491 安産の里無津呂の神々 下無津呂の乳母神社(中) ジネコ神社協賛プロジェクト ⑤
20170609
太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久
通説、百嶋神社考古学を問わず、この上下無津呂地区が白族系の集落である事がその祭神からある程度まで推定できます。
そこで、乳母神社が存在している意味を考えたいのですが、前述の白族でも、橘氏=紀氏とは豊玉彦(ヤタガラス)の後裔を意味しており、この橘一族こそ九州王朝の妃を輩出する一族であり、彼等こそが命婦(ミョウブ)制を敷き乳母制度を置いていたものと考えられるのです。
まず、古くは中国の周王朝にまで遡る命婦制から考えて見ましょう。
県犬養三千代の子が葛城王から改名した橘 諸兄
橘氏
姓の代表的なものの一つとして源氏・平氏・藤原氏とともに「源平藤橘」(四姓)と総称されている。
飛鳥時代末、県犬養三千代が元明天皇から「橘宿禰(たちばなのすくね)」の氏姓を賜ったことに始まる。その子・葛城王が橘諸兄へ改名した後、諸兄の子孫は橘氏を称した。諸兄は初め「橘宿禰」の姓を受け、その後「橘朝臣」の姓を賜与された。平安時代に入ると、橘氏の多くは「橘朝臣」を称した。
平安時代中期まで代々公卿を輩出したが、その後は橘氏公卿が絶え、以後振るわなかっ橘氏は、県犬養三千代(橘三千代)が姓を賜ったのち、子の葛城王(橘諸兄)・佐為王(橘佐為)も橘宿禰の姓を賜ったことに始まる。
県犬養三千代は天武朝から命婦として仕えたほか文武天皇の乳母を務めたともされ、後宮の実力者として皇室と深い関係にあった。三千代は初め美努王の妻となり、葛城王や佐為王を生んだ。694年に美努王が大宰帥として九州へ赴任すると、代わって藤原不比等の夫人となり、藤原光明子(光明皇后)らを生んだ。和銅元年(708年)11月25日、元明天皇の大嘗祭に際して、天武天皇治世期から永く仕えてきた三千代の功績が称えられ、橘の浮かんだ杯とともに「橘宿禰」の氏姓が賜与された。
橘三千代が天平5年(733年)に没すると、同8年(736年)11月11日に三千代の子の葛城王と佐為王が橘宿禰の氏姓継承を朝廷へ申請し、同月17日に許された。葛城王は橘諸兄と改名し、佐為王は橘佐為を称した。諸兄は既に天平3年(731年)から参議に就いて議政官(公卿)を勤めていたが、天平9年(737年)には大納言へのぼると、翌10年(738年)には右大臣へ、同15年(743年)には左大臣へ昇進し、聖武・孝謙両天皇の治世期に太政官首班として政治に当たった。天平勝宝2年(750年)正月16日には朝臣の姓を賜り、これ以降、諸兄は「橘朝臣」を称した。橘氏の歴史の中で最も権勢を誇ったのがこの諸兄の時期である。
ウィキペディア(20170609 17:14)による
神水川と書き「オシオイ川」と呼びます
この乳母神社を考える時、①この制度を知っていた人々が古来住んでいた事から(もしかしたら九州王朝の皇統を守るための皇子の養育所が存在していた…という意味での)この地に乳母神社が存在していたのか?それとも、②神代勝利(九州王朝の後裔久留米の現高良大社の大祝職であった旧鏡山家)の一族が深い縁故を持ったことから命婦制に近いものが置かれ、乳母神社が創られたのか?という問題に突き当たります。
これについては容易には結論が得られないのですが、この問題がどちらに転ぼうとも神水川が注ぎ、乳母神社、子安神社に塩甞地蔵までが複合的に存在するという事実は、この地に何らかの妊娠~出産~養育への組織立った機構が存在していた様に思えるのです。
筑豊の飯塚に大分八幡宮(福岡県飯塚市大分1272)があります。
この地は「ダイブ」と読まれています(恐らくこれが大分県の語源とも考えていますが…)。“我々九州王朝論者にとってはこれを倭王武の上表文と結び付け、九州王朝説の根拠の一つとなっている。 文中に「窃かに自ら開府儀同三司を仮し」とあり、これを三公三司(太師・太傅・太保)に倣ったと考える。魏は「師」の字を忌避して「太宰」と改めたから、太宰府市・飯塚市大分・小郡市大保をこれに充てる。” 「大分八幡宮の口コミ」(ある九州王朝論者のコメント)
宇佐八幡宮の元宮の一つとされ、博多の箱崎八幡宮自体は大分八幡宮の本社(本家)移転なのであり、箱崎は単なる御汐井(オシオイ)汲みのところだったのですが、この大分宮も妊娠~出産~子育に関わる場所だったはずなのです。
それを物語るかのように、参道入り口の道路の反対側を流れる側溝は今でも汐井川と呼ばれているのです。
そうです。「太傅府」とは、古代の九州王朝の皇統を守るために準備された妊婦を受入れ、出産させ、養育する場所だったのであり、それ故に「御汐井汲み」が必要な場所だったのです。
高良玉垂命(開化)の後に神功皇后は九州王朝の天皇であった可能性もあり、神功皇后伝承が色濃く残るこの地に九州王朝の養育機関が存在し、8世紀、近畿大和朝廷の時代となり単なる八幡宮に変わった可能性が高く、それ以前はと考えると、やはりこの富士町の無津呂にあった可能性を捨てられないのです。
九州王朝の後裔の一氏族である神代勝利が高良山の奪回を思い、山内(サンナイ)に立て籠もり龍造寺と一大決戦を行ったのですが、彼らも紀氏=橘一族であったことから、一族の記憶としオシオイ川に「神水川」という表記を充て、乳母神社を置いた可能性もあるのですが、彼らが山内に立て籠もった時期が、16世紀であったことを考えると、それ以前(といっても七世紀以前の話ですが)に既に養育機関が存在した痕跡を考えざるを得ないのです。
ここにも古代九州王朝の養育所があったのです
大分八幡宮 カーナビ検索 福岡県飯塚市大分1272 ℡0948-72-0621
大分八幡宮参道正面に残る汐井川の痕跡