552 淀 姫 ②(後)
20190723
太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久
⑩ 河下大明神(なぜか川下にある河上の淀姫神社)
肥前国の一宮であり「淀姫さん」として知られる川上の淀姫神社は、古くは河上神社と呼ばれていた。事実、大正十五年の「佐賀県神社誌要」においても「河上神社」としている。
もちろん、この神社の鎮座地が大和町大字「川上」であることから、社名はその地名から付されたものとすることは容易いが、どのように考えたとしてもこの地が「川上」と呼ばれるのは奇異である。
まず、淀姫神社を洗う嘉瀬川は、古くは佐嘉川と記され(「肥前国風土記」)、背振の大山塊の懐から流れ降り深い渓谷を刻みながら佐賀平野に噴出している。
平地に出た後、現在は佐賀市街地の西側を流れ有明海に注いでいるが、この流れになったのは江戸期に成富兵庫茂安が佐賀城下を安全にする為に石井樋(いしいび)と呼ばれる制水ダムを築造し放水路として嘉瀬川の流路を変えたからであり、それ以前は平野に出た後、東方に流れていたと考えられている。そのことを示すのが「佐賀県史(上巻)」の「嘉瀬川河道変遷図」である。
つまり、奈良時代の嘉瀬川は、大和町総座の肥前国府辺りから東南に流れ、現在の巨勢(こせ)川に流れ込み、佐賀江を東に流れ筑後川に注いでいたのである。
佐賀県の紀元前後の波際線は、ほぼ、海抜四、五メートルの等高線と推定されている。佐賀市の南側を東西に走る国道264号線とほぼ一致し、この付近には多くの貝塚が見つ
かっている。
ただ、その自然陸化により生み出された土地も、大半は頻繁に高潮の影響を受け葦が繁るような低湿地が断続する土地でしかなく、嘉瀬川(佐嘉川)が平地に遭遇した辺りの河上神社一帯は、当時においても、少し下れば海に遭遇する河口のような土地だったのである。
川上の地は「北肥戦史」で言う肥前山内(サンナイ)の地ではあるが、肥前の大平地(佐賀平野)との接点をなす一角であり、同時に脊振山系を駆け下った水がようやく緩やかになる場所として平野部の大勢力と接触する要衝でもあった。
このような地が川上と呼ばれる理由は一つしかない。
それは、上流域の川上集落からの地名移動であり、新川上(北海道の新十津川と同じ)こそが、その本質と考えるのが地名研究上の常道であろう。
ただ、これはそう考えることができるといった程度のもので、上無津呂の淀姫神社が、河上、与嘉町の淀姫よりも五十年ほど古い創起縁起を持つことの多少の説明ができるということから持ち出したものでしかなく根拠があってのものでないことはお断りしておく。
ただ、⑥ A)でも書いたように、川下に降った川上神社がいわゆる河上神社と考えたい。
⑤ 神宮寺としての実相院
古来、多くの神社(氏族)は、その時々の権力のあり様に合わせ、時として寺院を装い、または習合し、或いは神社に復し、かつ、祭神を入れ替え、または隠し、新たに呼び込み、併せ祀し生き延びてきた。
それは、ほんの百五十年前も同様で、明治維新により、大規模に仏教から神道への支配装置の切り替えが行なわれた(同時に神仏混淆の山岳修験も弾圧された)。
それどころか、我々の記憶も多少は届く程度の時期、つまり、敗戦による政治的大転換の時期においても、支配構造に組み込まれていた重要な神社や寺院ほど、自らの手で蔵書が移送され、隠され、大量に燃やされたのであった。
事実、久留米の某神社でも一週間掛けて文書が燃やし続けられたとの多くの話(証言)を得ている。
無論、そのような政治権力に纏わる話には、貴重な文書が消失すること以外一切関心がない上に、淀姫神社が何かを探るものにとっては、時として邪魔にさえなる。
しかし、これほどの祭神についての混乱が認められる淀姫神社においても、その成り立ちからこれまでの間に多くの変化が生じたのではないかとの想定が避けられず、それを無視し、「淀姫は何々以外ではありえない」と言うことは容易いが、そうすれば「淀姫」が何か、従って本当の歴史はどのようなものか、さらには自らが何者であるかを考えること自体を放棄することにしかならず、言葉の意味がないことになってしまうのである。
ここでは、宇佐神宮の神宮寺が弥勒寺であったように、淀姫神社にも同様の神宮寺が存
在し、それが、直ぐ傍の実相院であったことを確認することから始めたい。
ただ、それは河上の淀姫神社の裏の顔を探ることにはなるが、他の淀姫神社にも援用が効くか
については全く不明である。
少なくとも川下にある淀姫神社(式内社与止日女神社)に於いては、中世にはその西にある実相院が同社=河上神社の社務を司執っていたとされている(別当)ことを確認したい。
河上山實相院(じっそういん)由来
宗旨真言宗、本尊薬師如来当山は今を去る1270年前 行基菩薩が和銅五年(712)岩屋山に神宮寺を開基されたのが実相院の始まりである。それから380年後寛治元年(1087)比叡山より円尋僧正が別所一帯を開墾し河上山神護寺実相院を建立した。当時の境域は広漢数十町歩と記してある。
注目すべきはこの僧 行基である。ここで行基について触れるのは長くなるため避けるが、白村江を全力で戦った九州の勢力が多大な犠牲を出し衰退するなかで、実質、唐、新羅と内通したとも言われる大和の勢力が体を入れ替え、近畿王権を確立して行く。
後に行基は大僧正にもなるが、この転換期に彼は生き、初期の大和朝廷は彼を徹底的に弾圧していた。
平城遷都後に私僧を統制するという話が『続日本紀』に出てくる。
“行基と弟子どもは巷に群れ集まりみだりに因果応報、輪廻転生を説き、徒党を組み説法をしては物を乞い百姓を惑わしている。このため僧も民衆も乱れ騒ぎ人々は仕事をしようともしない。釈尊の教えに反き、一方で法を破っている。”というのである。
しかし、行基は抵抗運動を続けた。彼らは集団化し朝廷をも脅かす勢力へとのし上がっていったのである。
朝廷が行基の集団を弾圧したのは、単に信徒の数がふくれ上がったという理由だけではなく行基らの集団が奈良王朝の根本・律令制度を否定する行動をとったからであった。
律令制度は民衆の定住と農耕前提につくられており、非定着民を制度に組入れなかったが、重い税や労役にあえぎ、苦しみながらも税を都に運ぶ人々のために、行基は各地に橋を架け布施屋とよばれる救護所をつくり布教に努めたのであった。
当然、民衆の支持は高まり、ついには、朝廷にとって無視できぬ存在となっていったのである。律令国家の“資源”であった民が僧形(優婆塞)となり、農地を捨て漂泊するようになっていったからである。
朝廷公認の正式な僧は納税の義務は免除されるが、私僧はそのかぎりではなく、彼らの僧形と漂泊は朝廷に対する反抗と見なされて行くことになる。つまり、彼らの運動が無限に広がれば、律令制度はおろか国家自体が消滅しかねないほどの重大事だったのである。
ところが、朝廷の行基らに対する態度は逆転することになる。
『続日本紀』天平十三年(741)冬十月の条には、奈良の北方木津に橋を架けるのに、畿内と諸国の優婆塞たちを召集し使役したとあり、そこで、彼ら七百五人をすべて正式に僧として認めるとする記述が出てくる。この記事が藤原広嗣の乱の時期とも重なることから関係がありそうで、反藤原を標榜し実権を握った聖武政権が、それまで弾圧していた行基らの活動と連携しようとしたのかもしれない。
問題はこの行基の背景である。動きから見て、近畿にも展開した九州王朝系の勢力、従って九州の高良大社との関係が考えられるのである。
河上山實相院は行基によるとするが、当然にもその時代に天台、真言はない。今でこそ真言であるが以前は天台のはずであり、この九州の天台系の多くが、後にかなりの寺領を失っており、それが筑前琵琶や盲僧を生み出したと考えられるのである。