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スポット139(後) 内倉武久氏のブログ 「ウッチャン先生の古代史はおもろいで」のご紹介

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スポット139(後) 内倉武久氏のブログ 「ウッチャン先生の古代史はおもろいで」のご紹介

20171025

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


この問題に関しては、ひぼろぎ逍遥の特番として、スポット100 宗像沖ノ島世界遺産登録といった愚行が半潰れになって多少はほっとした!20170512 を書いていますので関心をお持ちの方はお読み頂きたいと思います。

なお、内倉先生は“宗像の世界遺産登録はいいのだが…”とされていますが、当方は、宗像沖ノ島祭祀は九州王朝のものであり、決して宗像族のものではないとしており、併せて、ユネスコの世界遺産登録についても、何故、列島の文化財をユネスコといったヨーロッパの不良貴族共に委ねなければならないのかと考えていますので悪しからず。以下、一部を再掲際しておきます。



と、ここまでは見苦しいばかりの町興し、村興し、世界遺産登録…肖り運動の文化破壊、民族の誇りの放棄への危惧の話でしたが、ここからは各論としての宗像沖ノ島問題に踏み込むことになります。

 この宗像、沖ノ島世界遺産登録への運動を推進したのは言うまでもなく宗像市と宗像大社でした。

 それは、宗像市のHPをご覧になればお分かりになるでしょう(後段に一部を掲載)。

それも大風呂敷を広げ、福津市や古賀市などもダシに使い無理やり巻き込みながら、おらが町の振興のためとばかりになりふり構わず突き進んだのでした。まさに、宗像主導でついでにお零れを回すので協力しろと言わんばかりの印象を受けたのは当方ばかりではなかったでしょう。

このため、宮地嶽神社の巨大円墳の被葬者も宗像徳善君とかその縁続きの人物であり、宮地嶽神社も宗像の君の配下の一族なのだ!などと言ったとんでもない大嘘が垂れ流される始末だったのです(○ダニとその一部エピゴーネン)。

そもそも、現在、沖ノ島がみあれ祭として宗像族、宗像大社が中心となり行なわれているとしても、これが沖ノ島の深層としての古代祭祀まで遡るという証拠は一切ないのであって、事実、初期段階から沖ノ島の発掘調査を行ってきた小田富士雄氏は近年その見解を修正しているのです。

まずは、沖ノ島祭祀について小田富士夫氏の修整説を見て頂きましょう。

記事の内容は専門的で俄かには分かりづらいのですが、岩上祭祀から岩陰祭祀、半岩陰半露天、露天へと変遷してきた古代祭祀において、最も重要な後期の岩上祭祀に当たる沖ノ島21号祭祀遺跡の遺物と同時期の大首長墓(大王級)大型古墳である福津市勝浦峰の畑古墳(100m超前方後円墳)との間に対応が認められるとの見解が提出されているのです(20121026日西日本新聞)。


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このことは、長らく元九大(実は国士舘)の○ダニ氏などが主張してきたところの(最近修整せざるを得なくなったようですが)、沖ノ島古代祭祀だろうが、宮地嶽巨大古墳だろうが、何でも「近畿大和朝廷の傘下=影響下にあった地元土豪(ここでは後の宗像徳善の君に繋がる一族)が関係している」などといったほとんどデマに近い非常に怪しげなものであったことが鮮明になった瞬間でもあったのです。

古来、最低でも福津市のエリア(本来は神湊以南)は志賀島の安曇族のエリアと言われており、相島も含め、新原・奴山古墳群(津屋崎古墳群)に宮地嶽巨大古墳、さらには、昨年馬具一式が発掘され話題となった古賀市の船原古墳なども、全て宗像徳善の君に繋がる一族などのものではなく、安曇族を支配下に置いていた一族のものであるという(安曇族の大王の配下といった話もありますが、逆に陸軍に支配された海軍陸戦隊にさえ見えるのです)地元に通用する普通の考え方が再考できることになってきたのでした。

福津市勝浦峰の畑古墳(100m超前方後円墳)との間に対応が認められるとの見解が提出されている事は極めて衝撃的で、沖ノ島の古代祭祀は福津市、古賀市から福岡市にかけての人々が祭祀を行っていた、少なくとも志賀島側の海人族(安曇族)が関与していた可能性を示すものだったのであり、既に鼻息の粗かった沖ノ島宗像族祭祀(権)圏説が早くも崩れ去っていたのでした(実際は沖ノ島は九州王朝の宝物庫だったのです)。


世界遺産登録活動

 「沖ノ島を世界遺産に」という声は2002年に行われた沖ノ島物語実行委員会による「宗像大社大国宝展」をはじめとする市民の活動から高まり始め、世界遺産登録を目指す動きへつながりました。そして沖ノ島(宗像大社沖津宮)、沖津宮遙拝所、宗像大社中津宮、宗像大社辺津宮、新原・奴山古墳群から構成される「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」は20091月にユネスコの世界遺産暫定リストに記載されました。

現在、宗像市、福岡県、福津市、市民団体、経済団体、文化・教育団体等で構成する「宗像・沖ノ島と関連遺産群」世界遺産推進会議を設立し、地域の人々によって受け継がれてきた遺産を人類共通の遺産として未来の世代に引き継いでいくことを目的に世界遺産登録活動に取り組んでいます。


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 そもそも、このような怪しげで根拠薄弱な背景の元動いていたのが宗像大社と宗像沖ノ島祭祀だったのですが、これに関する疑問は既に当方のグループばかりではなくネット上には飛び交っており、当然ながら諮問する側も多くの情報は収集しているはずで、ささやかながらも当方の見解も拾っているはずなのです。もしそうでなければ、表面の風評しか拾えない無能なウォッチャー、アナライザーとしか言いようがないのです。

恐らくこれらの事が文化庁、ユネスコにも多少は伝わったはずであり、当然、ダシとして利用されただけの形の古賀市、福津市の不満も伝わっていたはずなのです。

こうして、危うい事を避ける官僚の自己保身が働いたか…無難な沖ノ島祭祀のみの登録へと動いた可能性も考えられるのです。

ただ、IOCやFIFAのように一旦は脅しを掛け、結果、賄賂をよこせと言うメッセジである可能性も否定できない事から、最後まで、どんでん返しも考えておく必要はあるでしょう。

所詮は日本の伝統も文化も知らない、ましてや、列島の王権引いては古代史など一切知らない外国勢力の格付けやアドバイスなどどうでも良い事なのです。

冒頭で述べた如く、日本古来の文化伝統とその物証としての歴史的遺産をユネスコ如きのキリシタン伴天連の不良貴族の末裔どもに認定して頂くと言う奴隷根性は置くとしても、沖ノ島に限定された認定勧告は常識的な落としどころといったところで(本当はこんなくだらないミシュランまがいの格付けなど辞めるべきなのですが)、今のところ、表面的にはFIFAやIOCの様な賄賂話はなかったことから比較的クリーンな決着といった事になるのかも知れません(繰り返しになりますが、まさか賄賂をよこせと言うメッセジではないでしょうから…くれぐれも…両者の動きに注目し監視を続けようではありませんか)。

なお、これまで何度となく書いていますが、宗像大社の本来の祭神は大国主命であり、近畿大和朝廷(藤原)が捏造した現出雲は九州からの国譲りの結果成立した新出雲としてのテーマ・パークでしかないのです。

だからこそ、志賀島、宗像の沖に沖ノ島があり、現出雲の沖に隠岐の島があるのです。

これらの話については、ひぼろぎ逍遥 177 大国主を出雲の神様と考えておられる方に対して僭越ながらも…他多くを書いていますので内部検索を行い拾い読みして下さい。

なお、ネット上の中にかなり重要な証拠に近いものが発表されています。I女史作成のパワー・ポイントデータからご覧いただきましょう。


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「万葉集」に証拠が残っていたのです


坂上郎女は京に帰るとき宗像の神(おおなむち・少彦名)に祈りに立ち寄った。

この歌からわかるのは、ここでは宗像神は三女神ではないこと、勝浦まで船で来たこと(道に上がり)、名児山は昔からその名がついていたこと、その名児山と聞いても自分が我子を思う心は深く何の慰めにもならないと歌い上げていること。(伊藤)


大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ、生没年不詳)は、『万葉集』の代表的歌人。大伴安麻呂と石川内命婦の娘。大伴稲公の姉で、大伴旅人の異母妹。大伴家持の叔母で姑でもある。『万葉集』には、長歌短歌合わせて84首が収録され、額田王以後最大の女性歌人である。

13歳頃に穂積皇子に嫁ぐが霊亀元年(715)に死別。一説に宮廷に留まり命婦として仕えた。この頃首皇子(聖武天皇)と親交を持ったらしく、後年個人的に歌を奉げている。 その後に藤原麻呂の恋人となる。しかし、麻呂とも早くに死別し、養老末年頃、異母兄の大伴宿奈麻呂の妻となり、坂上大嬢坂上二嬢を産んだ。しかし、彼とも33歳頃に死別したと思われる。その後は、任地の大宰府で妻を亡くした大伴旅人のもとに赴き、大伴家持大伴書持を養育したといわれる。帰京後は佐保邸に留まり、大伴氏の刀自(主婦)として、大伴氏の一族を統率し、家政を取り仕切ったのだろう。その作風は多分に技巧的でありながらも、豊かな叙情性をも兼ね備えている。しかし、彼女の数多い男性との相聞歌は、恋の歌になぞらえて、彼らへの親しみを表したものであったり、実体験ではないのではないかとも言われている。

坂上郎女の通称は坂上の里(現奈良市法蓮町北町)に住んだためという。 ウィキペディア」による

 大友坂上郎女という重要人物の証言だけに非常に重い資料と言えるでしょう。最低でも、宗像大社の祭神は三女神などではなく出雲神話の神とされる「大国主命」「少彦名命」だったのです。

 出雲神話の舞台は九州だったのではないか?とした仮説は俄かに信憑性が高まってきました。

 きっかけは飯塚市桂川町に「出雲」という交差点があることに気付き、凡そ出雲神話など縁がないはずの九州各地に多くの大国主祭祀が拾えたからでしたが、さらに、日向の一の宮である都濃神社の主祭神が大国主であることや、宗像市、筑前町、熊本市、日置市、鹿児島市…にも大国主命を主神とする神社が存在している事を確認して行ったからでした。どうやら、「出雲」隠し「九州王朝」隠しの入口に入ってきたようです。今後とも、出雲神話の痕跡を探ることになりそうです。


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