20131122(20171227再編集)
太宰府地名研究会(日田市)古川 清久⑭ 神代一族を受け入れた三瀬氏とは何か?
神代勝利の一族が高良大社の大祝の鏡山家であったことは既に述べたが、では、その鏡山家を受け入れた三瀬氏とは何か?が次に問題となる。
角川の「日本地名大事典」には、みつせ三瀬(三瀬村)として、文永元(1263)年に東国から入ってきた野田周防守大江清秀とその一族が、三瀬トンネルに近い杉神社辺りに拠点を置いた。
まだ、この全貌は掴めないでいるが、国東半島一帯の神社を調べていると多少思い当たることがあった。
姫島の正面に位置する伊美周辺には石清水八幡系の神社(伊美別宮社、岩倉社、岐部神社・・・しかし実態は高良神社)が多い。
国東半島全域が紀氏の領域ともいわれ、旧橘一族に連なる人々が数多く住み着いていた。
この周防の正面でもある伊美の一画に野田という集落がある。何よりも高良神社を奉祭する一族であることから、もしも、三瀬氏がこの氏族の一派であったとすると、高良大社の鏡山家を受入れ、肥前山内統合のシンボルとしたことの理由が見えてくるのである。
これについては、関係する親族関係とか家紋、家伝、信仰する宗派などさらに詳しく調べる必要があるが、当面は決め手がなく仮説として留めておきたい。
どうも鎌倉から戦国期に肥前山内に集り楯籠もった人々とは、大和朝廷に先行した古代王権に繋がる人々であり、それ故に強固な結束力を持ったのではないかと思えてならない。
勿論、目的は久留米の高良山の奪還であり、九州王朝の再興であっただろう。
この以降の内容については、「法隆寺は移築された」を書いた米田良三氏の「長谷寺」に関連するため、別稿「発瀬」の課題としたい。
⑤ 上無津呂の淀姫神社の九郎社とは何か?
これについては、賛同を得られないことを覚悟の上で紹介しておきたい。
三瀬村に隣接して脊振村、東脊振村があるが、この一帯には謎の多い「九郎社」がいくつか置かれているばかりか静御膳の墓なるものまである。
普通は無視しそうな内容ではあるが、実は淀姫=河上タケルの妹説を示している故百嶋由一郎氏は、以前、「静は臼杵の地頭の娘であり、身ごもった義経の子を津屋崎で生み、その義経の血を引く子は臼杵で地頭職を継いだ」と語っていた。
故百嶋翁は連絡を取っておられ、その一族を研究する団体があると聴いていたが、当方は連絡を取れていない。
当初、境内にある「九郎社」は神代勝利の兄弟の孫九郎と考えていた(神代系図を参照のこと)が、十年前まで佐賀大学教授であった大矢野栄治氏の九郎判官義経=少仁説の証拠の一つであることに気付き、神代勝利の戦国期はともかくとして、それより前の鎌倉、室町期の淀姫神社の一面を見た思いがする。
※ 最後になるが、百嶋神代系図には架空とされた欠史八代の天皇ばかりではなく、国史
学者もここからは信用できるとした第10代の贈崇神天皇 和風諡号御間城入彦五十瓊殖(ミマキイリヒコイニエ)『紀』、御真木入日子印恵命(ミマキイリヒコイニエ)『記』 また、御肇國天皇(ハツクニシラススメラミコト)が別名として ツヌガノアラシト、中筒男命、賀茂別井雷とも呼ばれていたことが書かれている。
通説に尾を振る人々にも関心を持つべき内容を含んでいること伝えておきたい。
(追補)
川の中から湯が湧いていた
繰り返す必要はないが、先に、「肉食動物は内臓を捕食することによりミネラルを確保できるが、草食動物は岩の隙間から染み出す鉱泉や温泉の場所を知っており、それなくしては生きて行くことはできない。このため猟師はそのような場所を子孫に伝え、効率的に待ち伏せし獲物を得ていたのである。」「このことから、温泉や鉱泉の効能や安産が結び付けられるのであり、この神水川の水系のどこかにそのような場所があり、海まで行かずとも十分なミネラルが得られていたのかも知れない。」と書いた。
この淀姫神社調査に於いて、本稿の冒頭に書いた例の良医から「何故、神水川と書き、おしおい川と呼ばれているのか、さらには、何故、乳母神社があるのか?」と問われた時に、この山間僻地での塩の重要さと、妊娠、出産、育児にかかわるミネラル塩の貴重さが直ぐに頭に浮かびはしたものの、古湯温泉からさらに十キロ以上も奥に入ったこの地の辺りに具体的な古い鉱泉場の存在も知る由もなく、それ以上筆は伸びなかった。
もちろん、通常の知られた温泉場ばかりではなく、梅毒、淋病が横行した時代には、方々に瘡湯(かさゆ)があったし(淫売買って鼻が落ちる…)、古くは、子宝が授かるお堂の水とか、沸かし湯に遊女まがいのものを置いた怪しげなものまでが至る所に存在した。
もちろん、それらの全てに科学的(医学的)な効能があったはずはないが、太古より長年培われ、土着の経験によって淘汰された効能といったものが確実に存在していた。
しかし、明治以後、ヨーロッパ流の保健衛生の導入と、温泉法(S23)によるある種仮定に基づいた線引きによって需要を奪われ、それらのものから排除され零れ落ちていった冷泉、鉱泉(ここでは法的な意味ではない)といったものも数多く存在していたのである。
無論、これらの存在についての知識は土地のものでなければ解らないが、古老というものは実に有難いものであり、今でも十人ほどに聴けば、まだ、彼らが子供の頃、彼らの祖父母辺りから聞いた話といった百数十年前まであたりの記憶が回収できるものなのである。
従って、そうした地域の知識を持たない者が限られた土地を云々することの危うさは、この一事でも明らかだが、神水川、おしおい川、乳母神社の三点セットは、それだけで、ミネラルを意識させるには十分過ぎるものがあった。
始め、この点に関する聴き取りを行いはしたものの、限られた範囲でしかなかったことから分からなかったのは当然であったが、その後、上無津呂の淀姫の千五百年祭、下無津呂の乳母神社のお祭りの注連縄造りから直会の準備にまで参加するに至り、色々な聴き取りをしてくるうちに、ようやくその核心に近づくことができるようになった。
それは、例の良医先生に”乳母神社の前で泳いでいたか?”と問うたことから始まった。
およそ半世紀前の下無津呂に、海などというものは一日掛けて泊まり込みでもめったには行けないものであり、泳ぐと言えば川以外にはないのであったが、あれほど冷たい川の中で、熱水とは言わないまでも”多少とも暖かく感じる湯水が沸くところがあった”と話し出したのである。
”おいおい、そんな話はもっと早く言ってもらえば…”というのが本音であったが、このミネラルの話はそれなりの関心を持っていないと思い至らないのが当然であり、まずは、核心に迫るには場数が必要という良い例であろう。
当然ながら、ほんの五十年前までは、ここでも牛が田を起こしていたであろうが、馬や牛を飼うにも塩が必要で、古代に於ける海岸部の官牧(かんまき)などは問題ないとしても、それなりのミネラル塩が染み出すような岩盤の割れ目とか、塩気のある沼地といったものがなければ牛馬の繁殖などはできないのが道理であった。
このようなことは一般の知識からは既に消え失せているが、地区に、神水川、おしおい、川、乳母神社の三点セットがある以上、そのような場所が地区のどこかにはあった可能性は高いはずなのであった。
試みてはいないが、まずは、小字名などを調べれば、水場、宇土手、潮、塩浸し…といった類のものが拾えるのかもしれない。
話によると、現在の神水川には乳母神社本殿の裏にそれほど大きくはないものの渕があるが、そこが隣の真那古集落も含めた水場であったが、泳いでいると温水が沸いていたというのである。当然ながら、それ以外にもそういう場所があると考え、祭りの準備をしていた氏子の数人に話を聞いてみた。
雪の日にここだけは早く融けるとか、霜が降らないとかいった場所はなかったか?と問うと、間髪入れず、川向うのテニス・コートのところ…との答えが返ってきた。
まだ、このような知識が保持されているということは、水田にした時の米の収量に直結する重要な情報であるからであり、もしかしたら大昔はこの辺りからかなりの高温泉も、出ていたのかも知れない。
嘉瀬川は花崗岩質の岩盤を切り裂いて佐賀平野に流れ下っている。今でも下流から、川上峡温泉、熊の川温泉、古湯温泉が操業中である。
もちろん、川のそばに泉源が集中しているのだが、ここに限らず、筑後川水系においても、川のそばに温泉が集中していることは、原鶴、筑後川、日田、天瀬、杖立の例を持ち出すまでもないだろう。
温泉の形成には色々なケースがあるが、多いものは地殻の割れ目に雨水が流れ込み、地下のマグマと地下水となった水が接触するものがある。そもそも、地表にある川も地殻の割れ目(大地の罅割れ)に雨水が流れ込んだものであるし、川沿いに温泉が多いのはそのためである。
こうして、地下のマグマと接触することにより地表に現れることになった金属を含む多くのミネラルが、山間に住む草食動物や僻地に生きる人間にも供給されるのである。
温泉やミネラルを含んだ冷鉱泉は、まさに、山に住む人生にとってこそ霊泉となったのである。
藻塩のなごりか?
現在、明確な形では確認できないものの、この真那古から無津呂に掛けての一帯には、日常の食生活に必要な食塩はともかくも、人間と家畜の再生産に関わるミネラル塩の供給には有利な土地であったのかも知れない。
七一三年に所謂「好字令」が出され、以後、地名には好字二字とするとされることになるが、どのように見ても「真那古」「無津呂」は、それ以前に成立した古い集落に思える。これは、同時に、上無津呂の淀姫神社の創起が一五〇〇年前に遡ることの信憑性をある程度示している。
最低でも、あの集落の水を飲んでさえいれば、「子宝に恵まれ、安産で、丈夫な子が育つ…」ぐらいの話は、積み重ねられた経験によって確認され、本当に優れた水であったならば、産婆(取り上げ婆)のネット・ワークによって肥前一国ぐらいには直ちに広がったことであろう。
祭りの準備をしていて色々と気付いたことがあった。それは、民俗学的テーマとなることからここでは避けるが、もう一つ、海水を入れた竹筒に海藻を被せたものが準備されていた。それは、まさしくこの乳母神社意味を強く象徴しているものであった。
海水と藻となると、直ぐに思い浮かぶのは、藻塩(モジオ)意外にはない。
「万葉集」に限らず、古今、新古今などにも多くの焼塩が登場する。
まずは、身近なところから(巻3-278)、
「志賀の海女は藻(め)刈り塩焼き暇(いとま)なみ櫛笥(くしげ)の小櫛取りも見なくに」
志賀島の海女は海藻を刈り、塩を焼き休みなしに働いて
いることから櫛箱の櫛を取り出して身繕いする暇もない
このように、海から海藻を採り、天日で乾かし簀(す)に積み上げ、何度も何度も海水を汲み上げては、掛け、塩の濃度を上げて火で焼く作業を「藻塩焼く」という。
古代の山村の集落においては、いかに、藻塩が重要であり貴重であったかが分かる瞬間でもあった。ベージュ色の藻煎りの塩は、ヨウ素を含み、より一層生体の維持に重要な資源であったことが分かるが、ヨードをはじめ、カルシウム、カリウム、マグネシウムと海藻に溶け込んだ豊富なミネラルをいかに山村の民が求め、長野峠を通じ、山内への塩の供給路の中継地としての無津呂の地の重要性、もしくは支配性が見えたのであった。