553 淀 姫 ③(前)
20131122(20171227再編集)
太宰府地名研究会(日田市)古川 清久
⑤ フィールドから見た上無津呂の淀姫神社
まず、淀姫神社は上無津呂川(神水川)に相尾と川頭の二方向から十字型に支流が集る落合の集落(言うまでもなく落合の意味は川合の地から付されたもの)に置かれ、御塩井汲みは神水川で行なわれている。
鳥居は肥前鳥居の延長にあり、有明海沿岸に多く認められる三本下がりの注連縄が張られている。本殿の千木角は上部が横切りにされ、祀神が女性の神様であることを示している。
また、参拝殿右手には土俵が設えられており、奉祭する一族に海人族が多数含まれていることを今に伝えている。
今回の千五百年祭に併せ神幕が新調されていたが、以前の十六葉菊から左三つ巴(住吉大神)に替えられているのは興味深い。明治期から本来の形に戻ったものと理解している。
これにより、本殿欄干や屋根の左三つ巴との整合性が取れることになった。
淀姫神社が淀姫を祀ってあることの痕跡は、今のところ鯰の置物が相撲場に置かれている以外にはない。社名が上無津呂神社とでもなり置物がなくなれば、淀姫神社の痕跡はなくなってしまう。
本殿の神殿内については垣間見る機会を得なかったことから云々できないが、欄干には、左三つ巴に併せ、あまり見かけない左二つ巴に、中津の薦神社と同じ左一つ巴が並び、驚くことに剣付きの木瓜紋までが確認できる。三種類の巴紋の意味は全く見当が付かないが(中津の薦神社も本殿に三種の巴紋が認められる)、少なくとも、左三つ巴と剣付き木瓜紋が揃って確認できることから、高良玉垂命の後裔と自認する神代勝利の一族が高良大社の神紋を本殿に刻んだと考えられるのである。これらのことから、現在の祭神に淀姫の名が消えていることの説明が付くような気がしている。
神代一族は、今後も続く龍造寺氏との戦いに備え、より強い神の加護、後楯を必要とし、それを察知した嘉村の一族の側から豊玉姫、玉依姫への変更が申し出られたのではないかと考えている。
⑤ 熊襲タケルが酒宴を行なっていた大和町大願寺
大和町大字川上には通称大願寺と呼ばれる地区があり、真言宗御室派 真手山 健福寺 という古刹がある。
この寺の昭和四十九年の寺報「健福寺」落慶法要記念号に「大願寺の伝説」として“大和町大願寺で酒宴中の熊襲タケルが小碓尊(こうずのみこと)に討たれた”と書かれ、さらに「熊襲の墓が境内にあるといわれているが勿論元真手山にあった時代であるので彼の地一帯を調査する必要がある」とも書き留められている(添付資料参照)。
一方、昭和五十年の旧「大和町史」657pにも伝説・民話の先頭に、1川上たけると真手(大願寺)として同じ内容の記事がある(添付資料参照)。
「大和町史」の川上タケルの記事のことは以前から知っていたが、熊本の九州王朝論者、故平野雅廣(日+廣)の「倭国史談」所収の「異説ヤマトタケル」(添付資料参照)を読むまでは本格的には考えてはいなかった。
境内には巨大な礎石が残る九州王朝の廃寺か? 佐賀市による掲示板
佐賀市の案内板にもヤマトタケルの記事はない(合併の成果)。荒唐無稽とされたか?
この伝承を残す健福寺も、現在でこそ真言宗御室派ではあるが、古くは前述の實相院と同様の天台系であり、健福寺の山門付近には、この山には行基に従う千坊があったとの掲示板も置かれている。
淀姫神社の祭神を考察する上での重要な資料と考えている。
九州王朝論の立場から高良大社を研究する者からすれば、川上の淀姫神社周辺に濃厚な熊襲の痕跡を確認できたことになることから、熊襲内部、実は九州王朝内部での抗争としての「ヤマトタケル伝承」とその後の支配が多少は見えてきた。
松野連系図と百嶋神代系図とを合せ考えれば、学会通説に封じ込められた謎が多少は解れるのではないかと考えている。
つまり、淀姫神社とは、滅ぼされた「川上タケル」を封じるために、安曇磯羅=表筒男命の妃となった=川上タケルの妹豊(ユタ)=姫を合せ祀ったものであり(そのため河上の淀姫の本殿の千木は男神を示し、大明神と二人の神が祀られているのである)、そして、それを沈め祀るものとして派遣された大祝が「高良玉垂宮神秘書」に書かれる神功皇后の二人の妹の一人豊(トヨ)姫が混同されたのではないかという推測が見えてきた。
繰り返すが、その河上の淀姫を遡る縁起をもつ上無津呂の淀姫神社は、神代一族によって、本来、逆賊川上タケルが下無津呂の乳母神社に祀られ、順神として安曇磯羅の妃となった川上タケルの妹豊(ユタ)姫が上無津呂に祀られていたものを、龍造寺との決戦に際して、逆賊では勝てないと判断したか、神功皇后よりもさらに上回る神威を持つ神武天皇の母君、祖母君を神代一族の守護神として合せ祀ったのではないかと考えている。
その証拠に、下無津呂の乳母神社の千木は男神を示しているのである(写真参照)。
今回はヤマトタケルの熊襲退治という誰でも知っている話の舞台が佐賀の川上峡一帯であったという話に多くの頁を費やした。
荒唐無稽な話と片付けることは容易いが、ではそう主張した者に「では、それはどこで起こったことなのか」と問えば、良くて、熊本、悪ければ鹿児島を上げ具体的な話は一切出てこない。はたまた、最初からそれは神話でしかなく架空の話であると言うことであろう。
しかし、この地には微かながらも具体性を持った痕跡があるのである。
文科省、神社庁に尾を振る教育委員会や既存の郷土史会は、どれだけ『古事記』『日本書紀』に精通しているかを権威の拠り所としていることから始めから無視するであろう。
戦後、科学性を看板に登場した津田左右吉以下の国史学者は、手のひらを返すように、第二代から第九代までの天皇は全て架空であり、まじめに考えるに値しないとし、それを取り扱うものは歴史を知らない者であるとした。
我々は、そのような権威とは一切関係がないため、何と言われようが構わないが、右の百嶋神代系図には、河上タケルと淀姫の年齢差までも判別できるのである。
さらに、河上タケル、従って淀姫が贈)孝昭天皇=海幸彦=阿蘇の草壁吉見神社(雲南省、海南島)とヒコホホデミ=山幸彦(半島系)→ウガヤフキアエズの両方の流れを持つ一族であることまで読み取れるのである。詳細は百嶋由一郎講演全集(MP3音声CD/\2000)を。