516 道中貴命とは何か? “兵庫県朝来市新井の足鹿神社”
20170809
太宰府地名研究会 古川 清久
播但線、但馬街道を北から南に登って行くと、JR新井(ニイ)駅があり播但連絡道の朝来ICがあります。
朝来市でも播磨との国境いに近い奥まった場所ですが、ここに式内社の足鹿神社があります。
足鹿神社 カーナビ検索兵庫県朝来市八代字宮山229
朝来市でも市役所が置かれた和田山から丸山川、播但線、但馬街道を南に上り詰める最も奥まった安全な場所に生野銀山などがあり、物部、新井というその系統の地名が拾え、左手に朝来山がそびえています。
この物部氏が住み着いたとしか思えない場所に足鹿(アシカ)神社があるのです。
始めから予断した話はすべきではありませんが、「アシキ」という響きに思い当たる事があり今回足を向けることにしたものです。
足鹿神社略記に依る限り祭神は 道中貴命 となります しかし如何なる神であるかは分からないのです
この神社の本殿も我々が筑後物部の「鞘殿」と呼ぶ覆屋の社殿様式を示しています
社殿の右手に境内社があります。迦具土神、奥津日子神、奥津比売命の三神です。
百嶋由一郎三宝荒神系譜
迦具土神は金山彦であり、この地に初期の九州王朝を支えた金属精錬の民があり、生野銀山とも底流で繋がっているものと考えています。
ただし、中国地方に多い三宝荒神が後付で持ち込まれたものか、本来の祭神であったものが、道主貴命が進出し覆い被さったものかの判断は今のところできません。
交通の要衝に置かれた式内社であり、最低でも1000年の歴史を持つ神社ですが、さて、最も重要な祭神の「道中貴命」です。“平安時代初期に天皇の命により、都か らこの地方に派遣せられ、この地において政務にあたるなど、功績のあった人”(神とはされていませんね)として祀られたものと伝えられているのです。
勿論、これを真に受けるつもりが無い事は言うまでもありません。
ただ、九州王朝論者にとって「アシカ」「アシキ」と言った語感は多少思い当たる事があるのです。
九州王朝の本拠地である高良大社の麓の高良皇子神社=王子宮、坂本宮の神々に、九人の皇子があり五人の正室(高良玉垂命と神功皇后)の皇子と四人の皇子がいたのですが、その中に安志奇ノ命神(アシキ)命が出てくるのです。
斯礼賀志ノ命神(シレガシ)
朝日豊盛ノ命神(アサヒトヨサカリ)
暮日豊盛ノ命神(クレヒトヨサカリ)
渕志ノ命神(フチシ)
谿上ノ命神(タニガミ)、
那男美ノ命神(ナオミ)
坂本ノ命神(サカモト)
安志奇ノ命神(アシキ)
安楽応宝秘ノ命神(アラオホビ)
高良御子神社祭神は高良玉垂命の御子にて命に九躰の皇子あり、人皇二十代允恭天皇の御宇(412~453)、高良の神の御託宣により阿志岐山上に九躰の社を、大宮司孝成造立す。(古宝殿) 四八代称徳天皇神護景雲二年(768年)阿志岐山上(古宝殿)より現在地へ遷宮された。…山川区郷土研究会
高良皇子神社縁起
この「安志奇」は筑後川を挟んだ対岸の太宰府側にも同一の地名があり、太宰府を防衛する宮地岳の神籠石のある一帯が「阿志岐」と呼ばれているのです。
また、もう一つ気になるのが、「貴」(ムチ)と言われる尊称or称号(恐らく)と思われる「道中貴命」の「貴」に通じている様に思えるのです。
当然、天照大神=大日霊貴神(オオヒルメノムチ)や大己貴神(オオナムチ)=大国主命の「貴」ムチ、モチも同じものでしょうし、久留米の高良大社と太宰府との中間の現筑後川の北岸に赤司八幡宮(最近は神功皇后の妹豊姫を祀るとするも「福岡県神社誌」に依れば、ただの石清水八幡系八幡神社)があるのです。この縁起にも気になるものがあるのです。
たまには綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」からお読み頂きましょう。
赤司八幡神社のいにしえの姿「止誉比咩神社」とはどのようなものでしょうか。
この筑後平野のど真ん中にどうして宗像三女神が祭られているのでしょうか。
ここに縁起があるので、「楢原猛夫本」を口語訳します。
筑後の国・止誉比咩神社の本跡の縁起の序をしるす。
筑後の国の御井郡(みいぐん)惣廟(そうびょう)である赤司八幡大神宮は太宰別府で、もともと三女神が降臨した本跡で、誉田(ほむだ)天皇が降誕された霊地であり、筑紫中津宮である。
いわゆる日の神から生まれた三女神を筑紫の洲(くに)に降臨させた時に、日の神が「そなたたち三神は道の中に降居して天孫を助けて天孫のために祭られなさい。」と教えられた。こうして今、河北の道の中にあって、道主貴(みちぬしのむち)と言う。これは筑紫の水沼の君らが祭る神である。
天孫が降臨する時、天の真名井の一元の水を降ろし、蚊田(かだ)の渟名井(ぬない)に遷して、その水を供えた。大足彦(おおたらしひこ)天皇が来られて祭壇をたてて国乳別皇子(くにちわけのみこ)を天皇の代行者とした。この方が河北(こうこた)の惣大宮司・水沼の君の始祖である。
気長足姫(おきながたらしひめ)尊(神功皇后)は豊姫を神形代(みかたしろ)に立てられた。このために後の人は止誉比咩神社と呼んだ。神名帳に官社として載っている。
醍醐天皇の御代に誉田の神霊と武内の神霊と住吉の神霊を相殿に遷座して御井郡の惣廟となって初めて放生会を執り行った。 (後略)
道主貴(ミチヌシノムチ)という筑紫の水沼の君らが祭る神が、足鹿神社の道中貴命と同一ではないとしても同種の称号に見えませんか? 今後とも調査を継続します。
最後にこの間注目している吉田一氣の熊本霊ラインにもヒントがありそうなのでご紹介しておきます。
武内宿禰や蘇我氏に繋がる須賀社 続編 No166 2010-09-25 01:36:56 | 日記
いくつか蘇我氏に繋がる須賀社をこのブログでも記載しているが式内社 但馬國二方郡 式内社須賀神社は もともとが菅神という謎の神霊を祭祀しているが後述するようにこれは蘇我氏に繋がる神社だと思える。
玄松子の記帳 式内社 但馬國二方郡 須賀神社この方のコメントで「須賀社でダントツに多いのは、福岡県に130社だが、 高知県29社、千葉県24社、茨城県23社、 山口県21社、静岡県20社、東京都19社と続くことから兵庫県と福岡県の多さが目立つ。
出雲そのものより、東と西へ少し離れた場所に点在するのは面白い。」そう書かれているが、 理由は須賀社が武内宿禰がらみの神社だからだと筆者は判断している。ちなみにこの式内社須賀神社から直線で10km程度のところに武内宿禰を祭る宇倍神社がある。またこの須賀神社で菅神としての候補される道中貴命という人物であるが八代大明神とも呼ばれておりこの八代は同じく祭神が道中貴命の但馬國朝來郡の足鹿神社が参考になるが八代という言葉はその地方の地名と川の名前にもなっている。
これは熊本の八代でも考察しているが武内宿禰と羽田八代と八大龍王神に通じる。
ちなみに菅=スガ(菅・須我)は菅=スゲという植物同じと辞書に出ているが足鹿=アシカは奈良時代には「みち」と呼ばれていたそうである。
それで道中貴命は足鹿神社と繫がることになる語源は「葦鹿」で「葦(アシ)の生えているところにいるシカ」の意味であるという。
つまりアシもスゲでありアシカも須我に通じる言葉ということになる。
須賀社⇒菅神⇒八代大明神⇒道中貴命⇒足鹿神社
菅と八代から蘇我氏系の神社であると推察される。