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489 安産の里無津呂の神々 上無津呂の淀姫神社  ジネコ神社協賛プロジェクト ③

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489 安産の里無津呂の神々 上無津呂の淀姫神社  ジネコ神社協賛プロジェクト ③

20170607

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久


佐賀県の古代の汀線は標高5メートルの貝塚線とほぼ一致する…と言われますが、この縄文の貝塚ラインが長崎自動車道と、大方一致するとされる事から、ほぼ、佐賀平野の大半が海の底であった事になるでしょう。

ただ、弥生時代の始まりという概念自体(一般的には水田稲作の開始)が500年から700年程度遡ってしまったことから、実際には紀元前千年程度の海岸線という事になるのかも知れません。

その意味では、佐賀大和ICの南側に、肥前国府跡や国分尼寺それにちなむ尼寺という地名が存在している事は古代を考える上で大きな指針となりそうです。

つまり、この一帯が通常言うところのウォーター・フロントであり、現在の川上の淀姫神社の辺りが紀元前後の一等地であったという理解も疑う余地がないようです。

この辺りの事は太宰府地名研究会のHPから「淀姫」を検索しお読み頂きたいと思います。

さて、佐賀の北側に存在する脊振山系を東西に分かち南流し有明海に注ぐのが嘉瀬川です。

肥前国(ここでは東半の佐賀県を念頭に置いているのですが)の神社と言えば、まず、淀姫神社が頭に浮かびます。

格式から言えば、大正十五年発行の「佐賀県神社誌要」でも筆頭に書かれる國幣中社田島神社(唐津市呼子町加部島)がありますが、その拡がりと浸透力から言えば、この河上の淀姫神社はより強い印象を与え、嘉瀬川の畔に鎮座しています。

この淀姫神社そのものに関しては、長文の「淀 姫」(ヨドヒメ)に譲るとして、今回はこの「淀姫神社」よりもさらに五十年遡る縁起(「古事記」を遥かに遡る1550年)を持つ旧富士町上無津呂の淀姫神社と下無津呂の乳母神社、さらには神水(オシオイ)川との関係を考えたいと思います。

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「佐賀県神社誌要」


佐賀の東西を分けるというのは多少大袈裟な表現かもしれませんが、かつては佐賀市の市街地を貫流していたものを江戸期に西に付け替えられた嘉瀬川の最上流部に「上無津呂」「下無津呂」「真名子」という非常に印象的な地名が並んでいます。

713年に所謂「好字令」が出されますが、以降、地名は基本的に二字の好字表記とされたと考えられています。このため、これらの三文字表記の地名は最低でも8世紀以前に遡る可能性があり、それだけでも佐賀の古代を云々する時には考慮に入れる必要があるほどの重要性を胚胎しているのです。


上無津呂の淀姫神社と神水川


この淀姫神社が何かを考えずして九州の古代を云々できないとの思いを深くしたのは、佐賀市に編入されたものの古湯温泉のさらに奥深く鎮座する古社 上無津呂の淀姫神社に遭遇し、さらに下無津呂の乳母神社の氏子でもある某産婦人科医師と知り合ったからでした。                  

“医は算術”とばかりに蓄財に走るものが多い中、福岡市内で産婦人科(麻酔科)医として水の問題を取り上げ、妊娠から出産そして育児までを水から考えるという正に良医の名に値する町医(開業医)ですが、その良医から「この淀姫神社の前に流れる川は、何故、神水川と書かれ、おしおい川と呼ばれるのか?また、下無津呂には乳母(めのと)神社が有るのか?・・・」と問われ、それに回答を出さねばならないとの思いだけで取組んだのが「淀 姫」(ヨドヒメ)だったのです。

神社自体の解読については既に「淀 姫」(ヨドヒメ)を書いていますので、ここでは踏み込みませんが、良く考えると、この上無津呂の淀姫神社は奇妙です。

まず、河上の淀姫神社は“淀姫”と、神名が伏さ(隠さ)れた“大明神”(百嶋神社考古学では河上猛と考えていますが)を祭神としています。

他の多くの淀姫神社も祭神を“淀姫”を祭神としている事から、この河上の淀姫より五十年も古い由緒を持つ上無津呂の淀姫神社が“淀姫”を祭神としていないとは考えられないのですが、実はそうはなっていないのです。

この理由としては、淀姫を別の神と読み替えたか“淀姫”が隠されたとしか考えようがないのです。



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淀姫神社としながらも祭神を豊玉姫、玉依姫…としている事に作為を感じない人はおられないでしょう


 通説の豊玉姫、玉依姫の説明は良いでしょうが、髙皇産霊神は高木大神の事で天孫ニニギの親神と言えばお分かりになるでしょう。

 猿田彦命のイメージはそれなりにお持ちでしょうが、百嶋神社考古学では天神ニギハヤヒ、山幸彦とします。

 句句之智命は火之迦具土神(ヒノカグツチ)軻遇突智(カグツチ)、火産霊(ホムスビ)とされる製鉄神=金山彦=火の神ですね。

 保食神も百嶋神社考古学では伏見稲荷=伊勢外宮=豊受大神=筑豊の韓国息長大姫大目命(筑豊の香春岳の主神)=天宇受賣命、天鈿女命(アメノウズメ)となります。


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「佐賀県神社誌要」


 では、何故本来祀られていたはずの“淀姫”が祀られていないのでしょうか?いくつか考えられます。

上無津呂の淀姫神社を念頭に書くこととしますが、①上無津呂、下無津呂に豊玉姫、玉依姫が祀られ、淀姫神社と乳母神社がある理由は、神代一族にとって自らこそが神武天皇の直系の一族であるとの思いが込められていることは、まず、間違いないでしょう。

では、淀姫が豊玉姫や玉依姫と言えるでしょうか?結論から言えばそれは全くないと思います。私見ではあくまで淀姫の古代の読みである豊(ユタ)姫(百嶋神代系図では玉姫とも記されている)が、豊玉姫、玉依姫と理解されたか、淀姫神社の祭神が入れ替えられたと考えています。

恐らく、それを行なったのは「佐賀県神社誌要」の上無津呂の淀姫神社にも顔を出す神代(クマシロ)勝利の一族そのものではないでしょうか?

 そう考えられる理由は神代氏の出自にあります。まず、肥前の名族神代氏は、後には鍋島の同族とまでなり維新まで生き延びますが、彼らは、戦国期は肥前山内(サンナイ)を拠点に龍造寺一族と覇を競った戦国武将であり、川上の淀姫神社(の庇護)を背にして一大決戦を行ったものの、裏切りもあり敗北し、無念にも上無津呂まで落ち延び、在地庄屋の一族の嘉村氏に匿われて生延びます。

この辺りの神代一族の大活躍については、ネット上にも「北肥戦誌」が公開されており労することなく読むことができることから試みて下さい。

 結果、神代氏にとって上無津呂の淀姫神社は一族の守護神になったはずなのです。

 事実、上無津呂に対し、現在県立博物館に収納されている大小の太刀と水田が寄進されています。

 この神代一族は、古くは「鏡山」と称し、高良大社の大祝職であった宮司家一族であり、高良玉垂命の、即ち神武天皇の直系、第七代孝元天皇の子彦太忍信命の子屋主忍信武雄心命の子武内宿禰の後裔と自認していたのです。

 従って、「高良玉垂宮神秘書」にある神功皇后の二人の妹の一人が「河上大明神トナリ玉フ」の記述を知らなかったとは考えられず、その後も続く龍造寺氏との一大決戦に際して、さらに遡る神武天皇の母(乳母)祖母神である二神を祀った(淀姫の庇護を受け闘い敗北したことから、逆に嘉村一族の側から申出したものかも知れない)のではないかと考えられそうです。

 むしろ、それまで淀姫を奉祭していたのは神代を匿った嘉村一族であったはずで、自らの氏神を淀姫(豊姫)としていたものと考えています。

 その上無津呂の淀姫神社正面の岐から神水(オシオイ)川が流れ下り、下無津呂の乳母神社の縁を洗い、さらに下流の子安神社の横を流れ下っていたのです。


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この落合の地で上無津呂川が手前の川頭川と合流し神水川が産まれているのです


さて、数年前「古事記」編纂千三百年が脚光を浴びたのですが、それをさらに二百年も遡る伝記を持ち、河上、與賀の両県社を五十年は上回る神社がこの上無津呂の地で千五百年祭を祝ったのでした。


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