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503 代行参拝ならぬ代行調査で踏んだ神社 “岡山県井原市の縣主神社” 

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503 代行参拝ならぬ代行調査で踏んだ神社 “岡山県井原市の縣主神社” 

2017013

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 二十歳も年上の従姉弟がICUに入ったことから500キロ近い行程により山陽自動車道で一路倉敷市に向かいました。倉敷の巨大病院に一時間はいたのですが、どうする事もできません。

 帰りは、喧噪の山陽道から九州王朝の古代官道が通っていたと考えている総社市、矢掛町、井原市ルートで広島方面に向かいました。

 十年も前、この一帯の神社を数社見て回ったことがあったのですが、当時の目的は矢掛町の天子宮(武荅天子宮:小田郡矢掛町小田5634)でした。

 今回は始めに西隣の井原市の縣主神社に向かいました。


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ご覧の通り ある時代には島か岬状の土地の先端に置かれた神社であり穀倉を睨むものだったようです


 この神社を参拝することにしたのには理由があります。

 それは連携サイト503-2のK氏から、「倉敷に行くのなら井原市の縣主神社に寄って欲しい」との依頼を受けたのでした。

 理由を聴くと、常陸の国ふしぎ探検隊のエリアである“茨城の「イバラ」は岡山の井原市の地名移動と考えられるから、まず、その中心地である井原市の縣主神社に寄って欲しい…”といった趣旨だったのでした。

 それには鼻から同意でした。矢掛町の武荅天子宮に訪れた時代から、ここから総社に掛けての一帯が古代岡山(吉備)の臨海部の中心地であった事を実感していたからでした。

 岡山県の井原(イバラ)市と茨城(イバラギ)県の中間には、大阪府の箕面市と高槻市に挟まれた茨城市があることを思い起こして下さい。

 恐らくこれこそが四道将軍の後裔の移動したルートであろうと考えているのですが、これは仮説も仮説の段階です。


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古代の一等地とも言うべき、岡山倉敷一帯には児島や水島に象徴される多くの島地名が拾えます。

海の後退によって最初の巨大穀倉となった場所が総社からこの一帯と考えていますが、この写真にも現れている様に、山辺に集落が成立し、古代の海か沼地だったところが水田に変わっているのです。


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掲示板には祭神 歴代縣守(あがたもり・あがたぬし)初代縣守鴨別命~8代縣守笠 三枚臣とあります


掲示板には祭神 歴代縣守(あがたもり・あがたぬし)初代縣守鴨別命~8代縣守笠 三枚臣とあります。

 上賀茂、下賀茂の大幡主系の県知事がいたことが良く分かります。


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鳥居の神額には「天照神」と書かれている様に見えるのですが保留します


縣主神社は岐阜県美濃加茂市(旧加茂郡太田町)や岐阜県加茂郡川辺町にもあるのですが、「縣主」の「主」(ヌシ)とは、そもそも天御中主、大幡主、大国主、大物主、経津主…と大幡主(白族)系の尊称が付されている事から、県知事に相当する人物に白族系の人物が送り込まれていた可能性を感じるのですが、どうでしょうか?

 多少急傾斜の参道階段を登りきると、山上地のため直ぐのところに参拝殿が置かれており、奥行きがないため自然と境内摂社に誘われます。

 右手には、まず、神殿と一体になった荒神社、次に参拝殿付の神殿を持つ厳島神社が、さらには小さな水分社が置かれていました。


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創建年月日不詳だが、雄略天皇の御代に創まるという。口碑では祭神鴨別命が県守として居をこの地に占め給うたので、その徳を慕い県守大明神としたと伝えている。むかし、この地を県の郷と呼んでいる。明治四十四年無格社八幡神社を合祀した。大正九年五月神饌幣帛料供進神社に指定された。

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「無格社八幡神社を合祀した」とありますが、大きな境内摂社の八幡社は後付であることが分かります。


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地元のものと思われる 木之子の里の「縣主神社」にはかなり重要な情報が含まれています。


「鴨分命」伝承(写真上は神社前の「稲木川」情景) 雄略天皇の時代、鴨分命はこの地に居を構えて鳴尾に棲む虬(みずち)を退治して住民や旅人の難渋を救われた。その功績を頌え、仰ぎ慕って里人が神に祀った。

解説によれば雄略=1,500年前だとのこと。 縣主は「あがたもり」or「あがたぬし」の二通りの訓み方

があるが、現在では後者。鴨分命に始まり8世紀までの間、歴代の縣守を祀った神社である。鴨分命は吉備津 彦命と異母弟の若日子建吉備津日子命子孫、吉備武彦命の御子で足守で生まれる。応神天皇の吉備巡幸に従い加佐目山に狩をした時、天皇の風が吹き笠が飛んだ説話は有名。「波区芸縣」と「賀佐」(笠)臣の姓を賜はった(「姓氏録」にある笠臣の始まり)。明治44年の神社統合廃社の政府方針によって祭神に応神天皇など天皇家と由緒のある神々が列せられた。『日本書紀』仁徳天皇六十七年の条にある川嶋河の派(かわまた)の大虬退治の場所は木之子町字年行の「鳴尾の渕」である(稲木川の小田川への合流点)。

虬像は今も境内に在って鴨分命の紋章を彫った太鼓形の石を背負って建っている(蛟龍・明治40年代の奉納)


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鴨分命はこの地に居を構えて鳴尾に棲む虬(みずち)を退治…とありますが、先住者としての棲む虬(みずち)を征服し九州王朝系の氏族が進出し県知事に納まった行政の中枢がこの地であった事を思わせます。

「古事記」(上つ巻)にも「みずち」は出て来ますが、ここに祀られている神々こそがそれらの歴代県知事が奉斎した神であったことが想像できます(矢掛は金山彦系のような気がします)。

してみると、鳥居にあしらわれたオロチはミヅチと同族か敵対した別の氏族(民族)であったのかも知れません。

いずれにせよ、祀られている神々は全て九州の神様であり、西からやって来た神々のようなのです。


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ヤマタノオロチを思わせる注連縄はなかなかの出来で 底流にスサノウ系 金山彦系 の影を感じます


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