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550 2018年を前にして「里芋正月」を考える

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550 2018年を前にして「里芋正月」を考える

20171228

太宰府地名研究会 古川 清久


 今、550本目の「ひぼろぎ逍遥」の原稿を書いています(公開時点では610本目)。

「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)も510本台ですので、スポット版、ビアヘロ版と併せ、これまで1300本近いblogを書いてきた事になります(オンエアは1100本程度ですが、本に直せば2530冊にはなるでしょう)。

 正直言って、月間30本程度のblogを書き続ける事は容易ではないのですが、一面、自ら思っていること、考えていることを書き留め継続して公表できるという事は鬱積した思いを解消でき、多少とも将来の研究者、探索者への一助にはなるであろうと考えています。

 今期の年越しは歯の治療や研究会のスケジュールに追われ、なかなか長期の遠征調査に出る事が出来なかったため、懸案の土佐東部の物部川流域の調査や隠岐の島の神社調査も思い立てず、しばし募る思いを充填しているところです。

 これから新年を迎えるとしても百嶋神社考古学を軸とする神代史(実は本当の古代史)研究は研究者のネット・ワークを拡げ多くの発見を得られる予感もしています。

 さて、ここでは今後の研究テーマでも話そうかとも考えたのですが、先日、友人の研究者から大量の里芋を貰った事から里芋の話を書くことにしました。


550-1

幸いにも標高450メートルもの高地にある研修所は気温が低い為、カボチャや里芋のようなものは新聞紙にでも包んで日陰に置いておけば保存が効く為悪くなる気遣いは全くありません。

 とりあえず皮を剝いて多少水に晒してこんにゃく(しらたき=糸ごんにゃく)とかまぼこで炊いてしょうゆ味で食べましたが、念頭にあるのは北関東で良く食べられている秩父の「おなめ」(関東風大麦大豆味噌)を買ってきたまま使っていないため、次は無理してでも古風な芋田楽に仕立て食べる事にしようと思っているところです。


550-2

ここで、少しおでんの話をしたいと思います。

 まず、「田楽」と「おでん」に関係があるとお考えの方はあまりおられないと思います。

 ご存じの通り、研修所は大分県日田市の天瀬町の五馬地区にありますが、阿蘇の外輪山の北の一部と言っても良いような高所にあり、阿蘇の味噌田楽も比較的に目にする所です。

 「おでん」とは「お田楽」の短縮形と考えられそうですが、では「田楽」とは何なのかと考えてしまいます。田植えの田楽舞からとの話はあるのですが、田楽舞から食べものへの展開が繋がらないのです。


550-3

味噌田楽


勿論、囲炉裏(いろり、ゆるり)で味噌を付け焼きながら食べる郷土料理ですね。


50-4

おでん


 野田の醤油が普及するのは江戸の後期からですが、醤油をふんだんに使い作られるのがおでんですね。


「味噌おでん」~「おでん」へ


 まず、通常のおでんと味噌田楽に共通性はあるものの、形態は全く違う物である事は明らかです。

しかし、余った素材は元より、揚げ豆腐、コンニャク、椎茸、大根、里芋…とあらゆるものを味噌、醤油で食べることは共通しています。ただ、六十年ほど前までは、「おでん」と言えば「味噌田楽」が大半であった時代が存在していた様なのです。

理由は簡単で、醤油は液体ですから味噌に比べて運び難く、車が普及するまでは、樽や一升徳利で運ぶとしても山奥の集落は塩さえも容易には調達できなかったことから山間地は元より、都市部を除き普通の農村部でも醤油はなかなか使えなかった時代が続いていたのです。


野田の醤油醸造 永禄年間に飯田市郎兵衛が甲斐武田氏に溜醤油(たまりじょうゆ)を納め、「川中島御用溜醤油」と称したのが最古とされる。1661年(寛文元年)に上花輪村名主であった髙梨兵左衛門が醤油醸造を開始し、翌年(1662) に茂木佐平治が味噌製造を開始した(茂木はその後醤油製造も手がける)。

その後、江戸の人口の増加と利根川水運の発達と共に野田の醤油醸造は拡大する。 1800年代中頃には、髙梨兵左衛門家と茂木佐平治家の醤油が幕府御用醬油の指定を受ける。

1887年(明治20年)に「野田醤油醸造組合」が結成された。1917年(大正6年)には茂木一族と髙梨一族の8家合同による「野田醤油株式会社」が設立され、これが後にキッコーマン株式会社となった。『亀甲萬』は茂木佐平治家が使っていたものである。このときに野田の醤油醸造業者のほとんどが合流しているが、キノエネ醤油のように別の道を選んだ醸造者もあった。

ウィキペディア(20171228 12:19による


550-5

 この貴重この上ない醤油は、船で運ぶ事ができる範囲ではかなり普及しますが、大阪のような船便の発達した所でさえ、戦前までは醤油による関東風醤油「おでん」(関西では「カント炊き」=関東風おでん)は一般化していなかったのです。

このことを考えると、上方落語の名人中の名人だった故)桂 米朝師匠による噺をついつい思い出してしまいます。

この事実を現代に良く伝えているものに「カント炊き」の噺がありますのでご覧ください。


「味噌をつけて豆腐を焼いた豆腐の田楽は、全国的にもあまりなじみのないものになりましたが、昔の上方では、おでんと言えば田楽のことを言いました。京都南禅寺あたりでは、この豆腐の味噌田楽が名物として売られています。

関東風のダシで煮込んだおでんは、関東煮(関東だき、カント炊き)と言っていましたが、これもあまり言わなくなりました。」…


 正確な題名としては「馬の田楽」という噺でしたか…。「カント炊き」と言い、「常夜灯の南天さん」の話と言い、民俗学的話が凍結されています。味噌田楽が一般的だったが故に、関東風味噌田楽(おでん)を「カント炊き」として区別したのでした。


550-7

まぁ今日はさっきもちょっと聞ぃていただきましたけども「田楽」といぅ噺「おでん」が近頃は関西でも「おでん」と言えば全部煮込みのおでんになりました。昔はあれ「関東煮(かんとだき)」言ぅたんですな。

 関西は全部味噌であしらいます。関東のほぉはとにかく煮込むんですな、煮込みのおでんといぅんですな。あれを関東式やちゅうんで「かんとだき、関東煮」とわたしら言ぃましたあれ。

 昭和二十年代やったと思います、新世界のほぉでね、カタカナで「カント煮(だき)」ちゅう店があった。東京の学生さんが「哲学風の店がある」感心して帰ったことがある。大阪の新世界は偉いとこやと思たでしょうなあれ。

 それから三十年代の、これみな古い話ですが、東京の銀座裏に「関西風関東煮」ちゅう店があった。これも面白い店でんなぁ、つまり味が関西風やといぅことなんですね。

 この頃は東京でもあの、うどんのダシ綺麗になりました。昔は真っ黒けの醤油のね、色そのままみたいな「あっちのうどん喰えんで」て、よくこっちの人言ぅた。近頃は東京もみな綺麗になりましたです。

 その時分はおでんのダシなんかでも、だいぶこっちと向こぉとは違ごたんですな、それを「関西風の味付けである」といぅんで「関西風関東煮」お初天神のところに「関西煮(だき)」ちゅう店がありましたな「常夜灯」いぅてね。

もぉ無くなったんですかな、ひょっとしたらもぉ無くなったかも、あそこあれ境内を改築しはるんでね、あの辺の店みな無くなったそぉでございます、あれも美味しぃおでん屋でございましたがな。

 まぁ、味噌をつけて焼くのが「おでん」でございます。そぉいぅその時代は子供の遊びなんかでも東西違ごたそぉでございましたし、何もかもが向こぉとこっちと大変に違ごたんです。そらその時代には大阪の落語を東京へ輸出できたんですな。

 ちょ~どヨーロッパの話をこっちへ持って来るぐらい、それが商売になった。あっちの話をこっちへ持って来るといぅ。子供のおもちゃ、駄菓子屋で流行ったちゅうとすぐ東京で真似をする。東京で流行った、こっち持って来たら商売になったといぅぐらいの、それぐらい東西が違ごてたよぉでございますが。

 あの、いま「常夜灯」で思い出しましたが、あすこの関西煮の店のオヤジさんがね、昔の売り声が自慢でした。南天さんといぅ方もよぉ知ってました。

森繁久彌さんが常夜灯のオッサンにいろいろ聞ぃてね、録音とったのがございます。

 そん中にこの「おでん屋の口上」といぅのがある。南天さんからわたし教えてもろたのと、それ聞き比べるとちょっと違ごとりましたがな、のんびりした時代やったんですな、みな夜その、味噌のほぉのおでんですな、それをこぉ、蒟蒻に味噌を塗って売る。甘いお味噌でしたな。

 こぉ荷車引っ張って、夜、ちょっと寒いよぉな時期ですわなぁ……

♪おでん屋の口上=おで~んさん、お前の出庄(でしょ~)はどこじゃいな、わたしの出庄は常陸の郡(くに)、水戸ぉさまの御領中山育ち、郷(くに)の中山出るときは、藁のべべ着て縄の帯しめ、鳥も通わぬ遠江灘

(とおとぉみなだ)いろいろ苦労をいたしまして、落ち着く先は大阪江戸堀三丁目、播磨屋さんの店にと落ち着いて、手厚いお世話になりまして、別嬪さんのおでんさんになろぉとて、朝から晩まで湯に入り、化粧(けしょ)してちょいと櫛差して、甘いお味噌のべべを着る、おでんさんの身請けは銭(ぜぜ)次第、おでん熱あつぅ~~ッ

 これでひと切りでんねん、これ聞ぃてからみな銭払ろて買ぉて帰ってきた。

そらのんびりしたもんでんなぁこれ。こんなこと言ぅておでんを売って歩いてた。

 こんな口上はわたしら知りませんが、やっぱりあの甘いドロッとした味噌のかかった蒟蒻、ホカホカ湯気が立って結構なもんでございましたがな。

【上方落語メモ第2集】その80 による


 南天さんの名調子は聴けませんが、米朝師匠の噺は今でも聴くことができます。実に有難い話です。

 今でも、その「おでん」を関東風と表示している好例がありますのでご覧下さい。


550-8



550-9現在でも明治のおでんの素のデザインには「関東煮」と書かれているのです。

 つまり、関東風の醤油おでんが簡単に作れるとの振れ込みであり、味噌おでんではありませんよとばかりに、今も主張し続けているのです。

 もはや、関東風と断る必要性もないほどまでに醤油によるおでんは一般化していますが、味噌田楽が串に刺されて囲炉裏で炙られていた事の延長上に、おそ松君のチビ太が持っていた串に刺されたオデンもあったのだと思うのです。

 醤油で炊かれたおでんは必ずしも串を刺す必要はないはずなのですが、もしかしたら炙って味噌味で食べたい人と、関東風おでんを食べたい人とが両方いた時代を反映していたのかも知れないのです(つまり、ネタの仕込みの問題ですが、焼き鳥屋などのおでんならそのまま味噌田楽は焼けるのですから)。

この移行形態と言うか中間形態の群馬の「味噌おでん」もあるのです。

 ともあれ、今日は「おなめ」をぬった里芋を炙って(逆ですかね)北関東風の味噌田楽を食べようと思っています。いずれにせよ、津々浦々まで醤油が普及するのは車が一般化する戦後の事なのです。

 それまでは囲炉裏が一般的な寒い地方や阿蘇などの高冷地(釜戸ではなく暖房と煮炊きを共用する文化圏)では味噌田楽が相対的に残り、今や全く別の食文化の様に理解されるようにさえなったのでした。

 さて、里芋正月の話に入りましょう。

 民俗学では良く知られたテーマですが、「芋名月」と併せ「里芋正月」という概念が存在します。

 このことについてふれようとしたら、あまりにも完璧で明瞭な解説がネット上に公開されており、恥ずかしくなり、書く意欲が全く失せてしまいました。しかし、JA愛知東のサイトには感服しました。

 奥三河の名倉村(現設楽町)を訪れる機会があった…と、「忘れられた日本人」には奥三河話が出て来ますが、宮本常一も強く意識していたようです。もう、これだけで十分でしょう。


550-9

日本では、イモと呼ぶのはサトイモをさす。現在栽培している芋類は、それぞれの固有名詞をつけ、サツマイモ、ジャガイモ、ヤマイモと呼び区別をする。固有名詞で呼ぶ理由は、サツマイモ、ジャガイモは、日本の江戸時代に伝来した作物であるからだ。民俗学書によると、東北地方は戦前までは、芋とはヤマイモをさし、サトイモは固有名詞をつけて呼んだという。サトイモは熱帯地方の原産で、寒冷地の東北にサトイモが普及したのは近世であり、それ以前はヤマイモが栽培されていたからだ。

祭祀や節句、正月の祝いで食べる食品を儀礼食という。この祝いの食品は、時代や地域、貧富の差によって大きく異なる。稲が日本に伝来した縄文時代の末期以後は、神事の祝いの食品は、米の三品、お神酒、餅、赤飯を食べる風習が広まった。この慣習は、稲作先進地のタイやカンボジアに発生し、中国で儀礼化されて日本に伝わった。


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サトイモの田楽


正月や村の祭で神供するのは元来は、生物の野菜や魚類、木の実などで、祭典を終え調理して食べた。

近年の正月の「オセチ」料理は、事前に調理して神棚に供えるが、これは本来の正式な祀り方ではない。今も村祭の神事は、生野菜のダイコンやサトイモ、ヤマイモ、生魚らを供えて祝詞を奏上する。

神に供えた食物を食べると、人の体内に神の霊力が取り入れられ、病気を防ぎ、長寿になるとの信仰がある。私は現在の日本の儀礼食を考察して、稲作以前の畑作の作物も祝いの食品となっていると思う。

米の他の「儀礼食」に、サトイモ、ダイコンらも用いられるが、稲作農耕民は、サトイモとダイコンを軽蔑する。イモニイ、イモネエは野暮なことの差別語で、ダイコンは芸の下手な役者、ダイコン足はデブで不恰好な足への差別語である。

歯固めは正月と六月の年二回、固いものを食べ、歯を丈夫にして長寿を願う伝統行事である。正月に神供した鏡餅を乾燥させて保存し、六月一日に食べる。奥三河や信州は、正月に栗を茹でて乾燥させた勝栗、干柿、榧の実、豆などを煎って食う。栗とドングリは、縄文遺跡より大量に出土するが、採集生活時代の主要な食糧であった。正月の栗金団は、栗の料理品として古代からの高級な食糧であった。

全国には「餅なし正月」といい、正月に餅を食わず、サトイモやヤマイモや麺類など、特別な料理を作り、餅の代用をする地区が数百もあるという。そうした地区は、餅を全く食わないわけではなく、正月や小正月が終わってから食べている。正月に餅を食わない理由を下記のように説明する。

一、禁を破って密かに禁忌の餅を正月に食べたら、疫病が発生したので、以後は正月に餅を食べない。

二、祖先が戦いに破れ、逃れた日が正月であり、祖先の苦労を偲び、餅を食べない。奥三河には、この禁忌を守る家がある。

三、稲の価値を否定し、それ以前の焼畑の作物である栗、小豆、大豆、蕎麦などの価値を強調して、祝いの食品とする。この説は山深い地域に伝わる。

四、神祭に餅を供えず、芋を供える村が多々ある。民俗学者は、これを「稲作文化拒否派」と呼ぶが、明治政府が「稲穂の国」神話史観を国民へ懸命に浸透させようとしたが、食文化の自立制を崩すまでには至らなかったと指摘する説がある。

五、節句の祝いには、畑作物を特別に料理して祝う傾向があり、黍の団子やチマキ、オハギなどがある。

奥三河でよく知られた料理に田楽がある。田楽焼とは、元来は平安時代の貴族が豆腐を長方形に切り、串に刺して両面を焼き、さらに味噌を塗り、再び焼いて賞味したのが全国に普及したものをいう。奥三河では、芋田楽、串芋や蒟蒻田楽がよく知られている。江戸時代には、鳳来寺や東照宮の門前宿場では、五平餅と並んで名産品とされたという。

浜松市佐久間町芋掘の日月神社の秋祭は、参加者に芋田楽を提供する。奥三河の豊根村では、サトイモが祝いの行事で米と同等のように扱われる。サトイモはニューギニアやインドネシアではタロイモと呼ばれ、主食にする人々がいる。熱帯ではタロイモは、年中水田で栽培するが、栄養的にはデンプンが多く、高カロリーで、過食は肥満になりやすいという。

日本のヤマイモにあたるのはヤム芋だ。この芋は日本のスパートロロ種に類似し、ニューギニア人は、蒸し焼きにして食べる。日本人が正月に餅とともにサトイモを食べるのは、親芋と子芋の関係、つまり子孫繁栄の縁起品として食べるという。数の子も同様の意味合いから、正月の儀礼食になっている。

月見に「芋明月」といい、蓑にサトイモをのせて月に供えたり、盆にサトイモの葉に祖先への供物であるソウメンをのせ、黄泉に帰る祖霊の食糧として川に流す行事がある。サトイモは正月の神の供物以外に、様々な儀礼食である。


 もう文章を書くのはやめにして、里芋の皮でも向いてガメ煮の準備でもしようと思うものです。


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国家の犠牲となり棄民とされた人々の正月を思えば敗残者の餅なしの里芋正月を考えざるを得ないのです


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