スポット139(前) 内倉武久氏のブログ 「ウッチャン先生の古代史はおもろいで」のご紹介
20171025
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
本ブログをお読みの方ならば、ひぼろぎ逍遥とひぼろぎ逍遥(跡宮)の右手下にリンクを張っているブログがあることはご存じだと思います。
このブログをお書きの内倉武久氏は、元朝日新聞記者で「太宰府は日本の首都だった」外3著をミネルヴァ書房外から公刊されておられ、九州王朝論者の中では知らぬ人の無い、考古学に精通された研究者です。
同氏は考古学を中心にフィールド・ワークを続けられ、現在も熊襲のルーツを探るとして列島の古代史を追求され続けておられます。
無論、同じ九州王朝論者とは言いながら、私と内倉先生との立場は異なります。
先生は犬祖先伝説やその墓制などから熊襲を中国大陸でも南の少数民族地帯から入っているシェー族などとお考えですが、当方は、海南島を経由して雲南省の麗江から入った黎(リー)族と同じく雲南省昆明から入った白(ペー)族が阿蘇氏と熊野系ヤタガラスの一族になっており、熊襲は半島から流入したトルコ系匈奴と考えているのです。
誤りがあると申し訳がない為、詳細については内倉武久のブログをお読み頂くとして、本題に入りましょう。
シェ族
シェ族(しぇぞく、畲族、あるいはショー族、シャ族)は中国の少数民族のひとつであり、中華人民共和国が公式に規定する漢族を含む56の民族のひとつである。
シェ族は福建省における最多の少数民族である。また、浙江省、江西省、広東省、安徽省にも居住している。
福建省・連江県には小滄シェ族郷があり、浙江省には景寧シェ族自治県がある。
シェ語はミャオ・ヤオ語族に属する。ただし、現在シェ族の大部分は近隣にいる客家と同じように中国語諸語の客家語を話す。独自の言語を保持する人々は広東省に数百人居るだけであるが、彼らは自分たちを「Hone」(中国語: 活聶 huóniè)と呼んでいる。
ウィキペディア(20171006 19:57)による
九州王朝論者である内倉武久氏も、決して古田武彦一辺倒といった方ではなく、強固な自説をお持ちながらも、通説から相当に外れた百嶋由一郎神社考古学にも部分的な関心を示しておられ、これから十年程の間に(亡くなられるまでに?)どちらが洗脳を受けるかは勝負と言ったところです。
内倉氏とは過去10回ほど長期のトレッキングに遠征しており、旧知の関係ではあるのですが、最近の論考から転載するとともにご紹介したいと思います。
ここではあの醜悪な宗像世界遺産登録に関してご紹介したいと思います。
ブログNO.58 宗像の世界遺産登録はいいのだが…
2017-07-21 22:43:04
ブログNO.58
宗像の世界遺産登録はいいのだが…
◇やはりいかがわしさが満載
先日、「海の正倉院」とも言われる福岡県の宗像(むなかた)神社や古墳時代に海路の安全を祈願した場所である沖ノ島などが一括して世界遺産に登録された。全部で約八万点ともいう鏡や供え物など祭具が出土している。宗像大社は海路を守るという三女神が主祭神だ。
以前、沖ノ島の海岸でスッポンポンになって身を清め、巨岩の陰や岩上に設けられていた祭場をじっくり見学させていただいたことを思い出す。登録自体は良いことでもあるが、その根拠についてはいかがわしさが満載、といった状況だ。
何が「いかがわしい」か、というと、朝鮮半島や中国に通う海路の安全や武勲を祈ったのは誰か、そしてそれはどういう「権力」だったのかという問題だ。
2016年1月に出された文化庁の「推薦書」を見たが、実に欺瞞に満ちた内容だった。文化庁はユネスコに対して英文の推薦書を提出。和訳したものを一般にも公開している。だが、英文と和訳の内容は、推薦する根拠についての記述がまったく異なっている。
和訳には誰が祭りをしたかについて次のように述べている。
日本の古代国家は沖ノ島の神を非常に重要な交流の航路の守り神としたため、沖ノ島には当時の先進技術で作られた重要な船載品が数多く奉献された。この古代祭祀の変遷は、日本の中央集権国家形成期における東アジアの活発な対外交渉の実態を反映する。
ここには従来のいかがわしい古代史を市民に説いている国史学者や考古学者がいう「大和朝廷」の文言はない。これならまあ何とか事実に近いことを述べていると言ってよい。問題は「日本の中央集権国家」とは何という「国家」なのかだ。
英文ではこの疑問に対してはっきりと「Yamato court(大和朝廷)」と記している。そして「大和朝廷」は3世紀に列島の中央で誕生した。朝鮮半島の高句麗(こうくり)や新羅(しらぎ)、百済(くだら)と競い合った。・・・白村江の戦いを戦ったのは、大和朝廷と百済連合軍と唐、新羅の連合軍だ、などと記している。
この英文の記述が大ウソであることは『魏志』から『後漢書』、『晋書』、『宋書』、『隋書』、『旧唐書』など一連の中国史書を読めばはっきりわかる。これらの史書は、古来日本列島を支配していたのは「大和朝廷」であるとは一言も言っていない。
少なくとも7世紀終わりまで列島の盟主であったのは「倭(ヰ)」という国名の国であったと記している。そして『(旧)唐書』は、倭国は「伊都(倭奴)国」以来ずっと[t1] 列島の盟主であったことを記し、「大和朝廷」を表す「日本」は「倭国の別種」であったと記している。
唐は東アジアの盟主を自認していた。それに逆らって「対等」を言い出した「倭国」をつぶし、しっぽを振る「大和朝廷」への政権移譲を助けた国である。列島の内情はつぶさに知っている。
もちろんこの「倭」は中国の中華思想にもとづく卑字であるから、倭国自体は「倭」でなく、「一国」(ナンバーワンの国)とか「井(いい)国」、あるいは「伊国」みたいな字を使っていたのではないかと考えられる。
ちなみに「井(いい)」は、人の集まる所とか、掟(おきて)、易では、君子が徳を固く守っているさま、という意味もある。北部九州には今でも「井さん」がたくさん住んでおられ、神武天皇との関係が伝えられている。NHKの大河ドラマ「井伊直虎」の「井伊」もこの一族だ。10年ほど前中国・西安で見つかった墓誌に記された「井真成」ももちろんこの一族である。
「伊」は、「尹(いん)」にも通じ、治める人をも表す。日本列島を生んだという神話の主伊弉諾尊(いざなぎの命)、伊弉冉(いざなみの)尊の名前にもこの字が使われている。
◇使い分けして市民をだます
ちょっと脱線したが要するに、文化庁の「推薦書」は、何も知らない外国に対しては平気で大ウソのいかがわしい古代史を説き、多くの人が本当の古代史を認識しつつある国内向けには「大和朝廷一元論」を引っ込めた、ということだ。二枚舌である。
もし今頃、「大和朝廷一元論」を堂々と述べればどうなるか。それは目に見えている。「ウソつき」「市民をバカにするのもいいかげんにしろ」と罵声を浴び、信用はがた落ちになる。世界遺産登録どころではなくなる。裁判沙汰にもなるだろう。文化庁はそれが分かっているから「二枚舌」を使ったと思われる。市民は英文までは読まないだろう、と。
「二枚舌」に乗っかったかどうかはわからないが、僕が知る限り祭りを行っていたのは「大和政権」であると報じたのは地元の西日本新聞だけだ。この新聞社の文化財担当記者の程度の悪さがしのばれる。
◇祭りを主宰していたのは本当に宗像一族か?
当ブログを含め、これまでるる述べてきたように祭を主宰していたのは中国王朝との交流と朝鮮半島諸国への攻略を繰り返していた「九州倭(ヰ)政権」であることは間違いない。いかがわしい国史学者らは「九州年号」の存在にひたすら頬かむりを続け、一部の考古学者は「定説が疑われる様な遺跡にはコンクリで蓋をした」「定説に反する資料は出さない」などと言い、まさしく「詐欺行為」で市民をだまし、「定説」を守ってきた。
そんな「学者」らが「推薦」する世界遺産の意義をそのまま受け取られるだろうか。もちろん危うい。
宗像大社は古来三女神を祀ってきた、と「推薦書」は書いているが、本当だろうか。ある時点から現在はその通りである。しかし僕が知る限り、元来三女神を奉際していたのは大分県の国東半島の海部一族とか、筑後の水沼(みぬま=水瀦・水間)氏一族である。
『日本書紀』神代紀の一書に「即ち日神の生みませる三柱の女神をもって葦原の中国の宇佐の島に降ろしまさしめ給う。・・・これ筑紫水沼君が祭る神これなり」とある。
水沼君一族と宗像一族がどういう関係にあったかはよくわからない。
宗像郡については万葉集にこんな歌が掲載されている。
大汝(おおなむち)、少彦名(すくなひこな)の神こそは 名づけそめけめ名のみを名児山と負ひて
吾が恋の千重の一重も慰めなくに
(天平二年、冬11月大伴の坂上の郎女の筑前国宗形郡名児山を越えるとき作る歌一首=巻6 963番)
この歌から宗像大社は元来大己貴と少名彦を祭る神社だったのではないか、と考える人もいる。大己貴(大穴持=大国主?)や少名彦が元来いたのは山陰の出雲ではなく、北部九州の「出雲」であったらしいことを踏まえての考えだ。
日本の古代史はこれまで様々お知らせしてきたように、ウソと間違いにあふれている。ひょっとして8世紀初めに「九州倭政権」から「大和政権」への政権交代があったころ、伝統の神を祀る神社が変わったことも考えられないことではない。
いずれにせよ世界遺産への登録、という晴れがましい出来事が、いかがわしく事実とは違う古代史の糊塗に使われないよう、きびしく見守っていく必要がある。(2017年7月)