493 みやま市高田町江ノ浦の淀姫神社について
20170610
太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久
五年ほど前に淀 姫(ヨドヒメ)という長文をネット上に公開していますが、これを公開した後に、福岡県みやま市の旧高田町江ノ浦に淀姫神社があることに気付きました。
最近でも、みやま市山川町甲田1949 に未踏の淀姫神社を見出だしたことから、改めて調査をやり直す必要を感じているところです。
この背景には、佐賀県の嘉瀬川以西が淀姫神社のエリアであるとの思い込みがあったからです。
思えば、京都の伏見に與杼(ヨド)神社(京都市伏見区淀本町167 075-631-2061)があり、それにちなんで新大阪の横を流れる川が淀川と呼ばれているのですから、酷い思い込みであった事を思い直しているところです。一応、伏見の淀姫神社も確認のため掲載しておきます。
與杼神社由緒
與杼(よど)神社は、淀・納所・水垂・大下津の産土(うぶすな)神として鎮座しています。
祭神は、中央に豊玉姫命(トヨタマヒメノミコト)向かって右側に高皇産霊神(タカミムスビノカミ)向かって左側に速秋津姫命(ハヤアキツヒメノミコト)の三柱であります。
この神社は、僧の千観内供が応和年間(961年~963年)に肥前国(佐賀県)佐賀郡河上村に鎮座の與止日女(ヨドヒメ)神社より、淀大明神として勧請したのに始まるとある。しかし、延喜式(901年~)第9巻「山城国乙訓郡」中に、與杼神社の名がある処からみて、応和年間より以前に鎮座していたと考えられます。
元の鎮座地は、今の宮前橋の下流、桂川右岸の川原になっているあたりで、古来よりこのあたりを「大荒木の森」と呼ばれていた。(当時は、ここを乙訓郡水垂村といった)
桂川河川敷の拡幅工事が実施されることになったので、本殿以下の建物は、明治33年5月24日付の神社移転許可により、明治34年7月移転工事に着工、翌年5月完成、明治35年6月21日、神社のすべてが現在の淀城址内に遷座されました。
なかでも本殿・拝殿は明治年間に移築・遷座が行われたにも拘らず、良く当初の建築様式を保存していたので、昭和46年6月22日(同年3月26日内定)に本殿(本殿内の木造狛犬一対を含む)と拝殿の二棟が国の重要文化財に指定されました。
しかし、残念ながら本殿は、昭和50年8月5日午後4時30分頃、未成年者達の花火(飛翔性花火)遊びにより国指定の貴重な重要文化財は全焼してしまいました。 同社HPによる
高田町の淀姫神社です。
祭神ですが、ここでも淀姫が見当たりません。社名に「淀姫神社」とあることから、昔は淀姫さんが祀られていたのではないか…?といっただけの事になりそうです。
ただ、この神社の強烈な個性といった物が一向に見えてこないのです。
上の「福岡県神社誌」(下巻115p)をご覧ください。明治6年に村社となった時点で祭神が変えられたのではないかと思うのですが、宮司にヒアリングも試みていない事から軽々には言えません。
祭神は、豊玉毘賣命(豊玉姫)と天兒屋根命(阿蘇高森草部吉見)に住吉三神底、中、表(高良玉垂命、贈る崇神、ウガヤフキアエズ)となっており、淀姫神社の一般的な祭神である淀姫や玉依姫は片鱗も認められません。
淀姫神社の名だけは残っている事から、明治の村社昇格前かもっと古い段階で淀姫は隠されたのではないかと考えられます。では、元はどのような祭祀形態だったのでしょうか?
境内神社として稲荷神社(天宇受賣)、八釼神社(建速須佐之男命)、高良神社(高良玉垂=開化)、大日神社(大日孁貴」)があります。
少しバラつきが大きくて見当が付きません。
ただ、ここでも社殿の造り方から元は高良神社だったのではないかと考えてしまいます。
この結論を出すのは、同一エリアのみやま市山川町甲田1949 の未踏の淀姫神社を確認した上で再評価させて抱きます。現段階では、ファクトが少な過ぎて、全く絞り込みができないのです。
しかし、社殿、境内は豪華そのものの造りであり、みやま市瀬高町河内の玉垂宮併設現仁神社を彷彿とさせます。