518 僭越ながらも鹿児島の老古代史家からの照会にお答えして 所感 ②
20170809
太宰府地名研究会 古川 清久
② 倭の五王も一文字で倭人でないように感じますが?
これも九州王朝論者が追及している重要かつ難解なテーマの一つと言えるでしょう。
この辺りの問題については十年ほど前に、故)古田武彦氏の講演(久留米大学公開講座)でも話されたのを直接聴いてもいますが、現在この部分に関して最も精通しておられるのは佃収先生(「古代文化を考える」主宰)ではないかと考えています。
佃説では九州年号の分裂(九州年号には複数の系統がある事は知られていますが)から南北朝期の分裂にも似た九州王朝の分裂さえも探られているのです。
できれば、多くの九州王朝論者に佃収研究を知って頂きたいと考えているところです。
手っ取り早くはネット上の佃収関連支援サイト「倭国通史」をお読み頂ければ佃収九州王朝論の全貌は把握できます。
まず、分かり易いように要点だけ書きますが、…
大業三年其王多利思比孤遣使朝貢使者曰聞海西菩薩天子重興佛法故遣朝拜兼沙門數十人來學佛法其國書曰日出處天子致書日沒處天子無恙云云帝覽之不*謂鴻臚卿曰蠻夷書有無禮者勿復以聞…
「隋書」(俀タイ国伝)に登場するタリシヒコ(原文に忠実でない私は「ホコ」ではなく「ヒコ」とします)が登場します。この人が誰かが重要なのですが、開皇二十(600)年、倭王あり、姓は阿毎(アメ、アマ)字は多利思比孤(タリシヒコ)、阿輩キ弥(オオキミ)と号す。使を遣わして闕に詣る。上、所司をしてその風俗を訪わしむ。使者言う、「倭王は天を以て兄となし、日を以て弟となす。天未だ明けざる時、出でて政を聴き跏趺して座し、日出ずれば便ち理務を停め、いう我が弟に委ねんと」と。高祖いわく、「これ大いに義理なし」と。ここにおいて訓えてこれを改めしむ。王の妻は雞弥と号す。後宮に女六、七百人あり。太子を名づけて利歌弥多弗利(ワカミタヒラ、リカミタフリ)となす。城郭なし。
以降、「隋書」俀国伝には大業三(607)年の記事があります。最近消されつつある「日出ずる処天子、書を日没する処の天子に致す 恙なきや」という国書です。
この時代、日本の天皇は推古女帝です。ところが多利思比孤には妻がいたのですから普通は男でしょう。
大業三年は推古15年(607)とされています。
有阿蘇山其石無故火起接天者俗以為異因行禱祭有如意寶珠其色靑大如雞卵夜則有光云魚眼精也新羅百濟皆以俀為大國多珎物並敬仰之恒通使往來…
「阿蘇山有りその石は訳なくして火おこり天にとどく人々はわけのわからないこととして祈り祭る如意宝珠ありその色青くニワトリの卵ほど夜になり光る魚のひとみと言う新羅百済はいずれも倭は大国にして珍物多きと考え敬い見上げる常に使者を通わせて往来する…
まさに良く書き留めてくれたと思うばかりですが、「西遊記」に登場する火焔山以外火を吹く山などない中国のことよほど珍しいものだったと見えます。
これらの有名な話だけでも近畿大和朝廷(こんなものは高々八世紀以降なのですから当然ですが)の話でない事は明らかですし、阿蘇山が登場する以上九州島の話である事は明らかでしょう。
従って遣隋使も九州王朝が送ったものである事を思わせますし、当時の九州王朝がその中心を肥後に置いていた可能性をも想像させるに十分です。
さて、大きな問題ですので、百嶋神社考古学から倭の五王についてどのように考えるかという事に絞り込んでお話しする事にします。
初期の倭国=九州王朝とは金山彦と手を組んだ白族に担がれた連合政権だったように見えます。
この連合政権とは高木大神系のニニギや多氏(決して阿蘇氏と同一ではない)にも支えられていたように見えます。
大幡主とはヤタガラス=豊玉彦の父神であり、大幡の意味の通り、博多を拠点に大きな幡(具体的には帆)を持った外洋船(武装商船隊)を駆使して大陸、半島との交易を行っていたと考えています。
この時代はバイキング並みの海の航路を支配した人々=つまり倭人の勢力が強く政権の主力となっていたのです。
ところが、既に前千年辺りから徐々に持ち込まれていた稲作の拡大と人口増加の結果、兵馬による内陸部の支配が重要になってくると、江南系海人族=倭人(海軍陸戦隊)と兵馬を駆使する(陸軍海戦隊)との衝突は、最終的には陸上を支配する人々が徐々に強くなり力関係が逆転したのではないかと考えています。
今のところ、これこそが邪馬台国(九州王朝論者は邪馬壱国とするのが分水嶺とお考えの方が多いようですがそのようには考えていません)と狗奴国の戦いで最終的に狗奴国側の勝利となり、陸上戦を得意とする人々が海路を支配する人々を圧倒するという政治的転換を齎したのではないかと考えています。
これが、倭の五王も一文字で倭人でないように感じますが?…云々に関係しているように思います。
なお、「一文字で」という表現は島津らしい方言なのですが、「直接的に」「直ちに」…といった意味です。ちなみに鹿児島県では三叉路を「三文字」、十字路を「十文字」と表現します。
この点、百嶋由一郎氏は初期の九州王朝を支えたのは金山彦にあらせられ、次の時代の九州王朝を支えたのは大山祗と大幡主(海人族のリーダー)の妹の埴安姫=草野姫(カヤノヒメ=恐らく伽耶の姫)の間に産まれた大国主命であったと言われています。
ここで、多少、筋違いの話に持ち込みますが、連携blogの「太宰府は日本の首都だった」外3著の内倉武久氏の最近の文書からご紹介しましょう。
Blog NO.56 『書紀』継体紀のなぞに解決の糸口 ―「九州年号」記載「入来院家文書」に―
詳細は内倉blogの「入来院文書」に関する部分を読んで頂きたいのですが、当然、「古事記」にも近似の記事があり、今回は、「入来院文書」から百嶋神社考古学で言うところの大山祗の息子が大国主であった事を確認して頂きましょう。
鹿児島県で見つかっている「九州年号」を記した古文書『入来院(いりきいん)家文書・日本帝皇年代記』について検討したところ、『書紀』継体紀に記されたふたつの死亡記事や「二人の神武天皇」のなぞが明快に解決することになりそうだ。『文書』の実態と「なぞ」について報告しよう。…
…
②「天神」に地元の神?
問題の「九州年号」は年代記の「第二九番」に記されている。天神七代~地神五代から始まる系図の様式をとっている。
天神七代の名は『古事記』(以下『記』)と少し違い、「国常立尊(くにのとこたちのみこと)」から始まるが、第二神を「国狭槌(くにのさづち)の尊」(『記』は「豊雲野神」)、第三神は「豊斟渟(とよのくむぬ)の尊」(同・宇比地邇、須比智邇の神夫婦)、第四神を「泥土瓊(うひじに)、沙土瓊(すひちに)の尊」夫婦(同・角杙(つのくひ)、活杙神夫婦神)。
第五、六、七神は、使った漢字は違うものの『記』と同じでそれぞれ「大戸之道之尊、大戸間邊の尊」、「面足(おもだる)、惶根(かしこね)の尊」夫婦。「伊弉諾(いざなぎ)、「伊弉册(いざなみ)の尊」夫婦となっている。
興味深いのは第二神の「国狭槌尊」で、『記』では「天神」ではなく山の神「大山津見」と「鹿屋の比売」夫婦の子として登場する。薩摩ではこの夫婦は「地元の神」としてとらえられていたのだろう。「大山津見」の娘でニニギと結婚したという「阿多の姫」(神阿多都比売、別名木の花の咲くや姫)には薩摩半島南端を表す「阿多」という地名が付けられ、「阿多の姫」の母親「鹿屋の姫」の名も現在もある大隅半島の中心都市・鹿屋市として残っているからだ。
百嶋由一郎極秘神代系譜(部分)
百嶋由一郎極秘神代系譜によれば、百嶋神社考古学が国狭槌尊を大国主命として認識している事を確認して頂いたと思います。
なお、内倉先生は百嶋先生の読みの草野姫(カヤノヒメ)を旧帝国海軍航空隊第五航空艦隊の鹿屋との関連でお考えですが、草野表記は阿蘇の草部吉見同様、伽耶の姫と考えており、朝鮮半島の金官伽耶=大山祗の父神である宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂ)がいた“伽耶の”の置換えが草野と考えています。蛇足になりますが、鹿屋市の鹿屋は東海大学の茂在寅雄教授「日本語大漂流」外~佛教大学黄 當時教授の「悲劇の好字」によるカウ+ヌイ(ポリネシア語の大きな舟)のカヌーの意味と考えています。 なお、内倉先生は、
その下段には「震旦」(オーロラ。中国のこと)として、「盤古首王元 一万八千歳」とある。「盤古」は「犬祖伝説」にも出てくる中国の少数民族の始祖犬の名前でもある。鹿児島は中国沿海部から渡来した熊曾於族の日本列島における故地であるからわざわざ書いているのかもしれない。さらに「黄帝有熊氏」「堯」「舜」「禹」など神話上の名も連ねている。
と書かれ、熊襲の起源を「犬祖伝説」の「盤古」という中国の少数民族の始祖犬から大陸に求められています。
当方は、宇摩志阿斯訶備比古遅神(トルコ系匈奴)~大山祗~大国主命の線上に熊襲を復元しようとしているのです。アプローチは異なるものの、共に目指している方向は一致しているものと考えています。
最後に、内倉先生と共に文字通り発見した倭五玉宮(倭の五王に関連する王墓ではないかと考えている群集墓)を持つ極秘の神社紹介しておきます。
詳しくは、ひぼろぎ逍遥 043 驚愕の倭五玉宮 “九州王朝 「松野連系図」所載の夜須評督の聖地か?”をお読み下さい。場所については諸般の事情から公開しない事としています。ご協力を…。
シルクロード経由で飛鳥にペルシャ系民族が入っている事は知られていますが、何故かトルコ系匈奴(東西分裂後の東匈奴の再分裂南下から半島=伽耶への避退)の列島への侵入については一切伏せられているようです。
それが何故かはずっと疑問でしたが、最近になってようやく理由だけは分かってきました。
それは、彼らが熊襲であり最後まで朝廷に従わなかった朝敵だったから消されたのです。
南匈奴
48年、東匈奴が南北に分裂した後、後漢に服属した。五胡の一つとして華北に進出。
匈奴の分裂によって生まれた東匈奴は、後漢に服属していたが、後継者争いとイナゴの害によって危機を迎えた。後漢からの独立を志向する蒲奴単于が北匈奴として分離したのに対して、後漢との和親を求めるグループは呼韓邪単于(東匈奴初代の単于)の孫を擁して、48年にふたたび呼韓邪を名乗らせた。これが南匈奴である。南匈奴は五胡の一つの「匈奴」として傭兵となり、中国の各王朝との関わりを深めて行く。
南匈奴の単于の後裔劉淵は晋の部将であったが八王の乱の混乱に乗じて304年に独立し、漢(前趙)を建国した。劉淵は匈奴の系統であったが、漢王室を再興すると称して劉氏を名乗った。これが、五胡十六国の始まりであった。
HP世界史の窓による
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