スポット144 三瀬村トレッキング現地リポート
20171122
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
11月19日に行った太宰府地名研究会主催の“神功皇后の生誕生育地を探るトレッキング”は20人規模で行われました。
実際、朝十時集合夕方解散となるとかなりハードなスケジュールになります。
特に、集合が佐賀と福岡の県境の領域であり、その場所に向かうだけでも1~2時間は掛かる事から、天候や駐車スペース、トイレット、弁当購入…と色々な要素を考慮したうえで、なお、気を遣わなければならず、企画から連絡から資料作成へと相当にハードなイベントになります。
しかも、標高500メートルを越えることから午前10時でも、5度前後の上に風が強かった事から手袋が欲しくなるトレッキングとなりました。
これを福岡~熊本~大分において各々異なる企画で随時行っていますので、継ぎ接ぎのコピー・ペーストで学会通説まがいの怪しげな九州王朝論とも邪馬台国九州説とも分からぬ話でお茶を濁し、何の業績も残せないまま、十年でもたかだか百回も続けられないような内容で満足しているような既存の研究会とは集まってきている人間の意識性とか気迫というものがまず違う事になるでしょう。
単に所謂「邪馬台国本」を齧っただけ、九州王朝論の幾つかの本を読んだだけといった状態で、通説まがいの話をされている史談会、郷土史会同様の○○研究会の方々と、実際に現地に足を運んで自らの頭を使って現場から何がしかの真実を探ろうとする意志を持った人々の集まりとでは雲泥の差がある事を認識せざるを得ないのです。
今回はこの佐賀県佐賀市に編入された旧三瀬村の杠(ユヅリハ)地区一帯の神社調査です。
さて、「コモリク」という言葉をご存じでしょうか?
言うまでもなく奈良の大和の国の話とされているのですが、本当の、(隠り口)コモリクとは、近年、佐賀市に編入された旧大和町の上流の旧三瀬村の初瀬川一帯の隠れ里の事だったのです。
九州王朝論者の皆さんも古田九州王朝論から少し自由になり、新たな発想をする必要があるのではないでしょうか?
この旧三瀬村には初瀬川が流れており、だからこそ想定古代九州王朝の長谷寺も存在したのでした。
九州山口にしか痕跡も伝承のない神功皇后ですが、何故か出身地は畿内だろうなどとされています。この間懸案とされてきた神功皇后ですが、今般久々にスポットを当て、 神功皇后の生育地を探る!トレッキング(佐賀県佐賀市三瀬村)を行います。そこで、神功皇后の両親である父 息長宿禰王(オキナガノスクネ)と母 葛城高額比売命(カツラギノタカヌカヒメノミコト)が住んでいたと考えられる(神功皇后もそこで産まれた?)佐賀県の北山ダム周辺の神社とそこに注ぐ初瀬川一帯を訪ねます。なお百嶋神社考古学では開化天皇の妃は神功皇后です。
まずは通説を考えて見ましょう。
神功皇后(じんぐうこうごう、成務天皇40年 - 神功皇后69年4月17日)は、仲哀天皇の皇后。『日本書紀』では気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)・『古事記』では息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)・大帯比売命(おおたらしひめのみこと)・大足姫命皇后。父は開化天皇玄孫・息長宿禰王で、母は天日矛(あめのひぼこ)裔・葛城高顙媛。応神天皇の母であり、この事から聖母(しょうも)とも呼ばれる。弟に息長日子王、妹に虚空津比売、豊姫あり。
三韓征伐を指揮した逸話で知られる。
夫:第十四代天皇 仲哀天皇。皇子:誉田天皇、第十五代天皇 応神天皇。
皇子:誉屋別皇子(日本書紀では弟媛の子)。
『日本書紀』などによれば、神功元年から神功69年まで政事を執り行なった。夫の仲哀天皇が香椎宮にて急死(『天書紀』では熊襲の矢が当たったという)。その後に熊襲を討伐した。それから住吉大神の神託により、お腹に子供(のちの応神天皇)を妊娠したまま筑紫から玄界灘を渡り朝鮮半島に出兵して新羅の国を攻めた。新羅の王は「吾聞く、東に日本という神国有り。亦天皇という聖王あり。」と言い白旗を上げ、[3]戦わずして降服して朝貢を誓い、高句麗・百済も朝貢を約したという(三韓征伐)。
渡海の際は、お腹に月延石や鎮懐石と呼ばれる石を当ててさらしを巻き、冷やすことによって出産を遅らせたとされる。月延石は3つあったとされ、それぞれ長崎県壱岐市の月讀神社、京都市西京区の月読神社、福岡県糸島市の鎮懐石八幡宮に奉納されたと言われている。その帰路、筑紫の宇美で応神天皇を出産し志免でお紙目を代えたと伝えられている。他にも壱岐市の湯ノ本温泉で産湯をつかわせたなど九州北部に数々の伝承が残っており、九州北部に縁の深い人物であったと推測される。
神功皇后が三韓征伐の後に畿内に帰るとき、自分の皇子(応神天皇)には異母兄にあたる香坂皇子、忍熊皇子が畿内にて反乱を起こして戦いを挑んだが、神功皇后軍は武内宿禰や武振熊命の働きによりこれを平定したという。
武家社会の神である八幡神の母にあたる神であり、数多くの武人が神功皇后を崇拝していた。有名なのが八幡太郎こと源義家である。
また八幡神と同じく、その言い伝えは九州はもとより関東から近畿の大津や京都や奈良や大阪の住吉大社、瀬戸内海を挟んで広島や岡山、四国と、日本中に数多く存在する。
今でも全国各地で神功皇后の三韓征伐を祝うための山車が存在しており、その業績をたたえる祭りが多い。
『新唐書』列伝第145 東夷 倭日本[4]に「仲哀死、以開化曽孫女神功為王」、『宋史』列伝第250 外国7 日本国[5]に「次 神功天皇 開化天皇之曽孫女、又謂之息長足姫天皇」とあるが、『新唐書』が編纂されたのは10世紀であり、唐時代に日本からの留学生・留学僧が伝えた内容が掲載されたと考えられる。
明治時代以前は、神功皇后を天皇(皇后の臨朝)とみなして、第15代の帝とした史書が多数あった。 1926年(大正15年)10月の詔書により、歴代天皇から外された[要出典]。
明治から太平洋戦争敗戦までは学校教育の場で実在の人物として教えられており、大日本帝国による朝鮮半島支配の象徴・根拠として[要出典]も関連付けられ、有名人であり偉人であった。 現在では実在説と非実在説が並存している。
『日本書紀』において、巻九に神功皇后摂政「66年 是年 晋武帝泰初二年晉起居注云 武帝泰初(泰始)二年十月 倭女王遣重貢獻」として、晋書の倭の女王についての記述が引用されている。このため、江戸時代までは、卑弥呼が神功皇后であると考えられていた。しかし、この年は西暦266年であり、卑弥呼は既に死去しており、この倭の女王は台与の可能性が高いとされている(ヤマト王権の項など参照)。
また、これとは別に、直木孝次郎は、斉明天皇と持統天皇が神功皇后のモデルではないか、との説を唱えている。