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スポット179 「 天 皇 」 と 「 元 号 」~自立王朝の創始宣言~ 金澤 弘毅(札幌市)

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スポット179 「 天 皇 」 と 「 元 号 」~自立王朝の創始宣言~

金澤 弘毅(札幌市)


 二〇一九年四月に現在の天皇が退位され、翌五月に皇太子が新しい天皇に即位されることになりました。これに伴いこれまでの「平成」の元号も改められ、新しい元号(年号)となります。

 長い年月に培われ継続されてきたことゆえ、それでよしとするとしても、「天皇」という称号と地位や「元号」の始まりなど、その成りたちが全くわかりません。いつの時代に、どんな事情で、なにに由来して、誰が決めたのか、公式記録もなく公式見解もないまま定着してしまったようです。〝既成事実〟だけが何となく居座ってしまうこの国特有の風土なのでしょうか。昨今の政治問題にもみられる決定と進行の不透明さとよく似ています。

 この「天皇」と「元号」の出自の曖昧さにも、私は大和王朝に先行する王朝が存在した〝影〟を感じとることができます。


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▼王者の称号としての「天皇」

 中国の神話では、天地開闢には盤古という神が、人間創生には女媧という神が登場します。そして『十八史略』には、この天地開闢と人間創生の時代に人間世界を治める帝王として、天皇氏・地皇氏・人皇氏がいて、住居を作った有巣氏と火を使って食事をすることを発明した燧人氏が人間生活を進化させたと書いています。このあと帝王は三皇(伏羲・神農・黄帝)から五帝(少昊・顓頊・帝嚳・帝堯・帝舜)へと神話伝説の時代が続きます。


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盤古            神農           舜帝


 歴史時代に入って「夏」「商(殷)」「周」の各王朝の王者は、権力の象徴である鉞(まさかり)の象形文字「王」を名のります。そしてこれらの王者は、天帝から地上を治める使命を与えられた者として「天子」と呼ばれます。

 最初に「皇帝」の称号を創造した秦の政王は、自ら三皇五帝を超えるものとして「始皇帝」と称しました。紀元前三世紀晩期のことです。

 「天皇」という日本列島での最高位の称号は、その漢風な字態からして出典が中国に由縁すると推測できますが、その動機も意義も始めた時期も全くわかりません。天皇家の大和王朝史である『古事記』『日本書紀』『続日本紀』も、この件については何も語ってくれません。この列島を代表する王者の称号なのにです。

 恐らく天地と人間の創生期の帝王のひとり、天皇氏に因んだものではないかと推測できますが、あるいは倭国の王者が阿毎(あま=天)氏を名のっていることにも関係するのかもしれません。いずれにしても中国の皇帝(天子)に対等を主張するに等しい「天皇」を称することは、内外に波紋を投ずる重大な国家意思の表明です。自立王朝の創始を宣言する行事が催されて当然のことで、天神地袛を祀る国家祭祀が行われ盛大な典礼が挙行されて、正史に記録されるべきことです。それが大和朝廷の記録にないのです。

 もし「天皇」の称号が、近畿ヤマト政権の創造で大和朝廷だけの固有の称号だとするならば、その意義と由来、創始の時期の記録がないことなど考えられず、不思議でおかしな現象というべきことです。当家に記録がないということは、その発祥創成に関与しておらず他からの継承か奪取によるものではないか、と疑われもしかたがないことです。ということは、大和王朝の王者の称号として「天皇」が定着する前に、既に別な権力者が「天皇」を称していた可能性は排除できないことになります。

 私はここにも、前王朝(九州王朝・倭国)が存在した〝影〟を認めることができるのです。これは多元的史観による複眼的観察者としては当然の帰結で、最近の政権が質問封じに使う〝印象操作〟などという言葉では片づけられるものではありません。


▼「天子」ということ

 私が軍国教育を受けた小学校(国民学校初等科)三年までの幼少期、天皇陛下は「天子さま」でした。敗戦とともに昭和天皇が「人間宣言」をされ、新しい憲法で「象徴天皇」という位置づけになりました。戦中戦前の天皇は神さま同然だったのです。

「天子」とは「天帝の子」の意味で、天帝から地上を治める使命(天命)を授けられた王者のことです。王者に徳がなく治政が乱れると天命が革(か)えられ、王者は別な王者に変えられて王朝も交代します。これが「革命」の語源です。

 六〇七年に隋王朝に遣使をした倭国王の多利思比孤は、自分のことを「日出ずる処の天子」と称し隋の皇帝を「日没する処の天子」と表現して、隋の煬帝の機嫌を損ねました。しかしこれは倭王の単なる強がりなどではなく、立派に理由のあることだったのです。この時の倭国は既に自立して中国王朝の支配下になかったからです。

 三一六年に晋王朝は北方の異族に侵入され亡びます。王族が南遷して東晋を建国しますが、中原から北部一帯は五胡十六国の乱世を経て北朝が形成され、六世紀末まで南北朝時代が続きます。倭国は南朝を正統として六世紀初頭まで臣属してきますが、五一七年に独自の元号を建てて自立します。五八九年に北朝の隋が南朝を亡ぼして中国の統一王朝となりますが、倭国は南朝の帝業を継ぐ者としての大義名分の立場から、隋王朝に対等の地位を主張したのが「日出ずる処の天子…」の国書(外交文書)だったのです。

 こうした歴史の流れをみると、「天子」を自称した倭国の王者が中国の皇帝に対抗できる「天皇」を公称していた可能性があります。ところで「天子」を称したこの倭王が妻妾をもつ男性であるのに、この時の近畿ヤマト王権の王者は豊御食炊屋姫(トヨミケカシキヤヒメ=推古)という女性でした。ここから隋に使臣を遣わした倭国王が近畿ヤマト王権の王者ではないことが明らかになります。同時に何世紀も日本列島を代表してきた倭国がヤマト政権とは別な権力中枢であったことにもなります。従って「遣隋使は小野妹子」としてヤマト政権の実績としてきた史学界の〝定説〟など吹き飛んでしまいます。


▼「元号(年号)」のこと

 二〇一九年五月に新天皇の即位に伴い改元され、年号も新しくなります。

 これに関連する報道や解説・論評の全てが、わが国の最初の年号は六四五年の「大化」であるとしています。『日本書紀』に最初に登場した年号というだけが根拠のようです。そこには他の文献との照合・検証・公開論議の跡がみられません。

 年号には次のような意味があります。

(1)建元(元号を建てること)は中国の帝王(天子)の専権でした。時間と暦を支配統御することを意味します。

(2)臣属国や縁辺国が独自の年号をもつと、討伐の理由にされる恐れがありました。

(3)独自の年号をもつことは、その国が中国王朝の支配を離れ、自立して独自の王朝体制となったことを宣言したものとみなされます。

(4)王朝創始により建元された年号が断絶することなく続くことで、その王朝の継続が確認されます。

 もし六四五年の「大化」が本当に最初の年号であるならば、次の三点の疑問に納得できる解答ができなければなりません。

 その前後に、王朝創始と建元の詔勅やその儀式典礼の記録が全くないこと。

 七〇一年の「大宝」までの間に無年号の時代が長期間あること。

 六〇七年に倭国王は既に「日出ずる処の天子」を自称していますが、自立王朝の証しである年号がヤマト政権の記録にはなかったこと。

 鎌倉時代編纂の古文書『二中歴(掌中歴・懐中歴)』に「九州年号」と呼ばれる年代歴があります。五一七年の「継体」から六九五~七〇〇年の「大化」までの間、31個の年号が切れ目なく続き、七〇一年の大和王朝の年号「大宝」へとつながります。

 「九州年号」が九州王朝倭国が施行したものとするならば、前の三点の疑問も解けてきます。①は、倭国での記録が滅亡に際して亡佚したか、後継の大和王朝により抹殺(七〇八年の〝禁書刈り〟)された可能性があります。②は、倭国滅亡による〝政権交代〟まで切れ目なく年号が続いています。③の六〇七年は九州年号の「光元」年間で、『書紀』の六四五年からの「大化」は九州年号の「命長」から「常色」年間に当たります。「天子」に対応する年号は、九州倭国では施行されていたことになります。

 日本列島で最初に施行された年号は五一七年の「継体」です。中国南朝の帝業を引き継ぐ自負と誇りが伝わります。史学界の〝定説〟よりも一二〇年以上も昔です。


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九州年号 二中歴(掌中歴と懐中歴)


▼「天皇」という称号も「元号(年号)」も中国王朝との関係から理解しなければなりません。いずれも中国王朝の支配から自立して、独自の王朝体制を宣言する用語であったのです。当時の東アジアの国際情勢の中で、とても重要な意味をもつ政治的用語でもあったわけです。

 こうして考察を進めると、「天皇」も「元号(年号)」も大和王朝の創造ではないことが推断されます。別なところの別な王者の創造と施行、と考えられるのです。倭国(九州王朝)は、七世紀後期に介入した朝鮮半島の戦争に大敗して衰弱滅亡します。隠蔽されてきた「九州年号」が〝真実の歴史〟を証言しています。

 「天皇」の称号は六世紀に九州倭国の王者が創始して、七世紀末期か八世紀初頭に大和朝廷が〝政権交代〟によりこれを引き継いだものだろう、と多くの研究者が考えています。私もそのひとりです。従って、長い間地方政権のひとつだった近畿ヤマト王権の始祖王まで遡り、神武天皇、仁徳天皇、雄略天皇などとその時代にはなかった「天皇」号を、全ての王者につけて平気な顔をしている史学界、教育界、言論界の見識の低さに、私は失望しています。


 わが国の〝歴史認識〟は、近隣国に難癖をつけられるまでもなく、まだまだ未熟なようです。


 「天皇」と「元号」~自立王朝の創始宣言~  金澤 弘毅(札幌市)の掲載について


「ひぼろぎ逍遥」編集員 古川清久


今般、北海道の金澤さんから原稿を頂きました。

と、言うよりも、当方からお願いして掲載をお勧めしたのですが、

金澤さんとは当方のフィールド・ワークの過程でひょんなことからお知り合いになったのですが、まだ、福津市の宮地嶽神社でお会いしただけの関係でしかありません。

当然ながら、北海道という土地柄から、所謂、文献史学派の研究者のお一人と言う事になるでしょう。

さすがに、北海道から九州王朝の現場の探訪など頻繁に行えるはずはなく、勢い文献史学に向かわざるを得なくなることは必然的で、厳冬期に家の中に閉じこもらざるを得ない北の国の方のこと、それだけ文献に向かい合う情熱は高まり知識を蓄えられている事と思います。

以前、同じく九州王朝を探究する仲間として、ご著書を頂いてもおります。

まだ、通販で手に入れることは可能のようですので興味をお持ちの方は試みて頂きたいと思います。


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異説古代史疑 平成私本書紀


先方のご意向にもよりますが、今後も論文掲載をお受けできるのではないかと考えています。

今回は、本原稿の縦書きを横書きに変更して掲載する事にしましたので、原文尊重の意味からPDF版で同文をそのまま掲載しています。


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