490 安産の里無津呂の神々 下無津呂の乳母神社 ジネコ神社協賛プロジェクト ④
20170608
太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久
上無津呂(佐賀県佐賀市富士町)の淀姫神社から神水川沿いに一キロほど降ると乳母神社があります。
青枠が淀姫神社、赤枠が乳母神社、それらを監視するのが如く鎮座するのが藤原の春日神社=実体は阿蘇高森の草部吉見=ヒコヤイミミ(壱岐真根子は阿蘇系ですね)
良医久保田史郎が泳いだ神水川(冷たい水ながら川底からは温水も…)川へも容易に降りられる通路が
乳母神社は間違いなく祭神も玉依姫と大海祗命とあるのですが、不思議なことに千木は男神を意味しており、それを大海祇命(恐らく豊玉彦=ヤタガラス)と見れば対応はするのですが、これについては百嶋最終神代系譜の素晴らしさを実感して頂ければそれで良いでしょう。勿論、記紀が描く玉依姫は偽装されていますので真に受けないで下さい。
タマヨリビメ
綿津見大神(海神)の子で、豊玉姫の妹である。天孫降臨の段および鸕鶿草葺不合尊の段に登場する。トヨタマビメがホオリとの間にもうけた子であるウガヤフキアエズ(すなわちタマヨリビメの甥)を養育し、後にその妻となって、五瀬命(いつせ)、稲飯命(いなひ)、御毛沼命(みけぬ)、若御毛沼命(わかみけぬ)を産んだ。末子の若御毛沼命が、神倭伊波礼琵古命(かむやまといはれびこ、後の神武天皇)となる。
『古事記』および『日本書紀』の第三の一書では、トヨタマビメは元の姿に戻って子を産んでいる所をホオリに見られたのを恥じて海の国に戻ったが、御子を育てるために、歌を添えて妹のタマヨリビメを遣わした、とある。『日本書紀』本文では、出産のために海辺に向かう姉に付き添い、後にウガヤフキアエズの妻となった、とだけある。
第一の一書では、トヨタマビメが海の国へ帰る時に、御子を育てるために妹を留め置いた、とある。第四の一書では、一旦トヨタマビメは御子とともに海に帰ったが、天孫の御子を海の中に置くことはできず、タマヨリビメとともに陸に送り出した、とある
タマヨリビメ ウィキペディア(20170609 11:55)による
乳母神社 祭神 玉依姫命 大海祇命
創立年代不詳 元亀3年(1572)3月神殿再建、貞享2年(1682)5月拝殿再築の旨該社旧記に見ゆ、勧請の縁由等は不明なり。昭和9年火災により焼失、同年再建築。 出典:富士町史下p.399
綿津見大神(海神)の子で豊玉姫の妹である。天孫降臨の段および鸕鶿草葺不合尊の段に登場する。トヨタマビメがホオリとの間にもうけた子であるウガヤフキアエズ…ここまでは正しいのですが、まず、百嶋神社考古学では、この玉依姫を豊玉彦(対馬の海神ワダツミ神社の主神)の子の鴨玉依姫とします。
豊玉彦と櫛稲田姫(スサノウのお妃だった)との間に産れた白川伯王、天御中主~大幡主~豊玉姫の系統を引継ぐプリンセスと、豊玉姫と彦火々出見=山幸彦=ニギハヤヒの間に産れたウガヤフキアエズとの間に産れた安曇磯羅のお妃が実はヤマトタケルが誅伐した逆賊河上猛の妹の豊(ユタ)=淀姫となるのです。
従って、百嶋神社考古学の立場からこの乳母神社の祭神を見ると、豊玉彦(大海祇命)とその娘である鴨玉依姫命を祀る神社であり、親神の大海祇命を祀る神社としての男千木が建てられているものと思われます。
私達 九州王朝論者の目から見れば、上無津呂の淀姫神社の祭神が、通説の意識で解釈されているとしても、祭神そのものは、九州王朝それも大幡主系(白族)の神々であり、乳母神社と非常に良く対応する事が分かります。
ただ、子安神社はエリアが異なるからか、大山祇神 磐長姫命 保食神 源義経 安産の神という瀛氏、越智族系の神々が祀られているようです。
いずれにせよ、無津呂の領域は白族大幡主系の集落である事が、この乳母神社が存在する理由を証明する鍵となりますので頭に入れておいて頂きたいのです。