531(前) 但 馬 (上)
20171014改訂稿(20120211)
太宰府地名研究会 古川 清久
宗像大社の辺津宮は宗像市大字田島にあります。地図を見ると深田にあるようにも見えるのですが、同神社の公式のホームページを見ても、「 福岡県宗像市田島2331 」と出てきますので、やはり田島で良いのです。
(本稿は五~六年前に書いたもののこれまで非公開のままにしていたものです。
その後何度となく但馬に入り長期間の調査を経てようやく公開できるところまで漕ぎ着けました。
当時、本稿を故)百嶋由一郎氏にお見せし、多くの付箋を頂き添削を受けましたが、それを理解できるまで時間を要したのでした。今般、新たに編集を加え公開する事にしたものです)。
このため、初期の原稿にかなりの手を入れたものになりましたが、基本的なエッセンスは変わりません。
まず、宗像大社周辺の地図を見て頂きますが、鐘崎、黒崎、岡垣、田島という地名が確認できます。
地図は昭文社の「アクセルA4九州道路地図」一九九〇年
現在、普通に参拝している宗像大社の辺津宮は海岸から二キロほど後退した場所にありますが、それは、陸化が進んだからであって、この神社が成立した時代には相当奥まで海が入っていたはずです。
つまり、田島と呼ばれる沖の小島の形状もあり、そこに宗像大社の原形が存在していた可能性はあるのです(ただ、呼子の田島神社が起源かも知れません…)。
ここで玄界灘沿いに西に目を転じると佐賀県の東松浦半島に呼子(唐津市)があります。
秀吉の朝鮮出兵のための出船基地であり背後の台地に名護屋城が築かれたことで良く知られていますが、この呼子の港に壁のように蓋をし、湾内を穏やかに鎮めている加部島(これも恐らく壁の意味でしょうが)に鎮座するのが、式内社(旧国幣中社)の田島(田嶋)神社(たしまじんじゃ)です。
確認するまでもないことでしょうが、祭神は田心姫尊、市杵島姫尊、湍津姫尊であり、宗像大社に祀られる沖津宮の田心姫神、中津宮の湍津姫神、辺津宮の市杵島姫神と完全に対応することから、この田島神社の名は宗像大社の辺津宮が鎮座する宗像市田島から付されたものであることが容易に推察できます。
ついでに言えば、唐津市の「湊」「岡」も呼子の田島神社から船で行けば直ぐのところですから、宗像の「神湊」から付されたものの可能性なしとはしないでしょう(ベクトルが宗像⇔呼子はなお不明)。
地図は昭文社の「アクセルA4九州道路地図」一九九〇年
引き続き福井県敦賀市の地図をご覧頂きたいと思います。
宗像市の「鐘ケ崎」という地名が、朝倉氏の居城金ヶ崎城があった敦賀市の金ヶ崎になっており、付近の「黒崎」や「岡」という地名が、宗像から敦賀にも移動し順番に並んでいる事がお分かりになったと思います。
してみれば、その中間地点の兵庫県の但馬地方の「但馬」も呼子の壁島の田島神社の「田島」や宗像大社の大字「田島」が地名移動(当然にもその一族も移動しているのですが)したものである事が分かると思います。甘木朝倉周辺の地名が奈良に移動しているなどと騒いだ学者がいましたが、それどころではないのです。この、大字、小字レベルではなく、「但馬」という旧国の地名にまで高まっている事は、その事だけで、安曇族(鐘ケ崎は宗像族ではなく安曇族であるため)、宗像族という九州王朝の海軍を支えた人々が大挙して日本海沿いに移動している事がご理解いただけるのではないでしょうか?
お疑いになる方もおられると思いますので、もう少し申し上げれば、兵庫県養父市の市役所の傍には「朝倉」という大字が残り、「朝倉」という交差点までがあります。
さらに山に向かえば、「天空の城」で知られた朝来市がありますが、これも朝倉氏にちなむ地名であり、事実、養父市では朝倉氏が弟の日佐氏に養父一帯を渡し東の敦賀に進出した拠点であったとされています。
どうも、安曇族、宗像族を海軍とすれば、この「朝倉」地名を持ち込んだ人々こそ九州王朝の陸軍を支えた氏族だったのではないかと考えています。
さて、あまり知られてはいませんが、宗像大社には奥ノ院ともいうべき高宮(これも福岡市高宮と関係があるでしょう)がありますが、ここには出雲大社同様、稀人の間のような扱いを受けたものがあり、百嶋由一郎氏からは本当の祭神としては大国主命が祀られているとお聴きました。
事実、隣の岡垣町手野(国造神社がある阿蘇と播磨にも手野=テノ、タノという地名があります)には大国主神社がありますが、参拝殿が西(つまり宗像大社の方角)を向いていたのが印象的でした。