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504(前) 通古賀(トールコガ) 

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504(前) 通古賀(トールコガ) 

2017071520130930)再編集

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


福岡県の地名研究、古代史研究において避けて通ることができない幾つかの問題があります。

筑紫(チクシ/ツクシ)、太宰府/大宰府、安曇/安積、阿積…、古賀/古閑、久留米/久米/来目・・・といったものですが、その一つに、太宰府市の「通古賀」があります。


504-1

そもそも、九州限定と言っても良い「古賀」(例外的に京都と滋賀県の安曇川沿いに古賀があります)地名の解明ができないまま、「通古賀」について書くなどありえないのですが、逆に言えばその見通しが多少とも付いたことから本稿が始まったとも言えるのです。

 まず、現在、教育委員会、行政はそろって太宰府市の「通古賀」を「トオノコガ」と読んでいるようです(確認される方は 市文化財課 092-921-2121へ)。

 少なくとも、彼らの扱いは住所表記が「トオノコガ」とされていることから、そうとしか答えないでしょう。

504-2太宰府市の公式サイトでも、民俗資料編の「地名の読み方と由来」として、大字 通古賀 とおのこが ここに筑前国衙があったから、といわれている。」 としています。

しかし、それは正しいのでしょうか?まずは、次の地図を見て頂きたいと思います。

明治三十三年に帝国陸軍測量部によって作られた地図ですが(前頁)、県立図書館など大きなところならどこでも普通に閲覧することができるものです。

少なくともこの頃(明治後期)までは「トオノコガ」とは全く呼ばれていなかったことが一目でお分かりになるでしょう。こんなことも知らないのか!


504-3

少し見難いかもしれませんが、僅かに「トール」と仮名ルビが振られています。

では、明治の末期から戦後への数十年の間に呼称が変わったのでしょうか?

それとも、それこそ古い「トオノコガ」が、一旦は明治期に「トールコガ」に変わり、また、「トオノコガ」に戻ったとでも言うのでしょうか?

もう一つの資料をお見せしましょう

これは言わずと知れた貝原益軒の『筑前国続風土記』の見出しです(もちろん原本ではありませんが)。

どこに「トオノコガ」と書かれているでしょう?なんと「ホホルコガ」(ママ)とされているのです。

ところが、太宰府市の「通古賀」という地名は遠の御門、遠の国衙からきた「トオノコクガ」から転化した「トオノコガ」と読むべきだとする論が半ば定説化しているのです。

一例を見て頂きましょう。

ネット上にあった「西都太宰府」からのものですが、比較的正確に現状を伝えているものと思います。


504-4

中村学園大学資料



長沼賢海によれば、通古賀が「コッカ」と呼ばれていたことに着目し、「コッカ」が国衙(古代の国の役所)に通じると考え、周辺の地名や字図の検証の結果、王城神社の周辺に筑前国衙が存在したという学説を発表しました。また、江戸時代に書かれた『筑前国続風土記拾遺』にも、通古賀に筑前国衙があったという記述も見られます。
 筑前国衙が本当に通古賀にあったかどうかは、現在もまだ確定しておらず、今後の考古学的成果に期待するほかはありませんが、国衙の存在を推定させるものとして、王城神社横の王城館の前に、礎石が残されています。大宰府政庁の礎石よりも一回り小さく、このあたりから出土したものとすれば、国衙のような役所が通古賀にあったのかもしれません。


王城神社と筑前国衙通古賀区『とおのこが風土記』より


この横行している「遠古賀」「遠の国衙説」の起源(発信元)は九大の長沼賢海教授なのですが、現地音と従来の読みとの齟齬、混乱は一般にも広がっているのです。

今度はそれもネット上から拾って確認しましょう。

これもよく整理されたもので、伝統的な感覚が良く表われています。


通古賀(とおのこが)と王城神社 [歴史]

「倭国とは何かⅡ」という本に、王城神社のことが書かれていました。菅原道真が住んだという榎社のすぐ近くですが、この本を読むまで知りませんでした。西鉄二日市の西側を北に線路沿いに行くと、右手に榎社が見えます。そこを左折すると王城神社があります。

「王城神社縁起(江戸時代寛政年間)によれば、神武天皇が四王寺山(王城山、大野山)に城を築いた際に、山中に武甕槌命(みかづちのみこと)と事代主命をまつったことに由来するとされる。その後665年、大野城築城に際し、現在の太宰府市通古賀の地に遷されたとされる。」とされます。『倭国とは何かⅡ』で「「王城神社縁起」の語るもの」(恵内慧瑞子)では次のように説明されています。

「今、玉城神社は、太宰府市大字通古賀1203 三番地(昭和一五年現在の地名は筑紫郡水城村 大字通古賀字扇屋敷)に通古賀区の村落神としてある。祭神は事代主命、氏子戸数は九六戸、境内神社に皇大神宮がある。また、早馬大明神の石体も別殿に合記されている。」

この辺りの地名は今も「通古賀」です。私は「とおりこが」と呼んでいましたが、いつだったか、「とおのこが」と知り、不思議に思っていました。恵内慧瑞子氏によれば、「通古賀は太宰府市の中でも山地が無い平坦地で、交通の要衝である。二日市から流れてくる鷺田川(天拝川)が町の中を流れ、落合で御笠川と合流している。 地名「通古賀」は、「とおのこが」と発音する。太宰府が「遠の朝廷」(とおみかど)と呼ばれたように、通古賀も「遠の国衙」(とおのこが)と呼ばれたいにしえの国衙ではないだろうか。『太宰府市史』には「筑前国衙」があったことから(氏神王城神社付近がその場所といわれている)、国衙が古賀に、大道にあったので通がつけられた」としている。最近の発掘調査でも市や官人の居住を
504-5思わせる
遺跡や遺物が数多く出土している。太宰府市教委の井上信正さんは「藤原京と同形式の、玉城神社を中心にした条坊制が敷かれている」と話される。ここは菅原道真の配所であった榎社にも近い。古い時代から開けた歴史、伝説に富む場所であることがわかる。」

   太宰府以前の行政機構との関連が示唆されています。玉城神社のすぐ傍には、古代官衙がありますし、200メートル外れた西鉄旧車庫の発掘で、鴻臚館と同じような接待の場があったという発掘結果も示されています。この本では、太宰府と大宰府の表記について、古代は大宰府だったとする通説に対して、古代にも太宰府という表記があったとしています。   

「とぜんなか通信」より




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