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スポット136(後)  No.17 長髄彦の反乱と鬼門荒神 (宮原誠一論文のご紹介)

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スポット136(後)  No.17 長髄彦の反乱と鬼門荒神 (宮原誠一論文のご紹介)

20171019

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


6.長髄彦の反乱

これからの話は、具体的に記述する史料もとぼしく、思考の探検になります。

長髄彦軍は筑豊で軍備を整え、福岡市の東、邪馬壹国(倭国諸国)連合軍と対戦する。また、佐賀県東背振では天皇軍・物部軍と対戦する。狗奴国の乱の場合と異なって、この戦乱は敵味方がはっきりしていること。「長髄彦・新羅軍」対「反新羅軍」の対立と云う分かり易い構図である。

戦乱地域は福岡県矢部川以北の北筑後から福岡市の東部一帯と推定する。

迎え打つ天皇軍は、大国主率いる匈奴・物部軍とニギハヤヒ率いる北筑後物部軍及び邪馬壹国連合軍である。その総指揮官が神武と共立された女王「ヒミコ」であった。

戦闘の激しさは、吉野ヶ里柵(遺跡公園)の西の墓地群を見れば、その激しさが分かる。

まだ遺跡が調査の段階で、私は発掘調査の途中経過報告会に出向いて、遺跡の西側に展開する死者の甕棺の数に驚いた。首のない甕棺もあった。

やがて、長髄軍は邪馬壹国連合軍に筑豊へ押し戻され、吉野ヶ里柵の長髄軍は孤立包囲されて、長髄軍の負けは見えてきた。

吉野ヶ里柵の南の外れの田手川の高地に立って、降伏勧告の交渉を待つ女王「ヒミコ」がいた。その姿は戦乱を戦い抜いた荒神の姿であった。後にここ、女王「ヒミコ」の荒魂・撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつみたまあまさかるむかつひめ)を祀った田手大神宮が建立される。

結果、長髄彦は降伏し、配下氏族共々東北地方への配転と決まる。

吉野ヶ里柵は放棄され誰も住むことなく自然の荒れにまかせて朽ち果てていく。昭和の終わりに遺跡が発掘されるまで、その姿は土中に埋もれてしまうことになる。

戦後処理が終わっても、大国主配下氏族と長髄彦の子孫の対立は中国地方でも続くことになる。また、大国主率いる匈奴・北筑後物部軍は、長髄彦のいなくなった筑豊への移動展開となる。筑豊物部の誕生である。

しばらくして、長髄彦の姉・瀛津世襲足姫の子であり、本拠地を南九州におく建南方(たけみなかた)が北熊本から南筑後にかけて、狗奴国の乱を起こすのであるが、この時は熊襲軍、匈奴物部軍、ウマシマジ率いる高良物部軍が入り乱れ、兵の識別が分かりにくい乱戦となる。


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吉野ヶ里遺跡公園と田手神社


7.三月金神と金神信仰

荒神信仰とは別に金神信仰(こんじんしんこう)というものが、世間一般にひろまっている。

鬼門荒神信仰は北東の特定の方位の障りを恐れるものであるが、金神信仰は障りの方位が時期によって変化するという異質のものである。

一年によって「障り方位」が動く「大金神」と3ヶ月ごとに巡ってくる「三月金神(みつきこんじん)」がある。

特に世間に強く意識されているのが「三月金神」信仰である。

三月金神信仰は、三ヶ月毎に方角をかえる荒神であり、移転、新築、増改築、土木工事、開店等で、この荒神の方角に向かうと祟りがあると考えられている。

三月金神の回る方角は、三ヶ月間単位で同一方角に留まり、旧暦の1月から3月は東、4月から6月は南、7月から9月は西、10月から12月は北と方角が変わっていく。

私の村では、知らないで三月金神方位に増改築をしていれば、まわりの村人が注意し教えてくれる、という状況であり、生活に深く根付いている。

この金神信仰は北熊本から福岡県筑後地方にかけての地域に限定されるようであるが、調査していないので不確定性は残る。

思うに、この地域は「長髄彦の反」、「狗奴国の乱」の地域と重なるようである。この二つの「反と乱」が荒神信仰と金神信仰に直接間接に係わっているようだ。金神信仰の起源はやや時代が下がるようである。一般的には三月金神信仰が、いつ頃から始まったのかは不明とされているが、これも素戔嗚尊、長髄彦、瀛津世襲足姫、その数代後の子孫に関連している。


三月金神信仰はあまりにも生活に深く根付いて、生活・活動に障害を来たしている。

ここでは、金神信仰がどういうものであるかに留め、金神様とその起源については触れない。関心のある方は、最期に「百嶋神代系譜・素戔嗚尊神代系図(6)」を添付しているので、想像逞しく考えてみられてください。


8.それからの長髄彦について

長髄彦について、百嶋先生メモに次のようなことが書き留められている。

戦乱後の瀛津世襲足姫一家は、ヤマトタケル(孫)の働きにより順調に名誉を回復している。そして、日本の先人たちが日本を作るのに広い心をもって事に当ってきたことを述べておられる。


「長髄彦失政の折、長髄彦・瀛津世襲足姫の兄妹は豊玉彦の厄介になり、天足彦(彦坐王・瀛津世襲足姫の子)の一家は束になって、孝霊・孝元・開化天皇のお世話になりました。系譜処理上は開化天皇の子に・・・。天足彦の子・ヤマトタケル(孫)の働きにより、瀛津(おきつ)一家の名誉回復は順調に進みました。」


百嶋由一郎先生講演抜粋


呉の系統の神武天皇およびそのお姉さんであるアマテラスオオミカミ、その呉の系統の一番尊い方々に次ぐ尊いお方が素戔鳴尊です。それで、素戔鳴尊のご一統がどこにどのようにして住んでいらっしゃるかの一部を申し上げます。日本にもたくさん素戔鳴尊の子孫がいらっしゃいます。その証拠に、一番派手に、スサノヲ・スサノヲをやってる一番派手なお祭りは何処のお祭りですか?京都の祇園祭、博多の櫛田神社の祇園祭。博多の方が古いです。

最初に日本で天皇家に逆らったとてつもない有名人は、神武天皇とけんかなさった方、素戔鳴尊のお子さん長髄彦です。長髄彦が反を起こされた。その後、僅かの時間をおいて、狗奴国の乱が起こった。この二つの反と乱でもって魏志倭人伝にいう「倭国大い乱る」となった。この乱の終結の事務処理をしたのが、春日大神となっている。

神武天皇が天皇になる前に倭国大いに乱れるの時、福岡の方から避難して、宮崎の方、鹿児島の方に移動なさって、そこでなんとか話をまとめて、いつの間にか、ありもしないヤマタイ国ができあがった。ヤマタイ国はありませんよ。しかし、ヤマタイ連合はありますよ。

倭人伝にあるように、倭国乱る、倭国乱る、倭国乱る。何回も乱れましたけれども、何回も懲りないでまとまって、喧嘩してはまとまり、喧嘩してはまとまる、というように。

これが日本人の先祖の偉いところで、非常に優れた組織を持っていました。

悪いことをしたら罰する。罰するけれども、なるべく殺さないで、現役を引退してもらう。そしてその家族の財産は没収されますけれども、ほかのところに親戚のところに行って養って貰いなさいと就職斡旋をしてくれたのです。それくらいありがたい、日本の先人たちは日本を作るのに広い心をもって、国は狭いけれども心は広いということで何とか日本の国をまとめたのです。

まとめ上げるその舞台裏は、それぞれ顔がばらばらです。民族が違うので、顔が違うのも当たり前、言葉も違います。日本列島に住む人々の共通の言葉は漢語です、中国語です。

従って、全員が漢語を媒介体として、「乱れては仲良くなる」を繰り返していたのです。とにかく喧嘩ときたら、言葉が通じないので、喧嘩するのは当たり前ですね。しかし、リーダーは偉いです。そう喧嘩したらいかんといって、皆を纏めたんですね。


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古川挿入 百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


研究目的で百嶋由一郎音声CD、手書きデータ、神代系譜(50種)…を必要とされる方は


09062983254まで(何時でも結構です)


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百嶋神代系譜・素戔嗚尊・御年神・豊城入彦 神代系図(6)


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