スポット183(後) 赤村の超巨大古墳 ⑤ から内倉武久 朝倉市山田の巨大円墳「継体天皇陵」説を考える
20180525
太宰府地名研究会 古川 清久
⑥宮内庁、禁書「日本(旧)記」を秘蔵?
今回、「三島の藍の陵」の探求からなぞがひとつ消えた気がする。「宮内庁」はこの古墳が「継体天皇」の御陵であるという何らかのデータを持っていたのではないかと言うことだ「先刻ご承知」だったのではないか、と。
「大和政権」が列島の支配権を奪還?し、初めて年号を建てる権利を得た八世紀。「歴史的偽書」である『日本書紀』を編纂するにあたって、藤原不比等政権は容赦のない「史書狩り」を行っている。『日本書紀』、『続日本紀』はさらりとこう書く。
『日本書紀』持統天皇五(691)年八月
十八氏、大三輪、雀部・・・巨勢、膳部、大伴、紀伊、平群、羽田、阿部、・・・穂積、阿曇に詔し、その祖などの墓記を上進せしむ
『続日本紀』元明天皇和銅元(708)年
山沢に亡命し、禁書を挟蔵して百日自首せねば、また罪すること初めのごとくせよ
「亡命」は八逆の罪のうちもっとも重い罪で、死罪は免れない。要するに「禁書を提出しない者は殺す」と言っているのである。政権の必死さが伝わってくる。
没収したこれら「墓記」や「禁書」≪おそらく九州倭(い)政権の史書『日本(旧)記』などであろう≫は今どこにあるのか。筆者はこれらの書物はまず間違いなく写本を重ね、宮内庁書陵部の書庫の奥深くに所蔵されているとみていた。
「九州倭(い)政 権」がかしましく人々の口からでるご時世になった。「もう捨てておけない」と宮内庁の職員がこれら「没収書」を読んだ可能性を想像する。そこには「継体天 皇」の真実に近い話が書かれ、「陵墓」の所在地が「筑紫の三島の藍」とはっきり記載されていた。「宮内庁が横やりをいれた」背景にはそんな事情が隠されて いた可能性があるのではないか。
⑦近辺に「都」?の遺構も
「筑紫の三島」近 辺にはどんな古墳、遺構が発見されているのだろうか。まず指摘したいのは、この地域にもう一基「巨大円墳」があるらしいことだ。「長田大塚古墳」に勝ると も劣らない巨大な円墳だ。付近の人は「宮地嶽」と呼んでいる。墳丘?の頂上部が削られて宮地嶽神社の境内に造りかえられているようだ。
「長田大塚古墳」 から約三・五キロ北西の烏集院(うすのいん)にその堂々たる姿でそびえている。ここは背後の丘陵とあわせて前方後円墳との見方もある。しかし、“前方後円 墳„の前方部にあたるところに小型の前方後円墳が造られ、大小の円墳約四十基がほとんど破壊された状態で放置されている。柿の木畑のあちこちに石室の石が 転がっている。
朝倉市の西隣、筑前町にはこれも九州最大の前方後方墳・焼ノ峠古墳(全長約四〇メートル)もある。「宮地嶽」の周辺や筑前町、筑後川向かいのうきは市一帯は濃密な彩色、装飾古墳地帯でもある。
「長田大塚古墳」の東側、志波(しわ)地区では礎石建物を含む大規模な官庁街の遺 構が発見されている。「七世紀後半の謎の遺構」とされているが、九州の遺構についての放射性炭素による年代測定の結果から、九州の土器は近畿より二百年、 ないし三百年ほど古いことがわかっている。「七世紀後半」でなく「五世紀後半」の遺構であるとすれば「継体時代」にぴたりと重なる。「継体天皇の都」の遺 構である可能性はきわめて高い。
⑧杷木町町史の記述は実に興味深い。杷木神社の社伝についてこう記す。
「朝倉の宮」杷岐 神社社記によれば、「第二十六代、継体天皇の御宇、筑紫の磐井らが謀反を企て、異国の御貢物を奪い取る。朝廷詔旨を下し麁鹿火大連を大将とし官軍筑紫に進 発し、筑後国にて大連磐井と相戦う。三井郡にて官軍大いに利を得て、遂に磐井を討伐し、(物部)麁鹿火(あらかひ)即ち凱旋せり。然るに磐井が残党青人ら 土蜘蛛の余類と力をあわせ、心を均しうし豊前筑前の間に蜂起す・・(中略)・・然るに(継体側の)大将(田中)鷲丸謂らく、上座郡には大己貴命、武甕槌命 御座しますと聞く。彼の御神の冥助を頼み奉らんは如何にと云う。ここに池田の池と云う奇異なる池あり。その池の汀に高棚を構え、真榊を立て、端出縄を曳き、大幣を捧げて勝利を祈る。・・(中略)・・是によりて青人、土蜘蛛ら此処かしこに滅亡し両国立所に平定す。天皇大いに叡感・・(中略)・・杷木大明神に宇津志馬(うつしうま)二匹、弓箭幣帛を捧げられ、即ち物部宿祢高古を祭主とし朝敵退治の蟇目(ひきめ)の射法を勤めしむ。
恒例の祭祀は、この時から始まれり。大永二年(一五二二年)神坂源太夫藤原貞家 誌之
文の主役は「継体 天皇」である。文中の「池田」の地名は杷木神籠石城の西側一帯に今も残る。「高棚」はおそらく「高柵」の誤写であろう。「棚(たな)」では何のことか意味 不明だ。「柵(さく)」であればずばり「城柵」のことである。八世紀以降に大和政権が東北に設けたいくつかの城もそれぞれ「越国の淳足(ぬたり)柵」、 「都岐沙羅(ときさら)柵」「磐舟(いわふね)柵」と呼ばれた。佐賀県武雄市の「おつぼ山神籠石城」の発掘調査でも、土塁の前面にずらりと防御用の木柵を めぐらせていたことがわかっている。
社伝の意味するところは「対磐井戦争のとき三島の継体大王が(神籠石)城柵を築き戦勝を祈願した」となるのだろうか。時は六世紀始めということになる。「継体天皇」が「筑紫の三島」にいた傍証と考えてよさそうだ。
⑨「継体天皇」は熊曾於族か
ここで注意しなければならないのは『(新撰)姓氏録』の記載である。前に記したように
『「三嶋宿祢」は、神魂命十六世孫、建日別命の後(と記載されている)。あにその裔(子孫)の居する所ならんか。
と書く。「建日別(たけひわけ)は『古事記』国土生成の項に「熊襲国(の支配者)は建日別」とある。「筑紫の三島」にいた「三島の宿祢」とそのともがらは「熊曾於族」だというのだ。「継体天皇」はこの一族の居所で君臨していたことになる。
確かに朝倉町内の彩色古墳や隣接の筑前町仙道古墳(国指定史跡)には石室の内部に鮮やかな朱色で「太陽」や三角文、矢入れ(ゆき=靫)などが描かれている。また杷木(杷岐)神社の鳥居に掲げられた神額は渦巻文を主体にした特異なデザインだ(写真)。これらの文様は熊曾於族や紀氏の渡来元であった中国大陸にその淵源があることは民俗例でも明らかである。矢入れは弓矢をもっとも重要な狩りや戦闘の道具と位置付けた熊曾於族のシンボル的装飾だ。多くの装飾古墳に描かれている。
また朝倉市の北端、十石峠付近の集落には熊曾於族が中国大陸の少数民族と共通して持つ「犬祖伝説」も伝えられている。「民族の祖先は犬と結婚した女性である」という話である。『新撰姓氏録』の記載通り、熊曾於(熊襲)族のにおいが濃い。
ということは、『古事記』にいう「継体天皇・袁氏?」も熊曾於族の流れをくむ勢力の一人であった可能性がきわめて高い。
⑩「継体」勢力の源泉は鉱物資源?
井上氏は現地踏査 を繰り返すうち、さらに重要な「発見」をしている。付近一帯に数多くの銅鉱山、スズ鉱山があったことだ。明治以降は操業を停止しているため今はその存在を 知らない人ばかりだ。が、江戸時代まではそれぞれ操業していたらしい。鉱石を選別、洗浄した廃液を貯める調整池の後も残っている。
銅鉱山は朝倉町字 (あざ)山後から城、鬼が城、矢野竹、上秋月まで点々と存在していたらしい。福岡市で地震があると、その二,三日後には必ず朝倉でも地震があることを不思 議に思っていた井上氏は、福岡市中心部にある警固(けご)断層が朝倉と連なっているのではないかと考えた。断層には鉱物資源が露出しているケースが多い。 そこで古老らに話を聞いて回り、鉱山群の存在を確認したのだ。
もちろん、これらの鉱山群が五、六世紀に採掘されていたかどうかは今のところ不明である。ただ、上 秋月八幡神社・宮崎安雄宮司は神社の伝承として「景行天皇が弓削(ゆげ)の連(むらじ)という男を呼び、白銀(スズ)を採取させた」という話を『朝倉郷土 史研究会会誌』に書いている。「弓削連」は石古呂別命(いしころわけのみこと)饒速日命(にぎはやひのみこと)を祖とする人という。この話と関連があると 思われる地名字「弓削」も近くにある。「景行天皇」は四世紀前半ごろの「天皇」と考えられ、管見では佐賀県鳥栖市周辺に都を置いていた大王だ(注2)。すでにこの頃から鉱山の利用が始まっていたということか。
熊曾於族は弥生時 代前、中期ごろ、山東省や江蘇省北部から相次いで渡来(逃亡)してきた人々である。彼の地では鉱物の製錬、鍛冶技術は確立されており、この技術をしっかり 身に着けていたことは間違いなかろう。「旧体制をひっくり返して新しい体制を造った継体天皇」の力の源泉のひとつが鉱物資源の保有と活用、それと筑後川中 流域の支配権であったことは想像に難くない。川を制するということは、当時の交通路を制するということである。
⑪「継体」の出身地は筑紫の「福井」
余談に類するかも しれないが、『日本書紀』は「継体天皇」の出自を「越前の国」、すなわち現在の「福井県」であったと書いている。杷木の東側には宝珠山村(現東峰村)があ る。宝珠山村は明治二十二年ごろ「宝珠山村」と「福井村」が合併してできた。お隣は大分県日田市である。
「福井」は「井戸から米が吹き出した」から「福井」というのだ(宝珠山村史)と説明されている。しかし、金属関係の研究者は「福」は「吹く」である例が多く、タタラに送る息や風を意味するという。「伊福部」など鉄生産に関連した氏族に「福」がついている。
確かに「福井村」にも「鍛冶屋」という小字がある。鉄器を作る伝統が息づいていたのではなかろうか。村の西側には「赤い酸化鉄が多い村」を意味する「赤村」もある。
宝珠山村にはその名にちなむ「宝珠」(隕石であろうとされる)を御神体とする「岩屋権現」があり、この神や英彦山の神を招来したのは「継体天皇」であるという。
ここが「古事記」にいう「袁本杼=継体天皇」の出身地かもしれない。そして大和政権が話をでっちあげるに際してその出身地を「越前福井」にしたのかもしれない。
さらに「三島の宿祢」の進出先である茨木市にも「大字福井」があった。安威川の西側一帯がそうである。新しい居住地に故郷の地名をつけたのであろう。
注2 「景行」が九州巡行から帰って「遊んだ」のは鳥栖市西酒殿町の「酒殿の泉(温泉) で、景行の都は巨木に面した「纒向(真木に向かった)場所」、すなわち『記紀』や『肥前風土記』に記される筑後川下流域の巨木伝説に相対する場所にあった ことなどによる。注1参照。(二〇一五年七月)
この項①②は東京「多元の会」、「九州古代史の会」の両会誌に掲載したものに加筆したものである。
今回は、内倉武久氏のご好意で「うっちゃん先生の古代史はおもろいで」のナンバー 013~014
013「継体天皇」の御陵は福岡にあった① ―杷木神籠石誕生に一役か―
014「継体天皇」の御陵は福岡にあった② ―継体天皇も熊曾於族か― を転載させて頂きました。
次は ひぼろぎ逍遥223~224「内倉武久氏による朝倉市長田大塚古墳=継体陵説と杷木神社縁起との整合について 」上下の問題を再度考えて見たいと思います。
本当にようやくですが、青森~東関東に掛けて4件、愛知県2件、高知県1件、大阪府2件、大分県5件、福岡県11件の合計25件のグループが形成されました。
この外にも、鹿児島県、福岡県、山梨県…からも新規に参加される方もおられ検討しています。
人材を残す必要から、テーブルに着いた神代史研究会も研究拠点として残す方向で動いていますが、今は多くの研究者の連携を拡げ、独立した研究者のネット・ワークを創り、現場に足を運んで自らの頭で考えるメンバーを集めたいと考えています。そのためには少々の雨も寒さも厭わぬ意志を持ったメンバーこそが必要になるのです。勿論、当会にはこのブロガーばかりではなく、著書を持つ人、準備中の人は元より、映像を記録する人、神社のパンフレットを集める人、伝承を書き留める人、blogは書かないものの、徹底してネット検索を行い裏取りを行う人、ただひたすら探訪を続ける人と多くのメンバーが集まっているのです。全ては95%が嘘だと言いきった故)百嶋由一郎氏による神社考古学のエッセンス残すためです。
なお、「肥後翁のblog」」(百嶋テープおこし資料)氏は民俗学的記録回収者であって民俗・古代史及び地名研究の愛好家 グループ・メンバーではありませんがご了解頂いています。この間、百嶋神社考古学の流布拡散に役立っており非常に感謝しております。
ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥(跡宮)は現在二本立てブログで日量1100~1200件(年間45万件 来年は50万件だ!)のアクセスがありますが、恐らくグループ全体では最低でも年間200万件のアクセスはあるでしょう。