みになったかは皆さんのご判断になりますが、この神社に同行されたメンバーの宮原誠一氏が同神社に関して新稿をアップされていますので、宣伝の意味でご紹介致します。
宮原氏は、私が取り上げなかった別の側面からさらに深いアプローチを試みておられ、このような異論の衝突、混淆、対抗こそが研究をさらに一層掘り下げ深化させるものと考えています。以下全文掲載。
宮原誠一の神社見聞牒(017)
平成29年(2017年)08月04日
No.17 長髄彦の反乱と鬼門荒神
1.福岡県飯塚市伊岐須の高宮八幡宮
「ひぼろぎ逍遥」管理人古川清久氏と5月に飯塚市伊岐須(いきす)の高宮八幡宮を訪問し、この神社の性格について調査を試みた。
「伊岐須」という変わった地名の高台に高宮八幡宮は鎮座している。出発前、地名からして、彦火々出見命の「伊の大神」、長髄彦の「岐(くなと)神」、素戔嗚尊の「須佐」が関連して付けられた地名と想像していた。廻りには「伊」がつく地名が多い。
詳しくは、ひぼろぎ逍遥 2017年06月19日 スポット 101 飯塚市伊岐須の高宮八幡宮とは何か?“鳥見の長脛彦は飯塚にいた” 太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川清久 の報告を参照されてください。
神社の社殿、祭神、境内社、そして廻りの地形・神社をみていると祭神の入れ替えが想定できた。上古は素戔嗚尊・長髄彦、次に天忍穂耳命による貴船神社の高淤加美神、次に大山祗・大国主、次に彦火々出見命(ニギハヤヒ)関連の物部氏、最後に八幡神の上塗りと想定した。
素戔嗚尊・長髄彦親子は、ここ飯塚市一帯におられたことがあるようだ。もともと、上古の豊前から筑豊にかけては新羅系氏族、素戔嗚尊の支配領域である。ここに、岐神である長髄彦の所在を想定できた。境内で思いを巡らせている時、気になったのが、岐神、「くなとのかみ」という文字と読み方である。すんなりと受け入れることが出来なかった。
福岡県飯塚市伊岐須の高宮八幡宮
2.岐(くなと)神とは
素戔嗚尊(すさのおのみこと)の家系には名前に「岐(また)」がよく付く。
伊弉諾命(いざなぎのみこと) 伊邪那岐命『古事記』 素戔嗚尊の父
素戔嗚尊(すさのおのみこと) 速岐神(はやまたのかみ)
長髄彦(ながすねひこ) 岐神(くなとのかみ) 素戔嗚尊の子
神俣姫(かみまたひめ) 素戔嗚尊の姉
「岐」という漢字は、一般的には「わかれる」別れ道、と捉えられることが多い。これは状態を意味しているのであって、動態の意味として「別れ道であるが故に踏み止まる」という意味を持つ。拡大解釈をすれば、「岐」という漢字は次のように使える。
「岐(くなと)」 ->「来な人(くなと)」 来てはいけない人
「岐門(くなと)」「岐戸(くなと)」->「通ってはいけない所」
岐(くなと)神とは「来てはいけない神」なのである。
飯塚市伊岐須の高宮八幡神社
3.伊邪那岐命と岐神
日本書紀における「岐神」の記述
日本書紀「神代上」第五段一書第六 省略解釈
「イザナミから逃げるイザナギが黄泉津平坂(よもつひらさか)で、『これ以上は来るな』と言って杖を投げた。これを岐神(くなとのかみ)という。」
杖は村の入口や岐路に立てられて邪悪なものの侵入を防ぐ役をした。
「日本書紀における『岐神』の記述」では、イザナミとイザナギの立場が入れ替わっているように思える。逃げるのはイザナミである。イザナミはイザナギと離縁し、大幡主のもとにやって来る。そして、追いかけてきたイザナギに杖を建て侵入を防ごうとした。岐神(くなとのかみ)はイザナギであった。
伊邪那岐命の名の由来であるが、伊都国(伊)、奴国(那)、邪馬壹国(邪)には入れない神、つまり、福岡県筑豊西部から西方面の九州北部沿岸地方には入ってはいけない神という意味になる。どうしてそういう意味なのか分かりません。次ぎの祝詞(のりと)にも関係してきます。
イザナギについては、まだ不名誉な記述がある。有名な御祓いの祝詞(のりと)である。
祓詞(はらえことば)
「掛(か)けまくも畏(かしこ)き 伊邪那(いざな)岐(ぎの)大神(おおかみ) 筑紫の日向の橘(たちばな)の小戸(おど)の阿(あ)波(は)岐(ぎ)原(はら)に 御禊(みそぎ)祓(はら)へ給(たま)ひし時に生(な)り坐(ま)せる祓(はらえ)戸(ど)の大神(おおかみ)等(たち) 諸諸(もろもろ)の禍事(まがごと) 罪 穢(けがれ) 有(あ)らむをば 祓へ給ひ 清め給へと白(まお)す事を 聞こし食(め)せと 恐(かしこ)み恐(かしこ)みも白(まお)す」
祓詞(はらえことば)を解釈すると、
「伊邪那岐命は筑紫の小戸の阿波岐原にて、祓戸の大神達の「禊祓」を受けている。
立ち会った祓戸の大神達は、自らの身辺を「祓へ給い清め給へ」とお願いしている。」
と解釈できる。この時、伊邪那岐命が受けた「禊祓」とは、どういう状態を言うのであろう。
私には伊弉諾命が罰を受けているように思える。伊弉諾命は何か悪いことでもしたのであろうか。そして、その処罰に祓戸大神たちが立ち会った。祓戸大神たちは誰に「祓へ給い清め給へ」とお願いしたのであろう。それとも、自ら自浄能力を持ち合わせていたのであろうか。
祓戸大神(はらえどのおおかみ)は次のように解釈されている。
① 気吹戸主(いぶきどぬし)
速開津媛命がもろもろの禍事・罪・穢れを飲み込んだのを確認して
根の国・底の国に息吹を放つ
② 瀬織津比売(せおりつひめ)
もろもろの禍事・罪・穢れを川から海へ流す
③ 速佐須良比売(はやさすらひめ)
根の国・底の国に持ち込まれたもろもろの禍事・罪・穢れをさすらって失う
④ 速開都比売(はやあきつひめ)
海の底で待ち構えていてもろもろの禍事・罪・穢れを飲み込む
祓戸大神を百嶋神社考古学は次のように解明する。
① 気吹戸主(金山彦)
② 瀬織津比売(櫛稲田姫)八十枉津日=市杵嶋姫という説もある。
③ 速佐須良比売(鴨玉依姫=神直日)
④ 速開都比売(万幡豊秋津姫)
これらの神々は豊玉彦を中心とした神々であることに特徴がある。
「百嶋神代系譜・素戔嗚尊・御年神・豊城入彦 神代系図(6)」を参照のこと。
伊弉諾命は九州北部沿岸の西部の国で何が原因で、咎(とが)められたのであろうか?
4.長髄彦と岐神
日本書紀における「長髄彦」の記述
日本書紀「神代下」第九段一書第二
「天に悪しき神あり。名を天津甕星(あまつみかほし)という。又の名は天香香背男(あめのかがせお)。請う、まずこの神を誅(ほろぼ)して、その後に下りて葦原中国を撥(おさ)めよう。」
長髄彦は「天の悪しき神。名を天津甕星」という。又の名は「天香香背男」という。
甕星は金星。香香背男は蛇。キリスト教聖書に出てくる「落ちた天使、明けの明星」金星と蛇のルシュファーと同じ表現である。
かくして、「長髄彦の反乱」の敗北結果、長髄彦とその奉斎氏族は東北地方に追いやられ、「岐(くなと)」、「来な人(くなと)」の人となった。西日本の勝者は長髄彦を東北の岐門の神と恐れたが、東北地方では善き荒神として歓迎された。時代が下がり、岐門の神は、いつしか、鬼門(きもん)の神に変えられ、丑寅方位の好まざる荒神に貶(おとし)められた。
これは「勝者の敗者に対する身勝手な言い分」にしか過ぎない。
勝者は敗者の歴史を封殺し、敗者は己の不名誉な記録を抹殺する。そして、真の歴史は消えて分からなくなり、勝者の歴史が残る。
5.荒神様こと素戔嗚尊
素戔嗚尊の荒神様については「No.6 荒神信仰の起源を探る」「7.三人の荒神様」で一部ふれている。
素戔嗚尊も荒ぶる神であり荒神さまである。古事記では天照大神をいたずらで困らせたり、八岐大蛇(やまたのおろち)退治でも有名であり、凶暴な一面、一転して英雄的な性格を持ち、荒神ぶりを発揮される。
私の田舎では家を建てる(設計)とき「鬼門避け」を考慮する。北東の角が鬼門構造にならないように、また、玄関、出入り口を避ける習慣がある。しかし、町中では道路が区画されていて、思うように間取りを取ることができない。どうしても鬼門構造にならざるをえないと云う。この災いを抑えてくれるのが荒神さま、こと素戔嗚尊であると云う。よって、町中・市街地となる都市部では、この鬼門を抑えるために素戔嗚尊を祀る祇園神社があるのだという。
結局、北東の鬼門の神・岐(くなと)神である長髄彦を抑えられるのは、父親である素戔嗚尊であるということになる。
三方荒神は素戔嗚尊(牛頭天王)、長髄彦(岐神)、瀛津世襲足姫(武内足尼)を指すことになり、牛荒神の名で信仰されている。筑後地方では、荒神様の神徳は「水神」、「農業神」「牛馬の守護神」、「火災防止の神」、「招福の神」であるが、一般的には「招福の神」と言えそうです。
また、荒神様・素戔嗚尊と絡めた、蘇民将来(そみんしょうらい)伝説については、「No.11くらおかみの神を祀る八龍神社」でふれた。
ことの経緯はヤマタノオロチの説話から始まる。
この説話は大山祗と金山彦との争いを説話化したものと云われている。
大山祗と金山彦との百年戦争と言われ、ヤマタノオロチの説話の材料にされ、金山彦夫妻が足名椎(あしなつち)夫妻、大山祗はオロチに例えられる。その争いを仲裁したのが素戔嗚尊である。
結果、大山祗は金山彦の妻・埴安姫を奪取、素戔嗚は金山彦の娘・櫛稲田姫と大山祗の娘・罔象女を得ることになる。
問題は、この後に起こる「蘇民将来巨旦将来」伝説である。
ことは素戔嗚尊が、わが姉・神俣姫(かみまたひめ)の処遇に腹を立てたのが発端である。
神俣姫は阿蘇の神様・神沼河耳命の妃であり、その間に天忍穂耳命の子があった。
神沼河耳命には兄の神八井耳命がいた。弟の神沼河耳命は高淤加美(タカオカミ)であり、巨旦将来(コタンショウライ)である。一方、兄の神八井耳命は蘇民将来とされる。
当時、大伯太子(神武天皇)の后は金山彦の姫・吾平津姫である。神武は后・吾平津姫を神沼河耳命に下賜され、間に生まれた子が建磐龍であり、吾平津姫は名を蒲池姫に変えられる。神沼河耳命は天皇家並の扱いとなる。そして、神俣姫は離縁され、丹生津姫と改められる。
元々、天王(てんのう)と云われた素戔嗚、神武天皇と同等の天子の資格を持つ出自の素戔嗚は姉・神俣姫の処遇に激怒した。
素戔嗚の激怒を知った天忍穂耳命の妻であり素戔嗚の娘である瀛津世襲足姫(オキツヨソタラシヒメ)は、夫に神沼河耳との親子を離縁して、兄・神八井耳命の養子になることを勧める。結果、天忍穂耳命は阿蘇の惣領を弟の建磐龍(阿蘇神社)に譲ってしまう。そして、名を彦八井耳とされる。
かくして、素戔嗚は武塔神となり、巨旦将来こと神沼河耳命の討伐となる。
「茅の輪」説話の裏舞台である。
素戔嗚の暴挙の結果、櫛稲田姫と罔象女は素戔嗚の妃の座を捨てて、豊玉彦のところに助けを求められる。素戔嗚のヤマタノオロチ紛争の仲裁が裏目に出てしまった。
「神武の失政」と言われるものである。
この状況下、父・素戔嗚、伯母・神俣姫の姿を見かねた息子・長髄彦がいた。素戔嗚と同様に怒りは心頭に達した。倭国大乱の前兆である。