517 僭越ながらも鹿児島の老古代史家からの照会にお答えして 所感 ①
20170809
太宰府地名研究会 古川 清久
既にネット上のひぼろぎ逍遥(跡宮)に「高良」を公開していますが、当時、この調査報告を書く際に協力して頂いた鹿児島県では知られた某郷土史家、古代史研究者からお手紙を頂きました。
「九州王朝と川辺町」というタイトルで講演会を行なうとのご計画もお持ちの様ですが、今般、五つほどの質問を頂きました。以下は原文の通りです。
① 神籠石からすると九州王朝は民族的には半島系でしょうか。
② 倭の五王も一文字で倭人でないように感じますが?
③ 高良も「コーライ」がなまったもののように感じますが?
④ 九州王朝と邪馬壱国の関係がわかりません。
九州王朝の下に邪馬壱国があったのか、又は邪馬壱国の下に九州王朝があったのか、それとも同一なのか?
⑤ 九州邪馬壱国と東遷とをどうとらえるか?
いずれも容易にお答えできる内容ではありませんし、そもそも私にお答えできる力があるとも、そういう立場であるとも考えておりません。
と言うよりも、全国の九州王朝論者が各々の視点、問題意識から取り組んでいる最大の関心事なのです。このため紙面との関係もあり、ここではある程度論証を省略し、私自身がどのように想像(思い描いて)しているかといった観点から現在のところの所感を申し上げることにします。
実は、もう一つ問題があります。
大学に入った時点で故)古田武彦の「「邪馬台国」はなかった」を読み、以降、数十年に亘り、初期~中期~後記の三部作など古田系の主なものに目を通し、古田史学の会外幾つかの研究団体にも触れてきました。勿論、大嘘つきの「邪馬台国畿内説」はもとより、「初期東遷説」といった他愛もない実質的な畿内説は一切考慮に値するものとは考えていないものの、九州王朝論の主流派である故)古田武彦氏の説からも何時しか離脱(なお、古田系研究団体の会員ではあるのですが)してしましました。
結果、現在は佃収説に共鳴しつつ、自身としては神社研究から古代史に迫る特殊な百嶋神社考古学に移行しています。このため、その観点から古代史像を描くようになり、既に一般的な九州王朝論者の範疇にはギリギリ留まっているとは思うものの、「古事記」の95%が虚構であるとする特異な立場からして、伝統的な九州王朝論者からの見解からも大きく逸脱している事から、その範囲内で理解して頂きたいと思うものです。
それを前提にこの問題に踏み込むことにしたいのですが、これを論証はおろか説明しようとするにも、既に公開している1300本(7000~9000ページ)近いblogをお読み頂く必要もあり、直ちにご説明できるとは凡そ考えられません。事実上不可能です。
そのように理解して頂いた上で、それでも参考にしたいとお考えになった場合、多少はお役に立てると考えコメントを加えさせて頂くことに致しました。
このため絶対に説明すべきことを省くことは予めご了承いただきたいと考えています。
では、厄介な話から踏み込むことにしましょう。
① 神籠石からすると九州王朝は民族的には半島系でしょうか
この質問には、今や利権集団と化した考古学○会やパターン化された内容で調教された学芸員によって流布された宣伝が支配的になっているという忌々しき傾向が見て取れます。
ここ二十年ほどの間に“神籠石を畿内周辺に造られた粗雑な朝鮮式山城の一部である”と見なす学説(こんなものが学説とは大笑いですが)がある事から、“神籠石なら朝鮮式だろう”と思い込まされた立場からの質問に聴こえ、そもそもそこから議論する必要があります。
画像は太宰府地名研究会メンバーI女史の「地図を楽しむ・古代史の謎」による
太宰府の裏を防衛する筑紫野市の阿志岐山城とされる宮地岳神籠石ですが、この施工方法は地震や洪水による圧力にも耐えるものである事はお分かり頂けるでしょう。
白村江の敗戦以降の政治情勢の変化に対応し造られたとする朝鮮式山城は神籠石
より時代を降るものの造りが雑で完成度が低いことはお分かり頂けるでしょう
まず、古代の列島に住み着いた人間は全て渡来人であったはずで、新石器~縄文を経て極僅かな土着の人間が居たとしても、それは同化、掃討、避退の道しかなかったはずです。
この事は神社を調べると良く分かるのですが、列島の神々は全てが渡来神なのであり、それ以外の神は認められないのです。
例えば、南九州のタノカンサーは土着神であろうと思われているかもしれませんが、これ自体が博多の櫛田神社の大幡主=田神と大山祗=山神の混合神=犠神体なのです(共に渡来神)。
写真は福岡県朝倉市甘木公園の田神社(朝倉市に40社の無格社あり)
従って、近畿大和朝廷であろうが、九州王朝であろうが邪馬台国であろうが、全て渡来系民族によって成立している訳で、渡来系か否かを議論しても、ほぼ、意味は無いのです。
多少、意味を持たせるとすれば、どちらが早いかという程度と、朝鮮半島を経由して入って来たかどうかといった観点だけで、質問をその点に絞って言えば、①江南(呉越)から、直接、薩摩川内、天草苓北、五島列島、有明海へと入った人々 主要には紀元前四~五世紀、呉越同舟の呉越の民の渡来(倭は呉の太伯の末)呉、越、楚…は列島の国名、地名にも痕跡を留めていますね。 ②マレイ・ポリネシア系海洋民は先島~沖縄~奄美ルートで南九州、四国東岸、紀州に入っているでしょう。 ③昭和24年に串間市の「王の山古墳」から発見された玉壁が南越王墓出土の玉壁と酷似している事から、秦滅亡後の南越国、若しくはそれに類する王族の列島への移動があったであろう事も垣間見ることができます。しかし、これが半島を経由しているとは考え難く、これも江南から直接南九州に入っているものと考えられます。 ④半島経由の渡来人には、百済滅亡後、白村江の敗北以降も何派にも亘って百済系氏族が入り、それ以降も新羅滅亡、高句麗滅亡によって多くの半島系民族氏族が入っている事は言うまでもありません。 ⑤時代は前三世紀に大きく遡りますが、特に重要なのは秦の支配を嫌って半島に逃げた(万里の長城建設の労役)秦の臣民、秦自体の滅亡によって逃亡した秦の王族(当然、官僚、軍属、学者…も)、大量の臣民も半島から豊の国に入っている事です。後に彼らが京都に入り平安京に移動した近畿大和朝廷を支えている事はどなたもご存じの通りです。 ⑥これ以外にもペルシャ系、隋、唐の鮮卑系、モンゴル系まで入っている事も想像できそうです。 ⑦ここまで見てくると、大陸や半島の政変により敗残した王族、官僚、貴族、技術者、軍属の優秀な人々が皆殺しを避け大量に入り続けた事が見えて来ます。
まさに列島とは対馬海峡を堀とした大陸や半島からの逃亡地、亡命地、避退地であり続けたのです。
恐らく、周を筆頭に、秦、漢、魏、呉、蜀、三韓、高句麗…の王族クラスも大量に入っているはずです。
⑧最後に誰も問題にしていない話であり、故)百嶋由一郎氏が発見された驚愕の仮説です。
倭人+日本人=列島人の主要部を形成した民族の列島への渡来について取り上げます。
A 恐らく紀元前後に雲南省麗江から阿蘇氏(黎族)と雲南省昆明から賀茂氏(白族)が海南島を経由し海路、南九州の薩摩川内辺りから天草~熊本に、
B これも紀元前後でしょうが、土車、土舎(トゥチャ)族=楚か?が入っているという記録があります。
「熊本県玉名郡誌」の一部で、「土車の里」(土車の荘)以降には、新幹線玉名駅正面の玉名大神宮、玉依姫(この玉依姫は鴨玉依姫か?)に関わる「此所を土車の里と云石を…」という話が書かれています。では、「土車」とは一体何のことなのでしょうか?土車族(土家、土家族とも)をご紹介しましょう。
実質800万人以上とも言うトゥチャを少数民族と言うかは疑問ですが、伝統的な衣装を着たトゥチャ族とミャオ族とペー族の女性(恐らく白い服を着たのが白=ペー族)。
トゥチャ族(中国語:土家族 ビジ語:ビジカ)は中華人民共和国が公認した55の少数民族のひとつで、主に湖南省、湖北省、重慶直轄市(旧四川省)の交界地帯に住む。
人口約600万人、中国の民族の中で8番目多い。言語はシナ・チベット語族のチベット・ビルマ語派に属する。長く漢族と交わって暮らしてきたため、現在ではトゥチャ語(ビジ語とモンズ語)を母語とする者は10万人未満程度とされ、ほとんどが中国語を母語としている。このように、民族の総人口と比較して母語人口が極端に少ない民族として、他に満州族(1000万人超えの民族であり、満州語を話せるのは5人以下)とシェ族(総人口約80万人、シェ語を話せるのは1000人程度)が挙げられる。湖南省湘西土家族苗族自治州、湖北省恩施土家族苗族自治州が設置されている。なお、例えば、彝族の事を彝家などと呼ぶ事もある事から分かるように、「家」には「族」の意味も含まれている。そのため本来、土家でトゥチャ族の意味をなしており、これに族を加えるのは重複した表現である。しかし、西北に住むモンゴル系民族である土族と区別するためにも、重複した表現ではあるが土族ではなく、土家族を正式な民族名としている。
ウィキペディア(Wikipedia)20160519 20:30による
ひぼろぎ逍遥(跡宮) 265 熊本県玉名市(旧玉名村)は「土車(トゥチャ)の里」だった! 参照
C これも紀元前に遡ると思いますが、半島経由で東西分裂後、さらに南北分裂し漢の傭兵と化した南匈奴(トルコ系)の一派(王昭君後裔)が南九州に入っていると考えています。
これこそが越智族=大山祗を奉斎する一族と考えています。
これらのように、紀元前後の九州島には、既に多くの民族が入っており、異なった民族の衝突がおこっているのです。コノハナノサクヤとニニギの出会い…スサノウとクシナダヒメの出会い…山幸彦と海幸彦の衝突…これらの神話から見えて来る多くの民族、異なった民族間で政略結婚が繰り返され、衝突の緩和が試みられた事が見えて来ます。コノハナノサクヤとイワナガヒメの話…。等々。
百嶋由一郎最終神代系譜(部分)
大山祗の墓といわれるものが宮崎県西都市の西都原第2古墳群にあり、正面には大山祗とコノハナノサクヤを祀る石貫神社、都万神社があります。
ついでに言えば日向一之宮都農神社(写真右)の主神は出雲神話のスターである大国主命であり、阿多の吹上浜には大汝牟遅神社(写真左)まであるのです。
通説派の大家の方々や出雲王朝論者といった方々にお尋ねしたいのですが、何故、南九州に出雲神話のスターである大国主祭祀が数多く存在するのか?勿論、北部九州の福岡県筑前町や熊本市北区にも大己貴神社があるのです。また、南九州には南方神社も多いのですが、これも大国主の子とされる(あくまでもされるであって子ではないのですが)国譲りに反対した建御名方を祀るものなのです。
一方、北部九州には呉の太伯(周王朝後裔)の一族が越人=倭人=スラベシと共に入っているはずで、その南には、高千穂の三田井~長崎の南北高木郡に高木大神系許氏が展開し、阿蘇氏=多氏=黎族はこの高木大神への入婿となり混血後の高木系は現阿蘇氏として引き続き蟠踞し、東に向かったヒコヤイミミの一族(草壁、草部吉見系氏族)が中央の多氏として後の中臣氏→藤原氏と拡大し近畿大和朝廷の権力を支える中枢氏族になるのです。
これらの氏族、民族が絶えず入れ替わり争いながら8世紀初頭まで存続していたのが、一時期邪馬台国を経由した九州王朝なのです。
最も重要な以下の問題に関しては別稿として書いても良いのですが、当面、既に書いているもので代行します。
倭人+日本人=列島人の主要部を形成した民族の列島への渡来について取り上げます。
A 恐らく紀元前後に雲南省麗江から阿蘇氏(黎族)と雲南省昆明から賀茂氏(白族)が海南島を経由し海路、南九州の薩摩川内辺りから天草~熊本に…
ひぼろぎ逍遥
194 櫛田神社(博多)の大幡主のルーツは滇王国だったのか?
159 秦の始皇帝と市杵島姫
042 阿蘇高森の「草壁吉見」神社とは何か? ⑩ “肥後人は支那人だった!?”
033 阿蘇高森の「草壁吉見」神社とは何か? 支 那
ひぼろぎ逍遥(跡宮)
264 博多の大幡主の一族は雲南省昆明から海南島を経由してやって来た
209 阿蘇の草部吉見と博多の大幡主の御先祖がおられた海南島について“コピーペーストも活用しよう”
208 天草下島の都呂々神社で阿蘇の草部吉見とトロロ芋を考える “熊本県苓北町都呂々神社”
119 草部吉見と豊玉彦(ヤタガラス)のご先祖が雲南省から入って来たルートについて
064 博多の櫛田神社の祭神とは何か?
007 草部吉見神は、甑島(薩摩川内市)鹿島町の鹿島神社を通過したか?
これらをお読み頂ければ概略はお分かり頂けると思います。
研究目的で百嶋由一郎氏の音声、手書き、神代系譜を必要とされる方は09062983254までご連絡ください