492 安産の里無津呂の神々 下無津呂の乳母神社(下) ジネコ神社協賛プロジェクト ⑥
20170609
太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久
基本的に「肉食動物は内臓を捕食することによりミネラルを確保できますが、草食動物は岩の隙間から染み出す鉱泉や温泉の場所を知っていなければ生きて行くことはできません。
このため猟師はそのような場所を子孫に伝え、効率的に待ち伏せして獲物を得ていたのです。
このことから、温泉や鉱泉の効能や安産が結び付けられるのであり、この神水川の水系のどこかにそのような場所があり、海まで行かなくても十分なミネラルが得られていたのかも知れないのです。
乳母神社参拝殿に置かれた昭和10年撮影の同社遠景
この淀姫神社周辺に於いて、良医久保田史郎氏から「何故、神水川と書き、“オシオイ川”と呼ばれているのか、さらには、何故、乳母神社があるのか?」と問われた時に、この山間僻地での塩(必ずしも食塩の意味ではない)の重要さと、妊娠、出産、育児にかかわるミネラル塩の重要さが直ぐに頭に過りはしましたが、古湯温泉からさらに十キロ以上も奥に入ったこの地の辺りに具体的な古い鉱泉場の存在を知る由もなくそれ以上は思考が伸びませんでした。
もちろん、通常の知られた温泉場ばかりではなく、梅毒、淋病が横行した時代には、方々に瘡湯(かさゆ)があったし(淫売買って鼻が落ちる…)、古くは、子宝が授かるお堂の水とか、沸かし湯に遊女まがいのものを置いた怪しげなものまでが至る所に存在していました。
もちろん、それらの全てに科学的(医学的)な効能があったはずはないのですが、太古より長年培われ、土着の経験によって淘汰された効能といったものが確実に存在していたと考えられるのでした。
しかし、明治以後、ヨーロッパ流の保健衛生の導入と温泉法(S23)によるある種の仮定に基づいた線引きによって需要を奪われ、それらのものから排除され零れ落ちていった冷泉、鉱泉(ここでは法的な意味ではない)といったものも数多く存在していたのでした。
無論、これらの存在についての知識は土地のものでなければ解らないのですが、古老というものは実に有難いもので、今でも十人ほどに聴けば、まだ、彼らが子供の頃、彼らの祖父母辺りから聞いた話といった百数十年前まであたりの記憶が回収できるものなのです。
従って、そうした地域の知識を持たない者が限られた土地を云々することの危うさは、この一事でも明らかですが、子安神社、神水(オシオイ)川、乳母神社、塩甞め地蔵の三~四点セットは、それだけで、ミネラルを意識させるには十分過ぎるものでした。
始め、この点に関する聴き取りをしたものの、限られた範囲でしかなかったことから分からなかったのは当然でしたが、その後、上無津呂の淀姫の千五百年祭、下無津呂の乳母神社のお祭りの注連縄造りから直会の準備にまで参加し色々な聴き取りをしてくるうちに、ようやくその核心に近づくことができました。
それは、例の良医先生に”乳母神社の前で泳いでいたか?”と問うたことから始まりました。
およそ半世紀前の下無津呂に、海などというものは一日掛けて泊まり込みでもめったには行けないものであり、泳ぐと言えば川以外にはないのでしたが、あれほど冷たい川の中で、熱水とは言わないまでも”多少とも暖かく感じる湯水が沸くところがあった”と話しはじめられたのでした。
”おいおい、そんな話はもっと早く言ってもらえば…”というのが本音でしたが、このミネラルの話はそれなりの関心を持っていないと思い至らないのが当然であり、まずは、核心に迫るには場数が必要という良い例だったのです。
当然ながら、ほんの五十年前までは、ここでも牛か馬で田を起こしていたでしょうが、馬や牛を飼うにも塩が必要で、古代に於ける海岸部の官牧(かんまき)などは問題ないとしても、それなりのミネラル塩が染み出すような岩盤の割れ目とか、塩気のある沼地といったものがなければ牛馬の繁殖などはできないのが道理でした。
このようなことは一般の知識からは既に消え失せていますが、地区に、神水川、オシオイ川、乳母神社の三点セットがある以上、そのような場所が地区のどこかにあった可能性はかなり高いはずなのです。
試みてはいないが、まずは、小字名などを調べれば、水場、宇土手、潮、塩浸し…といった類のものが拾えるのかもしれません。
話によると、現在の神水川には乳母神社本殿の裏にそれほど大きくはないものの渕があり、そこが隣の真那古集落も含めた水場だったようです。
泳いでいると直ぐに分かるのですが、温水が沸いていたというのでした。当然ながら、それ以外にもそういう場所があると考え、祭りの準備をしていた氏子の数人に話を聞いて見ました。
“雪の日にここだけは早く融けるとか、霜が降らないとかいった場所はなかったか?”と問うと、間髪入れず、川向うのテニス・コート(久保田医師のご本家)のところ…との答えが返ってきた。
まだ、このような知識が保持されているということは、水田にした時の米の収量に直結する重要な情報であるからであり、もしかしたら大昔はこの辺りからかなりの高温泉も、出ていたのかも知れないのです。
嘉瀬川は花崗岩質の岩盤を切り裂いて佐賀平野に流れ下っています。今でも下から、川上峡温泉、熊の川温泉、古湯温泉が多くの湯客を集めています。
もちろん、川のそばに泉源が集中しているのですが、ここに限らず、筑後川水系においても、川のそばに温泉が集中していることは、原鶴、筑後川、日田、天瀬、杖立を持ち出すまでもないでしょう。
温泉の形成には色々なケースがありますが、多いものは地殻の割れ目に雨水が流れ込み、地下のマグマと地下水となった水が接触するものです。
そもそも、地表にある川も地殻の割れ目(大地の罅割れ)に雨水が流れ込んだものですし、川沿いに温泉が多いのはそのためなのです。
こうして、地下のマグマと接触することにより地表に現れることになった金属を含む多くのミネラルが、山間に住む草食動物や僻地に生きる人間にも供給されるのです。
温泉やミネラルを含んだ冷鉱泉は、まさに、山に住む人生にとってこそ霊泉となったのです。
淀姫神社の注連縄作り藻塩のなごりか?
現在、明確な形では確認できないものの、この真那古から無津呂に掛けての一帯には、日常の食生活に必要な食塩はともかくも、人間と家畜の再生産に関わるミネラル塩の供給には有利な土地であったのかも知れません。
七一三年に所謂「好字令」が出され、以後、地名には好字二字とするとされることになりますが、どのように見ても「真那古」「無津呂」は、それ以前に成立した古い集落に思えます。
これは、同時に、上無津呂の淀姫神社の創起が一五〇〇年前に遡ることの信憑性をある程度示しています。
最低でも、あの集落の水を飲んでさえいれば、「子宝に恵まれ、安産で、丈夫な子が育つ…」ぐらいの話は、積み重ねられた経験によって確認され、本当に優れた水であったならば、産婆(取り上げ婆)のネット・ワークによって肥前一国ぐらいには直ちに広がっていたことは間違いないでしょう。
祭りの準備をしていて色々と気付いたこともありました。それは、民俗学的テーマとなることからここでは避けますが、もう一つ、海水を入れた竹筒に海藻を被せたものが準備されていました。
それは、まさしくこの乳母神社意味を強く象徴しているものだったのです。
海水と藻となると、直ぐに思い浮かぶのは、藻塩(モジオ)意外にはありません。
「万葉集」に限らず、古今、新古今などにも多くの焼塩が登場します。まずは、身近なところから(巻3-278)、
「志賀の海女は藻(め)刈り塩焼き暇(いとま)なみ櫛笥(くしげ)の小櫛取りも見なくに」
「志賀島の海女は海藻を刈り、塩を焼き休みなしに働いていることから櫛箱の櫛を取り出して身繕いする暇もない」
このように、海から海藻を採り、天日で乾かし簀(す)に積み上げ、何度も何度も海水を汲み上げては、掛け、塩の濃度を上げて火で焼く作業を「藻塩焼く」という、古代の山村の集落においては、いかに、藻塩が重要であり貴重であったかが分かる瞬間でもあったのです。
ベージュ色の藻煎りの塩は、ヨウ素を含み、より一層生体の維持に重要な資源であったことが分かりますが、ヨードをはじめ、カルシウム、カリウム、マグネシウムと海藻に溶け込んだ豊富なミネラルをいかに山村の民が求め、長野峠を通じ、山内への塩の供給路の中継地としての無津呂の地の重要性、もしくは支配性が見えたのでした。
乳母神社の神殿への通路 塩井汲みの竹筒と海藻が残されていますね