519 僭越ながらも鹿児島の老古代史家からの照会にお答えして 所感 ③
20170811
太宰府地名研究会 古川 清久
③ 高良も「コーライ」がなまったもののように感じますが?
これについては失礼ながらお答えする意欲が湧いてこない質問で無視したいのが本音でしたが、そのような傲慢な姿勢ではあの利権まみれの薄汚い畿内説論者と一緒になってしまいます。
まず、高麗は918年に王建によって建国され、936年に朝鮮半島の新羅、後百済、泰封の三国鼎立時代を経て統一し1392年まで続いた国家であり、九州王朝の存続期とは全く重なっていません(紀元後~517年以降~701年=九州年号の期間)。
ただ、高麗は高句麗の後期の国名でもあり、日本でも高句麗を高麗と呼んでいた形跡もある(高句麗は長寿王の代から高麗とも称された)事から高句麗との関係を議論する事になります。
勿論「コリア」(Korea)の語源は高麗と関係があるでしょう。
皆さんご存じの通り、唐と激突した中国東方の巨大帝国高句麗(コグリョ)は668年に滅亡します。
この時期に、高句麗の王族、軍属、官僚などがごっそり列島に入っていると言われます。
「♪渡来の民の(高麗)若光王 原野を拓き 巾着田ひがん花咲く里山はいにしえしのぶこま神社(高句麗神社)♪」と鉄道唱歌に歌われた如く、敗残した高句麗は北関東に入っているのです。
高麗神社 カーナビ検索 埼玉県日高市新堀833 ℡ 042-989-1403
勿論、高麗(コマ)だけではないのですが、全国には多くの高句麗系と思われる地名があります。
東京都狛江(こまえ)市・・・市内にある亀塚古墳を高句麗式とする説もあり
京都府木津川市山代町上狛 京都府相良郡精華町下狛 奈良県桜井市狛 山梨県南巨摩(みなみこま)郡 埼玉県日高市高麗本郷 神奈川県中郡大磯町高麗 京都府乙訓郡大山崎町大山崎高麗田 大阪府大阪市中央区高麗橋 徳島県鳴門市大麻町桧高麗 鹿児島県鹿児島市高麗町
地名から考えた場合、九州にはこの手の地名が拾えない事からも高句麗は山梨以北、以東に入っていると言う認識しか持っていませんでしたし、高良大社との関係は一度も考えたことがありませんでした。
勿論、このような思い込みは最も避けるべき事で、逆に言えば高良とは何かについては何も分かっていないのです。
滅び去った高句麗の中枢部は捕縛され唐に連行されていますので、半島経由で僅かに逃げ延びた一部が列島に退避したはずで、それを受入れた九州王朝も、自らにとって危険とも考えたのか、遠い山梨~埼玉の未開地へと送り込んだものと思われます。
■ 高句麗
高麗神社の主祭神は、かつて朝鮮半島北部に栄えた高句麗からの渡来人高麗王若光(こまのこきしじゃっこう・「王」は 他に「こしき」「こにしき」「こにきし」などとも読む)です。
最盛期は5世紀の「広開土王(こうかいどおう)」、「長寿王(ちょうじゅおう)」治世の100年間で、中華人民共和国吉林省集安県にある「広開土王碑」から、そのころの高句麗の強勢ぶりをうかがうことができます。
若光が渡来した年代についての社伝はありませんが『日本書紀』天智天皇称制5年(666年)10月高句麗から派遣された使節の中に「若光」の名があります。
『続日本紀』文武天皇大宝3年(703年)に「従五位下高麗若光に王の姓を賜う」と記されており、高句麗が668年に唐と新羅によって滅ぼされてしまったことを考えると、『日本書紀』にある「若光」と当社の御祭神である「高麗王若光」は同一人物と思われます。
■ 高麗郡建郡と高麗神社
若光は元正天皇霊亀2年(716年)武蔵国に新設された高麗郡の首長として当地に赴任してきました。当時の高麗郡は未開の原野であったといわれ、若光は、駿河(静岡)甲斐(山梨)相模(神奈川)上総・下総(千葉)常陸(茨城)下野(栃木)の各地から移り住んだ高麗人(高句麗人)1799人とともに当地の開拓に当たりました。若光が当地で没した後、高麗郡民はその徳を偲び、御霊を「高麗明神」として祀りました。これが当社創建の経緯です。
高麗神社は、若光の子孫が代々宮司を務め、現宮司は60代目になります。
高麗郡は明治29年(1896年)入間郡に合併されましたが、当社はその後も広く崇敬を受けてまいりました。特に浜口雄幸、若槻禮次郎、斉藤実、小磯国昭、平沼騏一郎、鳩山一郎らが当社参拝後相次いで総理大臣となったことから「出世明神」と広く知られるようにもなりました。現在は年間約40万人の参拝があります。
第1駐車場内の将軍標(しょうぐんひょう・チャンスン)チャンスンは朝鮮半島の古い風習で、村の入り口に魔除けのために建てられました。将軍標は平成17年に大韓民国民団中央本部によって奉納されたものです。 高麗神社HPによる
最後に気になる事があるので仮説段階ですが書き留めておくことにします。かなり古い話になりますが、埼玉の高麗神社の女性宮司K.K.氏が八代~球磨川~人吉に来られた際に、人吉の秘密結社(菊池氏で言えば菊池会)が総力で出迎えたという話を故)百嶋由一郎から聞かされています。これまで球磨川の「球磨」は「隈」、クマ農業のクマと考えていたのですが、もしかしたら、これも後に「高麗」と表記されたクマではないかと思うようになりました。九州(豊を除く)では沖縄の三母音の影響から、オーゴト(大事)をウーゴトと発音します。O音→U音で考えれば、球磨(クマ)は高麗(コマ)である可能性を否定できないのです。半島には熊津(ユーシン)都督府がありましたよね!「熊」とは熊トーテムの神、「偉大な」とか高貴なといった言葉なのです。「球磨川流域の人々は全てヘブライ系…」と話していたのも百嶋先生でした。球磨川流域の人々は半島から先行して入っていた同族であった可能性はあるのです。